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切なさを、楽しむ〜将棋観戦で味わうこと〜

喜怒哀楽でいうと「切ない」気持ちはとても複雑だ。無理矢理に仕分けするなら「哀」に近いが、甘酸っぱいような胸の痛みを感じる切なさは、失望や落胆した時の悲哀とはまるで性質が違う。
むしろ人は切なくなることを、求めてさえいるのではないかと思うことがある。

かつてはせつない、というタイトルのコンピレーションアルバムが発売されていたくらいだ。今なら音楽配信だろうか。Spotifyでせつない、とキーワード検索するとたくさんの曲が表示される。胸をキュンと締め付けてくるこの感情は、最近精神的な癒しやデトックスに良いとされる涙活(涙を流すこと)にも効果的らしい。

切ない気持ちは予期せぬ時にも突然降りてくる。例えば街中で数十年前のヒット曲が流れてきた時。ふと時空がずれてその頃の気持ちがフラッシュバックしてくるような錯覚に陥る。これはきっと誰もが一度は経験したことがあるだろう。

将棋を観戦している時にも、それは頻繁に訪れる。
特に棋士の指し手をみて、ああ、覚悟を決めたのだと感じる瞬間が堪らない。それまでは致命傷を負わないために慎重に間合いをはかりながら斬り合っていたのが、劣勢に追い込まれたことを察知してからは、一転して相手に大駒(飛車と角行。はたらきと重要度が大きいことからこう呼ぶ)を差し出すような危険な勝負の手順へと向かっていく。

これは自分の武器を捨て、丸腰の状態でフルコンタクトで殴り合うようなものだ。普通の手順をふむだけではもう勝ち目がない場合に、将棋では勝負手と呼ばれる一か八かの大逆転をかけた一手を放つことがある。その激しい感情を静かに指し手で意思表示するからこそ余計にゾクリとさせられ、目が離せなくなる。

中でも私が将棋観戦で一番心を揺り動かされるのは、タイトル戦などの長い持ち時間で、丸一日や丸二日を戦い抜いて迎える、最終盤の終局間際の局面だ。

刻一刻と迫る終局に向かって流れる時間。対局者の先生方は目を閉じて思考に耽ったり、中空を見上げて腕組みしたり。投了までの一手一手が紡ぎ出される間は、たとえそれが1分将棋の目まぐるしい応酬であっても、まるでスローモーションのように感じることがあり、終わっていく切なさを強く感じる。勝利を確信して嬉しい涙が溢れる時もあれば、敗北する先生の無念さを思って涙ぐむ時もある。

「言いおおせて何かある」とは、松尾芭蕉の有名な言葉で、全てを表現するのではなく、読み手に想像の余地を残すことが俳句に美しい余韻を与えるという教えである。将棋の対局も同様に、そこに言葉が無く進むからこそ、観戦するものは想像をかき立てられるのだ。

勝利のゴール地点へとゆっくりと進んでいく気持ち。投了図が見苦しくないようにと整えていく気持ち。対局者の先生方の美学が終局直前の数手には痛いほどに凝縮されている。

先生方が静かな手つきで終局へと駒を進めていくのをみるのは、こちらも神妙な気持ちにさせられる。たとえ勝ちがもうないとわかっていても、可能性を信じて最後の手を指す瞬間まで全力で取り組む姿はそれだけでハッとさせられる。

この記事のヘッダー部分に、お世辞にも美文字とは言えない文字で書かれたメモの写真を掲載したが、これは以前に更新したnote記事でも紹介した、第80期A級順位戦浮月楼対局の大盤解説会で私が実際に取っていたメモの一部だ。

大袈裟にではなく、終局を迎えた瞬間は抑えきれない感情が頂点に達していて、文字がかなり乱れているのが見てとれる。

将棋は勝敗を競い合う頭脳スポーツのひとつだが、投了を告げた際に勝利した対局者が勝ち誇ったり笑顔を見せたりすることは無い。試合終了の瞬間に派手なガッツポーズが出るスポーツと違うのはそこだ。

それは真剣勝負を共に戦い抜いた対戦相手への心からの敬意と、命懸けの気迫を受け止め続けた長い緊張から解放されたことへの安堵感とが入り混じることで自然とそうなるのだと思える。
投了直後の対局室に流れるのは、例えるならオフシーズンの海の家のような、静かな名残惜しさを感じる空気と表現するほうがしっくりとする。

この時、私は全力で豊島将之九段を応援していた。豊島先生の名人復位を願う私は、残念ながら第80期の名人挑戦は叶わなかったものの、第81期に向けてひとつでも順位を上げて欲しい、何が何でも勝利を見届けたいという一心で大盤解説会場で十数時間、ずっと祈り続けていた。念願の勝利まであと少し、待ちわびた瞬間のはずだった。

しかしいざ終局直前になると、むしろこの名勝負が決着することが惜しいような、時間が許すならこの勝負がずっと続いて欲しいような、不思議な心境になった。破れたとはいえ死力を尽くした菅井竜也八段にも心から感動していた。

お二人が朝の9時から深夜3時過ぎに至るまで、壮絶としかいいようのない頭脳戦をみせてくださったからこそ、ずっとこのまま戦い続けるお二人を観ていたかったのだ。終わりを迎えることに強烈な切なさが込み上げた。

そして冒頭の写真の瞬間がついに訪れた。応援している豊島先生の勝利はやはり、ただただ嬉しかった。
素晴らしい対局を繰り広げた棋士の先生方には、非凡な才能をまざまざと見せつけられ、憧れと尊敬、格の違いを改めて痛感する。こんなに近くにおられても天上人のように遠い存在に思えてしまう。

公開対局や、対局場見学が予定されている竜王戦プレミアム等の観戦プログラムを除き、大盤解説会場に行っても対局者の先生に必ずお目にかかれるとは限らない。タイトル戦の種類や開催時の状況によっても違うのだが、私が観戦した名人戦と竜王戦では大盤解説会場へ終局後の先生方が顔を出されることはなかった。

すぐ近くに憧れの先生がいらっしゃっても、お顔を拝見することもなく、そっと帰路に着く。まるで恋愛ドラマお約束のすれ違いみたいなのだ。
後ろ髪を引かれる思いはあるものの、現地の気温や空間、目にされたであろう景色を先生方と共有できたことに満足して、日常へと戻っていく。

将棋観戦では長い場合それこそ十数時間もの間、期待と緊張しっぱなしで対局を見守る。人はドキドキさせられた時間が長ければ長いほど、その相手に対して特別な印象が心に刻みつけられるのかもしれない。昨年豊島将之先生と藤井聡太先生の王位・叡王・竜王戦の十九番勝負を観戦し続けた結果、私はお二人を画面越しに見かけるだけで今でも切なくなってしまう。

でもそれも決して悪くはない。大人を長く続けていると、当たり前に湧いてくる感情を封じ込めることに慣れすぎてしまい、いつしか本当の自分の気持ちすらわからなくなってしまうものだ。

切ない気持ちが込み上げることは、むしろ幸せすら感じる甘い胸の痛みであり、平凡な日々の素敵なアクセントになってくれているのかもしれない。

将棋を好きになってしまったからには、こんな切なさも大切に思いながら、花に水をあげるように固く乾いた心に瑞々しさを取り戻し、これからも将棋観戦を楽しみ続けていきたい。

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