映画『エフィ・ブリースト』 人生は手に負えない(ネタバレ感想文)
我が家のファスビンダー祭り、というかハンナ・シグラ祭りも、本作でしばしお休み。
本作もまた、他のハンナ・シグラ出演作同様「女の生きざま映画」ですが、正直、面白いんだか面白くないんだか、「手に負えない」映画です。
最初に情報を少し。
テオドール・フォンターネという人が書いた原作小説は、19世紀末のドイツ文学を代表する作品の一つで、「社会の抑圧」と「個人の自由」の葛藤を描いた物語として知られているそうです。
ファスビンダーが映画化したのは1974年ですが、日本では今回が初公開だとか。
映画も「社会の抑圧」と「個人の自由」の葛藤を描いているんですが(実際、映画冒頭でその主旨をテロップで見せる)、不思議な作りの映画です。
だいたいシーン毎に、上述したように文字でその主旨めいたことが表示され、ナレーションでそのシチュエーションを説明して、そのシーンの一場面を実写で見せる・・・みたいな。うまく説明できませんけど。
何ていうのかな、映像でドラマを構築する気が無いというか(笑)。
その結果、なんだか神の視点から物語を俯瞰するような作りなんです。
この手法が功を奏しているのかどうか怪しいんですが、当然意図的で、画面の作りなんかもの凄く計算づくです。
例えば「鏡」。
この映画は、窓の反射も含めて「鏡」を多用します。
おそらく、「個人の自由=本当の自分」と「社会の抑圧に合わせて生きる仮の自分」という二面性の象徴が、「鏡に写る姿」なのでしょう。
印象に残っているシーンがあります。
画面左側にハンナ・シグラと不倫相手(?)が歩いてきて、画面右側で乳母がゆりかごで我が子(赤ん坊)をあやしているシーンです。
この風景をカメラは室内から窓越しで撮影していて、画面中央に窓枠があるんです。つまり、窓枠が画面を左右に分割している状態です。
画面左(恋人(?)がいる側)が「本当の自分」、画面右(ゆりかごに我が子がいる側)が「仮の自分」という分割になっていて、ハンナ・シグラはそこを行き来するんです。
そういった手法の面では面白い作りではあったのですが、「神の視点」のせいなのか、「社会の抑圧」を受け入れてしまっているように見えるせいなのか、ドイツ映画特有の「感情の流れがよくワカラン」せいなのか、どうもね、何も響かない。
何かもっと激情的な女性というか、そういう熱量みたいなものが観たかったんです。
まあ正直、『ボヴァリー夫人』的なことを期待しちゃったんです。
まあ、私が好きな『ボヴァリー夫人』は、数多く映画化されている中で一番無視されている1989年のアレクサンドル・ソクーロフ版なんですけどね。いやまあ、それしか観てないんですけど。ソクーロフ版面白かったのよ。
理想と異なる結婚生活を強いられる19世紀の人妻という同じ設定ですが、もしかするとドイツ文学とフランス文学(ドイツの女性とフランスの女性)の違いが大きく出ているのかもしれませんね。
その辺の外国文学は弱いので、勉強しないといけないな。
(2024.09.07 Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下にて鑑賞 ★★★☆☆)
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?