Over the Tears:なみだを越えて
泣くこと=涙を流すこと。
人間の生理現象のひとつなのに、わたしにとっては課題というか、越えられない壁みたいなものだ。「ここで泣けたらいいのにな」という場面で涙がでることは皆無に等しい。「しくしく」という擬音語は、わたしにとっては痛みを表すことばに分類されているくらいだ。
そんな、泣くこと、涙について、ふと書きたくなった。
みなさんはどんな時に泣きますか?泣けますか?
家族をのぞく人前で最後に泣いたのはいつだろう。思い出そうとしても思い浮かばないくらいだ。おそらく、小学校低学年が最後ではないかと思う。それも幼なじみの家で遊んでいたときにいじわるをされたときくらい。
小学校3・4年くらいからいじめに遭っていたのだけど、学校で泣いたことはない。むしろ、いわゆる「女の涙」みたいなものを初めて認識したのがこの頃かもしれない。涙って、こういう使われ方するんだ、みたいな。
だからこそ、どんなにつらくても、人前で泣かないくせがついてしまった。なんというか、この状況・場面で泣いたら負けみたいな気持ちが自分の中にふつふつと湧きあがってきて、泣くのを堪えられるようになってしまった。泣いたところで状況は何も変わらなくて、彼女たちがわたしをターゲットにする行為はきっと、TMGEのチバさんが「ガールフレンド」で歌っているように、そこに理由はないだと思った。
中学時代もずっといじめに遭っていたけど、堪えなくても、こぼれる気配など全くなかった。泣けない身体になってしまったのかと思うくらい。
親とケンカしたり、そういう場面では泣いていたのでそういうわけではなかったのだけど、泣くといえば、親に𠮟られたときだけになっていた。この時はむしろ、泣きたくなくても勝手に溢れてくるので逆に困っていた。
家の中で、𠮟られる以外では、家族のことで泣いていたことが多かった気がする。15の時に家族がバラバラになりはじめ、16の時両親が別居、17で離婚した。いつか書こうと思っているくらい、わたしはこの家族と幼少期~義務教育期間中をとても狭い世界で生きていたけれど、なじみにある形態が壊れることにひどく抵抗し、泣きながらNOを叫んでいた。それは結果として叶わなかったけれど。この頃が、年間なみだ消費量のピークだったかもしれない。それくらい、顔をぐしゃぐしゃにして、頭が痛くなるまで泣いていた。
「泣けたらいいのに泣けない」場面として、悲しいときがある。
高校の時、父方の祖父が亡くなったという連絡があったとき、電話を切った後号泣した。正月3が日で祖父のいる九州まで飛行機のチケットが取れず、葬儀に参列できなかったこともあるが、遠方で会うことが少なかったけれど、わたしはおじいちゃん子であったのもあり、母が引くくらい泣いた。
しかし、そのあと、父方の祖母、母方の祖母が亡くなったとき、葬儀に参列して泣いてない親族はわたしだけではないかというくらい、泣けなかった。悲しくないわけではないのに、周りが泣いている状況で、絞り出しても一滴も出ない涙に、違う苦しさを感じていた。
わたしって薄情者なのかもしれない。
だって、この状況で泣けないんだよ?
決して悲しくないわけでないのに、
それを表すことができないんだもの。
わたしがことばを書くようになり、最初に自信につけたペンネームは「滴露 泪(しずく るい)」だ。意味は「なみだの雫」。
リアルに泣けない自分にとって、なみだはとても貴重な存在だった。
読んでくれた人がこころのなみだを流せるような、そんな言葉を書き、表現ができるようになりたいと願いを込めた。
ちょうどその頃、ことばを書き溜めるノートを付け始め、そのタイトルが「over the tears」だった。この時は「なみだを越えて」のつもりで付けたけれど、越えるなら「beyond」だよなと、今なら思う。このまま訳せば「なみだの彼方に」で、それはそれでいい意味だ、とも思ったり。
久しぶりに開いてみたら、最初に書いたのは1997年、16のときだった。
一行だけの走り書きの時もあれば、複数ページに渡りびっしり書いている時も。その頃そんなこと考えていたんだって思うこともあれば、今も同じように思っているということもあったり。
17でペンネームを「青星(sei)」に変えた後も、しばらくは同じタイトルで書いていて、2冊目を終えた後、ペンネーム同様「blue star」に変わった。
名前は変わっても、心の琴線に触れてなみだを流せるような、そんな表現をしたい気持ちに変わりはなかった。せめて心くらい、泣けたらと願った。
ちなみに、久しぶりに開いたover the tears1冊目に、こんなことが書いてあった。
(前略)
このつまらなく乾いた日常に
カンドウというものを求めているのかもしれない。
Lui線のゆるくないあたしなりの
"ナミダ"をさがしているのかもしれない。
(中略)
あたしの、あたしなりの
"ナミダ"をさがしている。
目からは流れない、幻のナミダを。
心のLui線のみしってるナミダ。
あたしはこのナミダを
流すことができるのだろうか。
人前で泣けないはずっと続き、わたしの泣いている姿を見たことがある人に、恋人が加わったくらいだ。かといって、わたしが泣く理由はケンカしたときということに変わりなし。隣で感動しておいおい泣いている恋人を見ても、同じく感動しているのに泣けない自分に興ざめしていた。なみだのボキャブラリーが増えないまま、年齢だけ重ねていった。だから、泣くことについて、あきらめにも似た感情を持ち始めていた。
