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"ただごと歌"はなぜダメなのか

 「幼児の視点を純粋な視点と勝手に変換しているようなもの、子供が見たまま、そのままを言葉にするということが無条件に尊いという幻想に囚われている」

 ミルクさんの感想はいつも的確で辛辣ですが、この”ただごと歌”に対する考えも痛い所を突いているようです。
ただごと歌と言えば奥村晃作さんが最も有名でしょう。

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文具店に行く
奥村晃作『鴇色の足』 本阿弥書店

この歌は「ただごと歌」などではない!と声高に言われる方もいらっしゃるようですが、確かに、ただごと歌などではありません。って言うか短歌ですらありません。ただのつぶやき以外の何でもないではありませんか。どの歌もそうですが、小さくなった主人公のスノードームの中の出来事にいちいち反応できるほど皆ヒマではないのです。
おまけにタチの悪い旧仮名使い、採点どころか、師匠なら答案用紙とも認めないと言いそうな気配です。

 ”事象のカステラの断面”というミルクさんの短歌像に著されるように、何かの断面を発見することは、作歌にとってとても重要なことだと解ります。しかし勘違いしてはいけないのが、「ここだよ、ここからはこう見えたんだよ!」という”自分の発見”なのだという安直な優越感や「大人になったらなかなか気付けないんだよ」というメルヘンチックな幼児性という皮を被った不粋な大人の計算が歌から滲み出てしまうことを避け、その先にある気付きに向かう意思を示せなければ歌にはならないということです。

 自分の生活や自分の周りの世界、自分の嗜好や自分の経験に纏わり付く
 小さな世界 (特に教師という職業の人に多い傾向です)
 何の気付きも洞察ももたらすことのないつぶやき
 かといってすこぶる優れた写実性ももたないただの落書き
 それを優れた短歌などともてはやす"アタオカ"な歌壇

ミルクさんの批判の矛先である現代短歌病の因子を多く内包することから、何度読んでも感想が、「そんなこと知るか!」になるのだと思います。

ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
石川啄木『一握の砂』

 誰もがご存知の石川啄木の歌ですが、自身の行動を伴った二つの短歌の決定的な違いは、歌の内容を
「自分だけにしか起こらないただの日常」に貶めてしまう と、
歌の内容を「多くの人の心に郷愁を導く導火線」に昇華させている の違いだと言えると思います。

「ミツビシ」という固有名詞の強さに引きずられて、行動は自分だけの事象に成り下がっています。おまけにコアとなる要素がボールペンや、文具店でなくても成立するほど、報告日記感が色濃く出てしまっています。啄木の歌では”ふるさと”は代えられても、訛りと停車場は不変です。何だか自分だけが度のピッタリ合ったメガネをかけてくっきりはっきりとした景色を見ているのだという幻想にも似ている”ただごと歌”と、視覚はおろか嗅覚や聴覚、触覚などあらゆる感覚器官がふるさとを希求しているかのように臨場感をもって語られる”慕情歌”とは全く異なるものだと思います。

 クレヨンはぺんてるがよくぺんてるのクレヨン買ひに文具店に行く
 (だから、幼児の日記)

 ちょっとだけその時だけと留めたのにもうクリップは錆びてしまった
(与謝野晶子の呪い わたくしごと の記事より ミルクさんの短歌)

 このクリップの歌もいわば”ただごと”を詠われたものですが、私にはとても他のただごと歌と同じだとは読めません。それはミルクさんがよく考えて言葉を選択して組み立てて作られているからに他なりません。「ちょっとだけ」「その時だけ」そして「もう」という時間感覚の羅列が想定内を想定外に導く見事な仕掛けになっているのです。

 ミルクさんはおっしゃいます。
 幼児の視点を装うだけのただごと歌を短歌と認めてしまうと、世の中のすべての事柄がまるで禅問答のような短歌に置き換えられてしまい、収集がつかなくなってしまうでしょう。「なぜお日様は燃えているの?」とか、「なぜクモは足が8つもあるの?」とか、子供電話相談室の問いかけや、夏休みの草花発見日記にも似た歌が展開されても、一向に「その先」へは繋がりません。センスオブワンダーに価値がないとは思いませんが、
それは自分だけの発見などではなく、観た者、聴いた者、触れた者(人に限らず)すべてが感じるものでなければ、わざわざ歌に込める意味が無くなってしまいます。

 万物の→生き物の→人類の→わが国の→世間の→わが家の→私の というように歌の内容が自分に近くなればなるほど、短歌は簡単に日記に変わっていってしまいます。自分に纏わり付いた、自分しか解らない世界の日記は、昨今のSNSでもうたくさんだと思うのですが・・・。
 と、終始呆れたご様子でした。

 このやりとりの最後には、またまた「ミルクさんの解答」とも言うべき短歌が綴られていましたが、”ただごと”の中に人の傲慢さを憂い、そして戒める示唆が見事に組み込まれていました。(師匠はやはりさすがです。)

・「カワイイね」「良い子だね」と崇められ幼女は幾度も蟻踏みつぶす

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/