映画『五番町夕霧楼』 松坂慶子ではなく佐久間良子の方ね(ネタバレ感想文)
五番町夕霧楼とサンダカン八番娼館がゴッチャになるというウチのヨメの「五番・八番問題」があったのですが、昨年『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)も観たので問題は解決しました。
ちなみに、カステラ一番、電話はニ番です。
実は私もこの映画には2つほど課題がありました。
一つは、この話が市川崑『炎上』(58年)と同じ事件から着想を得ているということを知ったものですから、興味があったんです。
ヒッチコック『サイコ』(60年)とトビー・フーパー『悪魔のいけにえ』(74年)みたいなもんですよ。
水上勉と三島由紀夫の切り口の違いは大きいですけどね。
そういや水上勉は生臭坊主がお嫌いだったな。
あと一つ、最大の課題は田坂具隆監督の作品を今まで観ていなかったということ。この監督に興味があったんです。
非常に丁寧に「視点」を描く作品でした。
私、物語を語る「視点」に五月蠅いんですよ(笑)
この手の話なら主人公の「佐久間良子視点の一人称」で描かれそうなもんですが、この映画は「三人称」で語られます。
佐久間良子が「I」ではなくて「She」で語られているようなもんです。
そしてカメラが誰かの視点で捉える際に、丁寧に「誰の視点か」というカットを入れるんですね。
例えば初めて佐久間良子に会った時。
丹阿弥谷津子がジロジロ見るカットが入って、その後でカメラが舐めるように佐久間良子を下から上へと写していく。
例えば佐久間良子と木暮実千代が言い争うシーン。
間に挟まれて困っている同僚の顔を長い時間映す。
そして最後になって、「誰の視点か」という説明なしに列車や船の移動ショットが続くんです。
この視点の主がどこへ向かっているのか?
観客は気付いているのです。そして胸騒ぎを覚えるのです。
大オチなんで詳しくは書けませんけど、最後の最後に「視点」の扱いを逆手に取るんだぁ、とちょっとビックリしました。
ああ、あと、当時としては当たり前なのかもしれませんが、丁寧だなと感じたのは、小僧が和尚に注意されるシーン。
和尚は奥の間の上座に座り、小僧は隣の間の下座に座っているんですね。
これ、今時の演出だったら、部屋の中央に座っちゃうか、なんなら正面向き合って対峙しちゃうと思うんです。
そんな些末なことまですごく丁寧に見えたんです。
ただ、映画の丁寧さには興奮したんですが、話は全然興奮しない(笑)
今時からしたら平凡なメロドラマなんだよなあ。
(2025.01.12 神保町シアターにて鑑賞 ★★★★☆)