映画『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』胡蝶の夢、文系男子の夢(ネタバレ感想文 )
『花束みたいな恋をした』の劇中、押井守(本人)を見かけた菅田将暉が「神がいた!」と言うシーンがあります。一緒にいた女子大生(有村架純)まで「押井守がいましたよね」と言い出します。顔を見て押井守を判別できる女子大生がこの世に存在するのか、そもそも押井守が深夜に明大前の喫茶店で何をしているのか、多くの疑問は残りますが、この『ビューティフル・ドリーマー』が押井神を崇める多数の信者を生み出したことは間違いありません。
だって、当時高校生だった私もその一人ですから。
ただ実際には、1984年当時、映画館に詰め掛けた「うる星やつら」ファンの大半には不評だったと記憶しています。私の見立てでは75%に不評。
ましてや、広島からバタフライで東京に上陸した吉川晃司でおなじみの併映『すかんぴんウォーク』目当ての客99%に不評。
なので根拠のない勝手な私の指標によれば、映画館でこの映画を観た90%超に不評で、わずか10%に満たない熱狂的な「信者」を生み出した「カルトムービー」というのがこの映画に対する「今の」私の評です。
土台がメジャーマンガだから気付かないかもしれませんけど、これ「カルトムービー」ですよ。
不評の理由は、多くのファンが望む「うる星」の世界観ではなかったからです。でも確実に「一見さんお断り」映画でもあり、「うる星」を知らない者には何も分からない。マーケットの最大公約数をわざわざ排除する押井の悪い癖。伊藤和典が脚本を書いていたら、もう少し親切設計だったと思うんですがね。
しかし、それが逆に熱狂的な信者を生む要因ともなります。
つまり「私にだけ分かる」ことが一つの特別感なのです。
「見たことないもの」を見せられた場合、多くの人は脳が拒絶します。ましてや「うる星かくあるべし」という固定概念を持って(それを楽しみに)観た者にはなおさらです。
しかしごく一部には、「私にだけ分かる」「特別な」「見たことないもの」を感じた人々がいた。彼らにとってその体験は「奇跡」でした。そして、奇跡を起こせるのは当然「神」だけなのです。
この映画は「文系男子の夢物語」です。
「文化祭の前日」というのが何よりの証拠。
「スポーツマンの汗と涙」こそ男子の王道、男子の本懐という時代に、「文化祭前夜」が人生最大の愉悦だなんて話は「見たことがない」。
「文学作品」じゃないんですよ。「文系男子」の映画。かなりゴダールに近い。
当時「サブカル」なんて言葉は日本で浸透していなかったけれども、この映画は確実にサブカル男子のハートを射抜いた。男子の大半はラムちゃんにハートを射抜かれますが、ごく一握りのサブカル文系男子は押井節にハートを射抜かれた。ありをりはべりいまそかり。
今回私がこの映画を観たのは、2001年以来20年ぶり。
公開当時、高校生の私は上述した通り「神の降臨」を目の当たりにしたわけですが、正直、30歳代の再鑑賞時には青臭く感じられてそれほど面白くはなかった。
ところが50歳代の今、滅法面白かったんですよ。
若い頃の「知らないものを見た!」という感動もいいけど、年齢を経ていろんな知識が増えて「あれとこれが繋がる」というのも面白い体験です。歳をとるのも悪くない。
この当時は「見たことがない」世界観でしたが、後々押井守が「夢と現実」「仮想とリアル」を好んで描く作家であることが分かってきます。
たぶん前回鑑賞時は『アヴァロン』(01年)公開記念の放映だったと思うのですが、『アヴァロン』は正にその好みの延長線上に位置する作品でした。もちろん『パトレイバー』劇場版2作だって「東京という幻想」を巡る物語であり、実写版『パトレイバー』はそこに手法として「仮想とリアル」を持ち込んだのです。
また、後々押井の鈴木清順好きも明らかになります。
思い返せば、OVA版『パトレイバー』「二課の一番長い日」で『けんかえれじい』(66年)オマージュをやってましたね。立ち食い蕎麦屋で。
この『ビューティフル・ドリーマー』も、横断歩道のチンドン屋なんか非常に鈴木清順っぽく感じられるんです。いやもう、映画全体の「夢現(ゆめうつつ)」感が鈴木清順なんですよ。時折露呈する薄っぺらい喜劇も鈴木清順っぽいけど。
そしてこの映画は、「夢現」を台詞処理ではなく「画面」で見せた。
どちらが現実か分からないほどリアルな水たまり。エッシャーみたいな騙し絵。まるで戒厳令(<これも押井の好み)下の燈火統制の如き闇夜の街(<この映画鑑賞時のコロナ禍緊急事態宣言下の東京夜9時はこんな感じでした)。
今「現実」だと思っていることは本当は「夢」で、「夢」だと思っていることが本当は「現実」かもしれない。「胡蝶の夢」をきちんと映画として仕上げた。
じゃあ「うる星やつら」じゃなくてもいいじゃん!
うん。それをやりすぎた結果が『天使のたまご』なんだけどね。
でもこの映画は「うる星やつら」の本質は押さえている。
ボンクラ男子(諸星あたる)をメガネらを交えることで「文系男子」に巧みに置き換え(つまり押井自身の物語に置き換え)、「文系(ボンクラ)男子の夢」と「ラブストーリー」を交錯させ、きちんと描いているのです。
中盤の千葉繁(メガネ)ナレーションのコラージュシーン。
映画冒頭アヴァンタイトルでもあることから、実は重要ポイントです。
荒廃した街で「僕たちだけ」が「楽しく」暮らしている。
衣食住に困ることなく、(余計な人間関係は全て排除した)気の置けない仲間だけで、勝負と無縁の娯楽に没頭する。
これは「竜宮城=理想郷」です。
この竜宮城は、押井守の考えるボンクラ男子の理想郷、いや押井守自身の理想郷なのです。
このシーンの中で、映画館で映画を観るシーンがあります。
上映作は初代『ゴジラ』(54年)。
そう、皆さんご存知、日本屈指の恋愛映画です。
実際押井は、「オキシジェン・デストロイヤーを手にゴジラに向かう芹沢博士」のシーンを切り取った。切り取ったというか、わざわざ絵に描いた。『ゴジラ』ラブストーリー最高潮のシーンです。
これは「この映画はラブストーリーですよ」という押井守の刻印なのです。
かくして押井守は、『うる星やつら』を「文系(ボンクラ)男子の夢」と「ラブストーリー」として捉え、『ビューティフル・ドリーマー』という名目で自身のテーマ「胡蝶の夢」を描いたのです。
それが当時の若者(のごく一部)に、「私にだけ分かる」「特別な」「見たことない」「カルトムービー」として映り、押井神の信者を生み出したのです。
あれから三十余年。さすがに私も50歳代となり、その洗脳は解けましたけどね。
コロナ禍緊急事態宣言が解除されたらカラオケで「愛はブーメラン」歌いたいな(<解けてない)。責任とってね。
(2021.05.05 CS放送にて再鑑賞 ★★★★★)
監督:押井守/1984年 日