30で結婚し、歳をとったせいか、感動する場面で訳もなく泣いてしまうことが増えた。家の中限定ではあったけど、なみだのボキャブラリーが増えたのか?単なる老化現象のひとつなのか?などと思っていたり。
今思えば、わたしが結婚した理由に起因していた気がしなくもない。noteの中で触れることはきっとないけど、結婚した理由は相手を人間にすることだったから。喜怒哀楽を取り戻させる過程で自分も泣くことができるようになったのかもしれないと思えば、説明がつく。
家族や恋人以外で、唯一泣いてしまった場面が一つだけある。それは今のところ、後にも先にも、直属上司にパワハラを受けていた時だ。
当時勤めていた会社は社内に常駐しているのは間接部門だけで、社長も含め小さな部屋にわたしを入れて5人程度の閉鎖的な場所であった。数か月入社が早い、一回り以上離れた女性の先輩は女の武器みたいに涙を使う人で、コントロールできるのはある意味凄いと思っていた。(決して褒めてない)
その先輩が半ば職務放棄みたく会社を休み、もともと人数の少ない部署にも関わらず人員補充をせず、直属上司は負担を増やすばかりで助けてもくれず。挙句、追い詰めるようなことを、社長が不在の二人きりの時に言うようになった。その時、恐怖のあまり、無意識に涙がこぼれてしまったのだ。
泣いてしまったことに動揺したのはわたしのほうで、泣いたことを叱責され、さらに追い詰められた。時には社内の一番使わないフロアに呼ばれ、時には大学の新卒採用学内説明会に向かう車の中で問い詰められ、恐怖のあまり涙していた。学内説明会の際は、これから学生さんに会うのに、落ち着く時間すら与えられず、本当につらい思いをした。
結果身体が悲鳴を上げ、休職を経て退職をしたが、未だにフラッシュバックを起こすくらい、つらい記憶だ。
そんなわたしが、去年離婚し、身の回りの環境が大きく変わったことがきっかけなのか、突然なみだのボキャブラリーが増えた。
最初にそう感じたのは、映画館で、号泣といっても過言ではないくらい泣いた。しかも、観た映画は、他の人が観たらそこまで泣くような話ではない。ちょうど自分の身に起きたことにリンクする内容が多かったからか、一度涙がこぼれたら、堰を切ったように止まらなくなり。泣いている自分に動揺しつつ、主人公への感情移入が止まらない。こんなこと初めてだった。
また、年末にとあるドラマを一気見したとき、「傷」について考えさせられる内容で、ベッドの中でいろいろ振り返っていたら、泣いていたのだ。
最初は何で泣いているのかわからなかったけど、やっと泣けたのだと思ったら、すっきりするまで泣けた。すごく楽になった。
そして眠りにつき、明け方に再度目が覚めてしまい眠れなくなったとき。頭の中に別のことがぐるぐるしはじめ、また泣いてしまった。
明け方の涙の理由に気づいたとき、わたしってやっと人間になったのかなって思った。おおよそ、生まれて初めての感情に等しいものだったから。そんな感情、わたしに生まれるなんて予想外すぎて、驚くなんて言葉でとても収まりきらない。そして、とても苦しくなった。
もう一つ、小説を読んで泣けるようになったことも驚きだった。子供のころから読書がすきだったけど、本を読んで泣いたのは人生で初めてだった。
休職していた時に「のだめカンタービレ」を一気読みしていたら途中で涙が出てきて、のだめって泣ける話だっけ?と思ったことはあるのだけど、その時はこころが弱っているからだと思った。
ちなみに泣いた小説は、岩井俊二さんの「ラストレター」。
2020年は間違いなく、人生で一番「ちゃんと泣けた」年で、一番泣いていると思う。夜中に、自分に生まれてしまった新しい感情で涙したことが数回はある。これだけで充分、今までと違う。そんな感情をわたしにもたらした存在について、自分のなかではっきりと分かっている。気づかずにいた方がよかったのかな、なんて思うけど。
泣くことは心身の健康によい、なんて耳にすることも多い。それについては否定しないし、むしろ同意だ。ただ、わたしは相変わらず人前で泣けないし、涙をコントロールできない。泣きたいときには泣けないままだ。
けれど、なみだのボキャブラリーは増やすことができた。それでいいのかもしれない。涙って、別に人に見せるものでもないしね。
最近思うのは、うれし泣きができるのだろうか、ということ。できれば、つらいとき以外で、うれしくて涙が出る経験を、生きているうちに一度くらいしてみたいな、なんて。
その涙の先に見える景色はどんなものだろう。きっと美しいんだろうな。
ここで、わたしのすきな、涙にまつわる曲をご紹介。
BGMにして読んでいただくと面白いかもしれません。
The Birthday/涙がこぼれそう
Massive Attack/Teardrop
ACO/TEARDROP
全然出てこなかった・・・。おすすめの涙song教えてください。
最後に。なみだは、どんな人がどんな状況で流したとしても、基本的にはきれいなものだと思っている。
例えば「女は泣けば済む」みたいな、打算的な涙を出す人もいるかもしれないけど。ドラマみたいなフィクションでない限り、打算的で汚い意味に思える涙も、流した本人にしたら意味がある、きれいなものかもしれないなと。
流れた涙に罪はないというか。そんな風に思っています。あくまで私見。
勢いで書いたので、いつもより長文だけど、中身があるのかはあやしい。
でも、なみだについて、昔からずっと考えているのです。
おしまい
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