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映画『戦場のメリークリスマス』過去の呪縛からの解放(ネタバレ感想文 )

4K修復版を鑑賞。公開時以来37年ぶりの再鑑賞。それほど好きな作品ではなかったんですが、今回観たら面白かった。観てよかった。

私にとってこの映画は、2つの「過去の呪縛」があります。

当時「11PM」という番組があり、年に1度「日本アカデミー賞予想」の日がありました。その年のゲストは『戦メリ』大島渚と『家族ゲーム』(83年)森田芳光。「古典小説だって面白い映画にできる」と主張する森田君に対し「そんなはずはない」と否定する大島渚。「いいえ、面白くなります。僕が映画化すれば」と言った森田君は2年後、夏目漱石原作『それから』(85年)を映画化しキネ旬1位となる。私が森田芳光ファンをやめられない呪縛エピソード。これが1つ。

2つめ。
当時高校生だった私は、地元宇都宮の映画館でこの映画を観ました。ビートたけしドアップのラストシーンで、あろうことか、劇場内は笑いに包まれたのです。たしかに当時は単なる芸人としてのみ認知されていたとはいえ、このドラマを2時間観てなお「芸人ビートたけし」という目でしか見られないその民度の低さに私は驚愕し、田舎を捨てる決心をしました。

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今にして思えば、私にとって「大島渚は若い才能を否定する過去の人」という世代格差(縦軸)と地域格差(横軸)を体感した映画だったのです。(厳密には「格差」という言葉が世に頻出するのは2000年代に入ってからだけど)

ただ正直、そんなことすっかり忘れてたんですよ。映画館に向かう途中、青二才だった過去を突如思い出して軽く鬱になった。
まるでこの映画のデヴィッド・ボウイ。
彼は、弟への贖罪として坂本龍一の前に立ちはだかり、「暴力」を「愛」で受け止めることで「過去の呪縛」から解放されるのです。

それは坂本龍一演じるヨノイ大尉が「赦し」を得た瞬間でもあるのです。
同性(しかも敵国人)に魅了されてしまった不甲斐ない自分(だから彼は稽古に熱中して自己を鍛え直そうとした)が赦された瞬間。

そう考えると、俘虜(捕虜)収容所を「男子校の寄宿舎」に見立てたんだな。まるで萩尾望都。「トーマの心臓」あるいは「11月のギムナジウム」。クリスマスだから12月か。ギムナジウムはドイツだし。

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こうしてデヴィッド・ボウイは過去の呪縛から解放され『ズーランダー』(01年)に出演するわけですが(<関係ない)、私はというと「闘う大島渚」という文脈の中で本作を観られたことにより「過去の誤解」から解放されるのです。

劇中、ヨノイ大尉が二・二六事件に参加できなかった青年将校である旨が語られます。
おそらくそこには、学生運動(60年代の全共闘ではなく50年代の全学連)で敗北した大島渚の無念が投影されているのです。

そこで気付いたのです。この映画は「大島渚のイデオロギーの延長線」であることに。
おそらく日本の(メジャー作品での)BL映画の草分けであろう本作は、昨今のLGBT映画と根底が異なります。

打倒!既存の価値観!打倒!既成概念!

若い頃は国家権力への反抗だったかもしれませんが、当時50歳の大島渚の矛先は、もっと大きく抽象的な、価値観や既成概念も含めた「制度=既存システム」だったような気がします。
この「闘う大島渚」の姿勢を理解してこの映画を観ると、実に挑発的であることが分かります。

お涙頂戴の反戦映画への挑発、女性を一人も登場させないことで商業映画への挑発、軍や寄宿舎の闇を描くことで権力への挑発、同性愛というタブーを描くことでの社会への挑発。

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「11PM」で大島渚が撃ちたかったのは、若い才能ではなく、「古典は良質」という既成概念だったのです。
その一方本作では、既存のシステムを挑発しつつも、「学生運動」という大島渚の「過去」を投影し、あの「寄宿舎」を共に過ごした仲間(敵)に笑顔で別れを告げることで、自身の「呪縛」に別れを告げようとしたのかもしれません。

「メリー・クリスマス!メリー・クリスマス!ミスター・ロレンス」

笑うどころか、私は今回、不覚にも涙を零したのです。
(2021.05.15 アップリンク吉祥寺にて4K修復版を鑑賞 ★★★★☆)

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監督:大島渚/1983年 日本=英=ニュージーランド
(4K修復版公開2021年4月16日)

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