映画『子供はわかってあげない』 (ネタバレ感想文 )暗殺と左官と想い
大変素晴らしい映画で、珍しく原作マンガを即買いしました。まだ読んでいないので、あくまで映画から読み解いた感想を書きます。
冒頭からセメント伯爵だモルタルだと一体何を見せられているのやらwww。
その後に続く「絵に描いたような幸せな家族」。一体何を見せられているのやら・・・。
この冒頭エピソードで、「壁は超えるものではなく塗り替えるもの」という本作のテーマが宣言されます。
さらに巧みなのは、「絵に描いたような幸せな家族」シーン(ワンカット長回し)のラストで、カメラが静かに少しだけ横移動するんです。このちょっとしたカメラ移動に「ん?」となります。もしかするとこの「絵に描いたような幸せな家族」は本当は「絵に描いたような幸せな家族」じゃないのではないか?
これがカメラが大きく動くと完全に「この幸せな家族には闇がある」あるいは「この後不幸が訪れる」ホラー演出になってしまうのですが、ほんの少しだけカメラが動き、呑気にルンバが入ってくることで「ほんのちょっとだけ何かある」気配が伝わってきます。
さらに言えば、この「絵に描いたような幸せな家族」があるから、小さな嘘をつくことに心苦しさを感じてしまう。それを「カエルのキーホルダー」「母からのLINE」という形できちんと「画面」で見せている。映画ってそういうもんだよ。
言葉じゃないと言えば、仁子ちゃんだっけ?隣の子。お姉ちゃんが帰っちゃうのが不満でふてくされている様なんか、観ていて泣きそうになる。
沖田修一は「言葉にしなくても気持ちが伝わる」演出をしてくれる。
大きなテーマとして「親から子へ、子からその次の世代へ」という「継承」が掲げられています。代々続く書道家とか部活の世代交代も含めて。な!
山田洋次『東京家族』や宮崎駿『ポニョ』なんかはしきりに「若者に未来を託した!」というメッセージを発します。まあ、爺さん達の気持ちも分からんではない。でも若者が自ら「教わったことは教えられる」「教えた中に残っている」とナチュラルに理解することの方が理想的な気がします。
別の視点から。
原作マンガがそうなのかもしれませんが、「夏休み」「水泳部」ということを利用して、高校生映画の割に制服シーンが少ない気がします。
私は、高校生=制服という「記号」を意図的に外しているような気がしたのです。
トヨエツ「おひげツルツル」も同じで、長髪にボサボサの髭という教祖イメージの「記号」を外している。
ここは「女子高生と変なオジサン」では意味が変わってしまう。しかし「父娘」という記号も存在しない。この二人は、記号(先入観)を取っ払って、生身の人間同士で対峙する必要があったのだと思います。そしてお互いが心の壁を塗り替えることになる。
ついでに言えば、千葉雄大ひかる君からは「男」という「記号」を外し、ガール・ミーツ・ボーイの舞台に最初から「朔田美波」と「もじくん」しか乗せないのです。周到な映画です。
最後にもう一つ。
「もじくん」が小学生に書道を教えている際に「上手な字は本当になる」「昔、竜が出てきて天井を破った」という話をしますね。
彼は、海辺で「朔田美波」の名を書き、本当に海から朔田さんが出てきます。
一方、美波はプールサイドにデッキブラシで「もじくん」と書き、本当に屋上にもじくんが現れます。
誰かを好きになった時、最初にすることはその人の名前を書くこと。
つまり、書くことは「想い」なのです。
千葉雄大ひかる君が残した手書きの請求書。「そのお金を次の世代に」という「想い」が込められているのです。そう考えると、「男」という「記号」を外された彼は、この映画におけるある種の「神(伝道師)」なのかもしれません。
そしてこの映画は、誰かの「想い」が他の誰かに伝わることで心の壁が塗り替わっていく、そういう理想を描いた映画なのだと思います。
少なくとも娘のオタクな想いは父親達に伝わったようですし。
余談
卓球部が廊下で練習しているのにも痺れた。
余談2
沖田修一映画には以前も斉藤由貴が出ていたような思い込みがあった。どうやら実際には出演していないようだ。でもどこかイメージがある・・・と思っていて気が付いた。
『横道世之介』(2013年)の最初、80年代半ばの新宿東口アルタ付近にAXIAの斉藤由貴のポスターが貼られてるんですよ。「青春という名のラーメン」とか「AXIA」とか、斉藤由貴ほどCMのインパクトが強いアイドルっていないと思う。
ああ、ミノルタの宮崎美子がいるか。三井のリハウスの宮沢りえもいるな。
子供にはわかってもらえない話。
(2021.08.23 テアトル新宿にて鑑賞 ★★★★★)
監督:沖田修一/2020年 日(2021年8月20日公開)