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【小説】小指の神様-②Missing

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第二話

 古希を迎えてから、梢さんはときに不可解な言動を見せるようになった。日付や曜日を忘れたり、歯医者の予約日を間違えたり、透けたの着物を冬に着たり。

 勘違いにしては大事だけど、ほうけているというには真面まともだった。

 一人で買物も行けたし、煮物の味付けも安定していた。着付けや色合わせも小粋で、婦人会の友人と旅行を楽しんでいた。

 相談した掛かり付け医も「加齢による健忘の範囲」というので安堵したが、もしかしたら気づかないうちに涵々ひたひたと、梢さんの中で何かが分水嶺ぶんすいれいを越えていたのかもしれない。


 あの日、仕事帰りの八時半ごろ、梢さん宅に寄った。

 その時間帯、彼女は台所で書き物をすることが多かったけれど、珍しく見当たらないので所在を求めて明かりが漏れる座敷のふすまを開けた。

 そこには虹が裸足で疾走したような色彩が渦を巻いていた。

 縁側から十二じょうの畳の上、床の間に至るまでおびただしい数の着物がまき散らかされ、その上を幾筋もの帯が縦横無尽に広がっている。

花車、雲取
毬、蝶、雪輪
青海波、牡丹、桜、鳳凰、御所解

 氾濫はんらんする景色を前に、私は立ち尽くした。

 ややあって右手側に足袋たびの小山があることに気づく。その頂上になにやら小物が転がっている。かがんで手にすると、木彫りの猿の根付だった。

 猿は両手で、柿をむさぼっていた。

 歯を剝きだして果実を齧る猿と目が合って、なぜだか私はけらけら笑い出した。そんな自分をたしなめつつも止められないまま、その場へとたり込む。

 ― 梢さんは…

 残暑に負けた生暖かい風が頬をかすめていく。未だに震える笑声えごえを抑えて、開いたままのガラス障子の向こうに延びる暗い庭を見つめながら母に電話をした。


 そのあとの記憶は霞んでいる。

 たしか座敷が荒れていたこともあって警察を呼んた。除外捜査のために指紋を取られて、現場検証のときか後日かに、梢さんの行方不明者届も提出した。

通帳も貴金属も現金も
全部いつもの場所にあったのよ

 母が言う通り、盗られたものはなさそうだった。着物が盗まれたかは定かでないけど、今どき金品より着物を狙う泥棒がいるとは考えにくい。

 ただその後、事件性がないとわかってから、ふいに母が気づいた。着物が一枚、消えていることに。それは私が成人式に着た千總ちそう振袖だった。

 失踪当時、梢さんは、お気に入りの久米島紬を着ていたらしい。その日常着と対をなす晴着の不在について、やや動転が収まってから思い至ったようだ。

 ― あの振袖?

 私は首をかしげた。

 そして何かを思い出しかけて掴もうとしたとたん、それはしゅるしゅると音を立てて深度の高い場所へと逃げていった。まだ閉じていたい記憶を無碍に掘り起こすほどせっかちではないので、すんなりと手放す。

 その代わり目を閉じると、屋敷裏を流れる鯉川の縁を走る梢さんの後ろ姿が見えた。あたりはすでに暗い。

 銀色に光る長い白髪を振り乱し、小石につまづいて蹌踉よろめきながら駆ける老女は、白地に紅い束ね熨斗のし柄の振袖を着ている。

梢さん!
私は叫んだ

 振り向いた女性の顔はふやけて見えない。

 幻影の中ですら捕えられない彼女の面影を追って、私たちは思いつく限りの寄り場所を探した。

 駅、公園、行きつけの喫茶店、呉服屋さん、敬老クラブ

 知人や親戚宅も訪ねたけど、いくら捜索しても警察からも本人からも音沙汰はなく、日常を失った毎日が過ぎていくうちに、そんな毎日が日常の顔をするようになった。

 そうして貧相な月日だけが流れていった。

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