奥羽越列藩同盟(1/5)
はじめに
「奥羽越列藩同盟」をご存じでしょうか。
幕末のほんの僅かな期間だけ存在した同盟です。
聞いた事があるという方でも、意外と成立の経緯などを勘違いされている場合も多く、僕自身も詳細を知らなかったのでまとめてみました。
このように、薩長と戦うために奥羽越諸藩が軍事同盟を結んだものと思われがちですが、違います。
結論から言うと実際はこのような流れです。
では奥羽越列藩同盟とはどのような同盟だったのか、見てみましょう。
結成前夜
1867年(慶応3年)10月14日、薩長両藩に倒幕の密勅が下ります。
これで薩長は幕府に対して軍事クーデターを起こす大義名分を得ました。
ところがこれを察知した将軍慶喜は、同じ日に大政奉還を行いました。
政権を朝廷へ返してしまったのです。
これにより薩長は、拳を振り上げたものの、降ろすことができなくなりました。
徳川家が政権を返したのであれば薩長のクーデターは成功では?と思いますが、実はそんな事はありません。
長い間政治を行ってこなかった朝廷が、突然政権を渡されても運営できるわけがありません。
現実的には全国の大名に政治を委任する事になります。
そうなると、必然的に領地も兵力も一番大きな徳川家が、改めて権力の座に就く可能性が高くなります。
慶喜はそれを見越して、政権を返上したのでした。
困ったのは薩長です。このままでは元の木阿弥です。
そこで薩長は、京都周辺に兵力を集めつつ、旧幕府に対して慶喜の内大臣辞退と徳川家の領地を全て朝廷に返すよう求めます(辞官納地)。
こうなると旧幕府側も薩長と白黒つけようという動きになります。
ついには慶喜も抑えきれなくなり、大阪城に移った慶喜は兵を集めました。
1868年(明治元年)1月2日、会津、桑名両藩と旧旗本を主力とする旧幕府軍と鳥羽伏見を守る薩長軍とが衝突しました。
数で劣る薩長軍でしたが、兵器の質に勝る薩長軍の圧勝となり、慶喜は江戸へ逃げ出し旧幕府軍は敗走しました。
朝廷は徳川家や会津藩を朝敵と宣言し、ほとんどの西国大名は朝廷側に服従の態度を取りました。
1868年1月17日、仙台藩に会津追討の命が下りました。
ついこの前まで幕府に従っていた隣同士の藩です。何の恨みも無いのに攻めろと言われても困ります。
仙台藩では、徳川家や会津藩を救おうと新政府軍に建白書を提出しようとしましたが、京都に着いた時には既に会津討伐のための奥羽鎮撫軍が編成されており、間に合いませんでした。
やがて鎮撫総督 左大臣九条道孝、副総督 三位澤為量、参謀 少将醍醐忠順、下参謀 世良修蔵、大山綱良 を要する鎮撫軍800人が京都を出発し、3月23日仙台入りしました。
こうして仙台藩は会津討伐の先鋒を努めなければいけない立場に追い込まれました。
その2へつづく
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