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「好き」より「推し」の方が気が楽なのです。

「推し」と「好き」はどのように違うのだろうか。

あるときの友人たちとの会話の中で、ふとこのような疑問を持った。

「推し」とは、元々はアイドルファンなどの間でよく使われる言葉で(その認識も正しいかわからないが)、多数いるアイドルのうち、自分が特に応援しているアイドルを指して「推し」と表現する(のだろうと思う)。

「推し」の対象は1人である場合もあるし、複数人の場合もある。複数人を推している場合は、推し度が高い方から「一推し」「ニ推し」と順に呼ばれる場合があったり、ある特定のアイドルグループ全体を総じて推している場合は「箱推し」という表現をする場合があったりする。

では、こうした「推し」という概念と、単純に好意を持っていることを表現する「好き」という概念では、なにがどのように違うのだろうか。「あのアイドルが好き」と言うのと、「あのアイドルを推している」と言うのでは、感覚がどのように違うのだろうか。

ここから先は完全に私の個人的な感覚で述べるが、両者の違いは、こちらの好意がどれくらいの重みを持って相手に伝わるか、という点にあるのではないかと思う。

「推し」という言葉と比較する場合の「好き」という言葉の意味は、単に食べ物の好き嫌いとかではなく、ある種「異性に告白する」程度の情報の重みを持っているように感じる。

だからこの場合、「好き」と伝える側にとっても、それを受け取る側にとっても、言葉そのものに相当の重みがあるから、簡単には使えない言葉のような気がする

一方で、「推し」という言葉はそれに対してかなり気軽に使える言葉であるように感じる。前述の例のようにアイドルを推す場合にも使えるし、もしかしたら、普通に付き合いのある友達集団の中に気になる異性がいた場合に、その人のことを「推し」として表明することはあり得るかもしれない。

例えば、「好き」という重たいメッセージを伝えるにはお互いの関係性が築けていない状況や、「お付き合いするほどではないがその人のある特定の側面が自分の望むタイプと合致する」という状況で、「推しメン」と表明する可能性はあるのかもしれない(少なくとも私はそうやって「推し」という言葉を使うこともできそうだなぁと思っている)。

上記のことをもっとシンプルに表現するとしたら、「好き」という言葉で好意を伝えるよりも、「推し」と言っておくほうが圧倒的に気が楽だ、ということかもしれない。

お互いに重たいメッセージのやり取りをしなくても、楽に好意を伝えることができるとしたら、そんな便利な言葉はない。

このことは、テキストでのコミュニケーションに慣れている現代に求められる言語情報の軽さを反映しているような気もして、ちょっと不思議な感覚がしている。

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