映画『エル・スール』 良質な短編小説のような映画……だったけど(ネタバレ感想文 )
ビクトル・エリセ11年ぶり、長編としては31年ぶり、いや、長編ドラマとしては実に41年ぶりの新作『瞳をとじて』公開の便乗企画で上映していたので、いそいそと映画館へ。
2009年以来の再鑑賞。おそらく映画館で観るのは5度目。DVDも持ってるんですけどね。
この映画は、娘視点で「父親が理解できなくなる」物語と、父親が「娘を理解できなくなる」物語が交錯します。
(ナレーションでもあるように母親は印象に残る物語への絡み方はなく、娘の彼氏に至っては姿さえ登場しない。徹底的に「父と娘」の物語だけを抽出している)。
その背景というか原因は複雑かつ難解で、観客には「におわせ」程度にしか明示されず、「それはきっと南にあるのだ!」「私は南を目指す!」ということになるのですが、謎は謎のまま終わるんです。
これ、「実は物語の続きがあって、南に行く後編を撮らせてもらえなかった」という事実が後々判明します。
上述した新作『瞳をとじて』の劇中、映画監督の2作目が「未完のまま」というクダリがあるんですが、エリセにとって長編2作目の本作こそが、その「未完」の作品なのです。
良質な短編小説(あるいはエッセー)のような映画であることは、久しぶりに、そして何度観ても変わらないのですが、「本当は続きがあった」ということを知って観ると、だいぶ印象が変わったのも事実です。
おまけに『ミツバチのささやき』(1973年)で真に描きたかった背景という余計な情報を知ってしまったものだから、なおさら。
つまり、本作でエリセが描きたかったのは、おそらく(やっぱり)スペイン内戦だったんですよ。
いやまあ、ここから書くことは、ほぼ同じことを2009年のニュープリント版鑑賞時に書いてるんですけどね。
この映画の「表の物語」は「娘の成長(現在と未来への希望)」です。
それと同時に「裏の物語」として「父の過去」が描かれるのです。
この裏物語のキーワードに「内戦後の政治体制」ということが出てきます。
父親の乳母が分かりやすく解説してくれる父と祖父の政治思想の対立は、おそらく当時のスペインのイデオロギー構造を象徴しているものと思われます。(教会を嫌っていることから宗教的対立も含むのかもしれません)
北の地で死を選ぶ父と、生きるため(静養のため)南を目指す娘。
互いが理解できなくなり、ある意味「娘による父殺し」とも読み取れます。
それは、体制派(あるいは戦後世代)に抑圧され消えゆく思想(あるいは文化)を象徴しているのかもしれません。
この映画の娘エストレーリャは、『ミツバチのささやき』の姉イザベルと同様に「戦後世代」の象徴なのです。
そして、生後世代による抑圧は「無自覚」に行われている。
ビクトル・エリセはこの映画で「無自覚の圧殺」を描いたのかもしれません。
もしかすると、後編が撮られていたら、その意図がもっと明確化されていたかもしれません。
(2024.03.10 kino cinema新宿にて再鑑賞 ★★★★★)