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映画『エドワード・ヤンの恋愛時代』 まるでウディ・アレン(ネタバレ感想文 )
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私がエドワード・ヤンを好きになったのは、彼が亡くなった後です。
癌でしたかね。7年もの闘病生活の後、2007年に59歳で逝去しています。
結果として遺作となってしまった『ヤンヤン 夏の想い出』(2000年)は若い頃に観ていたんですが、その時はピンとこなかった。
好きになったきっかけは、2017年に4Kレストアされた『牯嶺街少年殺人事件』(1991年)。衝撃の236分。思い出しただけでも鳥肌が立つ。
そして、その後観た『恐怖分子』(86年)で完全にノックアウト。
映画ってこういうこと、ってものをたっぷり魅せてもらった。
他に『台北ストーリー』(85年)も観ているんですが、どれもこれも「台湾」の映画なんですよ。
何を言ってるのかって?
いつも言ってる「映画は時代も国境も越えない」ってやつです。
私は地団駄踏むくらい台湾のことを知らない。
『牯嶺街少年殺人事件』ではその歴史を、本作も含め他の作品では経済成長を遂げた現代(当時)を、とにかく「台湾」の土着性を描いている。
台湾のことが皮膚感覚で分かっていたら、もっともっと面白いに違いない。
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台湾の土着性と並ぶエドワード・ヤンの特性として、私は「静謐」なイメージを持っていました。
今まで観た作品がそうでしたし、エドワード・ヤンの盟友であり台湾ニューシネマを一緒に牽引した侯孝賢(ホウ・シャオシェン)もそうですしね。
ついでに脱線しますが、私、ホウ・シャオシェンは嫌いなんですよ。
あの出来損ないの小津かぶれ。カウリスマキを見習え。
あー、『恋恋風塵』(87年)はリー・ピンビンの撮影が美しいけどね。
それはさておき、この映画は「静謐」とはかけ離れた「しゃべくりコメディー」でした。
かなり意外でした。
でも偶然、本当に偶然、直前に『ハンナとその姉妹』(86年)を観ていたので気付きました。
本作は、ウディ・アレンをやろうとしたんですよ。
そう考えると、ゴチャゴチャした恋愛模様と喋り倒すのも納得できます。
ホウ・シャオシェンがかぶれた小津安二郎はアメリカ映画かぶれでしたが、
(これが小津のアメリカ映画かぶれの典型例)
エドワード・ヤンはガチのアメリカかぶれだったようですから(というかアメリカに住んでいた)、ウディ・アレンを模倣しても何の不思議もない。
実際この映画では、主人公のチチにオードリー・ヘプバーンのイメージを重ねてアメリカかぶれを自ら告白します。彼女のバックにオードリーのポスターが貼られているシーンがあるんですよね。
同じように、チャップリンのポスターが背景に貼ってあるシーンがあって、ダメ御曹司にチャップリンを重ねます。
エドワード・ヤンの「アメリカ映画大好き!」は本作に限らず、『台北ストーリー』では主演女優にマリリン・モンローのイメージを重ねているのが予告編からも分かります。
それに私は、『牯嶺街少年殺人事件』は『ウエスト・サイド物語』(61年)の本歌取りだと思ってますしね。
ついでに言うと、エドワード・ヤンは手塚治虫が大好きだったそうで、この映画でも芸術家?演出家?は鉄腕アトムのTシャツを着て、手塚治虫的な漫画キャラ設定になっているように思います。
好きなものを盛り込んで、エドワード・ヤンは楽しかったろうな。
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「エドワード・ヤンの野心作」という言われ方もしているようですが、確かに新たな境地を目指した作品なのでしょう。
ただ、「エドワード・ヤンらしさ」は終盤になって、話が重くなってからなんですよね。
(ラストのエレベーター・ワンカットなんか痺れる)
そういった意味では、基本的には向いてなかったように思います。
(2023.08.26 新宿武蔵野館にて鑑賞 ★★★★☆)