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映画『犬神家の一族』 「市川金田一」という唯一無二のジャンル(ネタバレ感想文)

少し前に『おとうと』(1960年)の感想文で市川崑ファンだと書き、最近観た野村芳太郎『配達されない三通の手紙』(79年)で本作を思い出したので(コメントをいただいたこともありますが)、直近で観てはいないんですけど、何度も何度も観ている私の100点満点映画の感想文……というか思いの丈を書きます。
当然、1976年版の話ね。珠世さんが島田陽子のバージョン。

監督:市川崑/1976年 第一回角川春樹事務所作品

2008年2月に市川崑が亡くなり、その夏に新文芸坐での追悼上映がありましてね。大きなスクリーンでこの映画を観て、泣いたなあ。好きすぎて泣いた。「第一回 角川春樹事務所作品」という文字だけで泣いた。

私は、この映画の真のジャンルはミステリーでもサスペンスでもないと思っています。
ファンキーでメロウなゴシックホラー
いや、「市川金田一」という唯一無二のジャンル
世界に誇れる日本映画遺産だと思うんですよね。国宝に指定するべき。

岩井俊二監督の『市川崑物語』(2006年)というドキュメンタリー映画があるんです。岩井俊二は市川崑ファンなんですよね。ファンだって言うか、岩井俊二の逆光とテクニシャンぶりの原点は市川崑だったんですよ。

もしかすると『市川崑物語』は、リメイク版『犬神家の一族』(2006年)のドキュメンタリーとして企画されたのかもしれません。たしかプロデューサーも一緒だったし。
いわば、大林宣彦が黒沢明『夢』(1990年)のメイキングを撮ったようなことをイメージしてたんじゃないかな。
ところが、出来上がったものは『ある映画監督の生涯』(75年)だったわけですよ。ただ、新藤兼人のような執念のインタビューで構成するわけではなく、一方的に岩井俊二が自分の想いを綴っていくだけなんですけど。
いやもう一方的なラブレター。自主映画ですわ。

それでね、市川崑ファン以外誰も楽しめない『市川崑物語』の中で、市川金田一に対する岩井俊二の想いと私の想いがリンクしたんです。

まず一つは、私の大好きな「遺言状シーン」。
遺言状を読むだけで一体どれだけカットを割っていることか。
その遺言の内容が不満だと騒ぎだすシーンに至っては『サイコ』(60年)のシャワーシーン並。このシーンを岩井俊二が語ったんですよ。

それと「菊人形シーン」ね。
金田一の驚く顔が数カットで撮られているんですけど、その中のコンマ何秒の短いショットに、ピンボケが混じってるんです。
これを岩井俊二は絶賛するんですね。
「ミスかテストのボツフィルムを使ってリズムを生み出してしまうなんて!」と。

この頃の島田陽子は綺麗だったな

ま、岩井俊二はさておき、やっぱりどうしても状況を説明する必要が生じるわけですよ、特に推理小説の場合は。

 Q.どうして珠世が犬神家にいるのか?
 A.佐兵衛が世話になった人の孫だから。

通常なら「質問する人」「それに答える人」という形の会話で観客に説明がされるわけです。
ストーリー上避けて通れない所なんですけど、映画的には退屈な箇所なんです。つまり映画的な「動き」が得にくい。
最近の若い人は、口しか動かないアニメや説明台詞過多のドラマに慣れてるから違和感ないんでしょうけど、当時の映画人としては面白くない。

ところが市川崑は、こんな場面でも映画的な動きを欠かさないんですね。

Q&Aの質問部分を省略し、いきなり回答から入る。
二者が別々に説明している場面をカットバックして一つの説明にしてしまう。しかも歩きながら。それも鳥瞰(これまたわずか数秒のカットだが)。
画面いっぱいに家々の屋根、その間を歩く小さな人物を横移動で撮影。
(このショットは『おとうと』でもあったな)。

この頃の坂口良子は可愛かったな。超可愛かった

細かいカットが印象に残りますが、一転してワンカット長回しもする。
夕刻で、見ているうちにドンドン日が暮れていき、薄暗くなって部屋の明かりを灯す。これがワンカット。

またある時は、次のシーンに出てくる琴が、一つ前のシーンに唐突にインサートされる。

この映画で最もトリッキーなのは、殺人事件よりも、市川崑のカット割りなんですよ。

よくこの映画が、初めて原作に近い金田一耕助像と言われます。
この前年が高林陽一監督『本陣殺人事件』(75年)ですもんね。
中尾彬が金田一耕助で、衣装はネジネジ……ではなく、ジーパンだったな。

中尾金田一

片岡千恵蔵版金田一耕助は観たことないけど、背広だったそうですね。
1950年代当時、探偵と言えば明智小五郎だったんで、そのイメージが定着したんでしょうね。

私は、高倉健が金田一耕助をやっている『悪魔の手毬唄』(61年)を観たことがありますよ。サングラスにジャケット、オープンカーを乗り回し、美人秘書を伴って登場したんじゃなかったかな?
今となっては、「健さんってヤクザもんになる前は探偵だったんだぜ。俺、見たもん」と言うためだけに存在している映画。

高倉金田一。たしか制作は「ニュー東映」

それでですね、これが最も書きたかったことなんですが、「市川金田一」の金田一耕助って存在感が薄いと思うんです。
いやまあ、『八つ墓村』(96年)のトヨエツとリメイク版『犬神家の一族』(2006年)の石坂浩二は別なんですけどね。トヨエツは存在感がありすぎるし、リメイク版石坂浩二は年齢をとりすぎてる。いい年こいて「しまったあ!」じゃねーよ。

これは岩井俊二の指摘で気付いたのですが、市川崑作品全般において男性主人公が「中性的」であると指摘しているんです。
なるほど、言われてみればその通りで、比較として分かりやすいのは黒澤明で、主に三船敏郎を据えたおとこ主人公だと思うんです。
岩井俊二によれば、市川崑は女性ばかりの家族の中で育ったことが、男性を中性的に描く要因ではないかと分析していましたがね。

で、まあ、「中性的」イコール「存在感が薄い」というわけではないんですが、市川崑作品の男性主人公は、物語の中心というよりも、空気のような存在、風のような存在が多いように思うんです。
実際、『黒い十人の女』(1961年)で船越英二演じるテレビプロデューサーの役名は「風」ですからね。

そう考えると、「市川金田一」の石坂耕助も同様です。
少なくとも頼りがいのあるタイプではない。
オープンカーで颯爽と登場する高倉健とは対照的に、ブレーキの壊れた自転車で坂道を転げ落ちて登場したりする。
(それは『女王蜂』(78年)だったかな?)
本当に「風」のように、どこからともなくやって来て、人知れず去っていく。
典型的な「鶴の恩返し」パターン。
なんとなく、事件を解決するというよりも、事件の「傍観者」「証人」という印象があります。

そういや市川崑は、『つる -鶴-』(88年)も撮ってたな。

(★★★★★)

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