第71期王座戦挑戦者決定戦〜藤井聡太七冠VS豊島将之九段〜
※ヘッダーは日経写真映像ニュース
公式X(旧Twitter)アカウント(@nikkeiphoto)より
名局賞候補に挙げたい一局
2023年8月4日、関西将棋会館「御上段の間」
ここに対局で訪れる事自体が減ったタイトルホルダーの藤井聡太七冠と、2年連続での挑戦を目指す豊島将之九段による第71期王座戦挑戦者決定戦の大一番が行われた。
マスコミは159手で藤井聡太七冠が勝利し、八冠制覇を叶えるための挑戦権を手にしたと、限られた秒数や文字数の中で報道している。
それは表面に現れた事実ではあるものの、本質を捉えていない。脚光を浴びるスター棋士は、ひとことで簡単に片付けられるほどすんなりと八冠制覇への階段を上がったわけではなかった。
この対局でみせた勝ち負けを超えた2人の将棋棋士のプライドをかけた読みのぶつかり合いと、ここに至るまでの想いをぜひ伝えるべきだが、紙面や放送枠の都合から省略せざるを得ず、それが残念でならない。
この159手が紡ぎ出されていく過程に一体どんなドラマがあったのか。対局者の2人が繰り広げた死闘を「ちょっとヒヤッとさせられたけど藤井くんが勝ったんでしょ」と世間に認識されるのではあまりにも惜しい。
対局開始の午前9時から、午後11時近くまでに及んだ感想戦までを見届けた者として、私が感じたことをお伝えしたい。
角道を開けない力戦=引き換えに失う安心感
藤井聡太・豊島将之戦。これまでの対戦成績は藤井聡太七冠からみて21勝11敗とほぼダブルスコアだが、その多くが僅差による熱戦で、極端な圧勝・圧敗はほとんど無い。双方の実力が拮抗しているからこそであり、将棋に少しでも心得があるならそう説明して納得しないかたはおそらくいないだろう。
昨年度から連続してこのカードでは角換わりが戦型として選ばれてきたが、今回後手番となった豊島先生が採用したのが角交換を拒否し、☖4三銀☖3二金(先手なら☗6七銀☗7八金)と構える雁木だった。ほぼ全編がオリジナル、前例のないいわゆる力戦だ。
深く行き届いた研究と定跡をベースに指し進めるスタイルの豊島先生として、力戦調の採用は非常に珍しい。自ら実績を積み上げてきた勝利の方程式を覆してでも違う戦法を選んだことからは、この一戦に対する豊島先生の覚悟と思いの強さが感じ取れる。
解説の横山泰明七段によると、角交換せずに力戦で指し進めるには、定跡が整備されていないため相手の出方をずっと神経を張りつめて待たなければならないという精神的なつらさがあるそうだ。
相手がいつ、どの形で攻めてくるのか。細かな違いをずっと考え続けなければいけないのでとてもしんどい、だからこの戦法を後手番でやる人がいない、との事だった。
相手は藤井七冠だ。その最強の相手に対して、長時間プレッシャーと戦い続けながらメンタルを削られる消耗戦を厭わず、果敢に飛び込んでいった豊島先生。
豊島先生はかつてご自身の事を動物に例えるならペンギンだと仰っていたが、天敵がいないかと怯える仲間たちに率先して最初に大海に飛び込む、いわばファーストペンギンのようなかただと私は思っている。
そこに藤井聡太の将棋の弱点を看破する糸口があるなら、誰もが嫌がっても、どんなに危険な道であろうとも突き進むのだ。
この日の対局ではいつになくハンカチで目を覆う豊島先生を何度も目にした。単に思考に沈んでいたのか、もしくは長時間続く激しい消耗戦に僅かな時間でも回復させようと休息していたのか。何気ない仕草からも豊島先生の消耗度合いが伝わってきた。
静かな序中盤から一転、激しい展開に
きっちりと五段目を境に睨み合う両陣営。藤井七冠が☗6四歩とその境界線を突破して火蓋が切られる。辛抱強くじっと陣形のバランスを保ちながら好機を伺っていた豊島先生もついに宣戦布告し、自玉の背後から龍が襲いかかってくる危険を承知で、持ち駒の銀を守備に回さず攻撃用に温存する。豊島先生らしい大胆不敵さだ。
逃げる、追う、先回りする、逃げられる。双方の玉を捕えようと繰り返される激しい応手は、刑事ドラマの大捕物のようだ。
踏切の遮断機の向こう側から、歩道橋の上から、向かいのホームから、逃げる相手を追いかけて大声で叫んでいるかのような光景が思い浮かんだ。
一時はかなり苦しいかに思われた豊島玉も、ふわりと中段に抜けたことで、狭いながらも巧みに逃げ道を確保しておりなかなか仕留めきれそうにない。
藤井七冠、豊島先生どちらの表情にも全く余裕は感じられない。双方決め手を与えないまま104手目で豊島先生が、109手目で藤井七冠が持ち時間を使い切り、両者1分将棋となった。
1分将棋で見えてくる棋士の本能
1分将棋は50数手、約1時間にも及んだ。
133手目、豊島先生が☖7八と、と藤井玉にじわりと迫る。☗4九にいる藤井玉には嫌味たっぷりだ。
以前に渡辺明九段が、棋士にとって自玉が悪形の時に玉周りを攻められると、実際の評価値以上に厳しく感じてしまい、正確な判断ができないものだと仰っていた。
棋士の人間心理を突いた実戦的な一手に、藤井七冠も動揺したのかもしれない。秒に追われて慌てて134手目☗3三歩が指された瞬間、解説の佐藤天彦九段がエッ!と絶句した。これでは藤井玉は歩で合駒することが出来ず、詰めろがかかってしまうのだ。
このチャンスを豊島先生が1分とはいえ見逃すはずが無い。☖2九銀と打ち込んだ時の手つきには確信が感じられた。リスクを承知で攻撃に使うと決めた銀がここで活きるはずだ。豊島先生、あともう一息だ、神様、どうか豊島先生に勝利を。正座で祈りながら見つめる私も呼吸を忘れるほど評価値が二転三転と大きく揺れ動く。
しかし、ついにこの熱戦にも終わりの時が訪れた。最後の決め手となった149手目☗6七桂に対し、王様の逃げ場の正解はただ一つ、☖5四玉だけだった。
☗2四の位置にある龍とは☖3四香を隔てて一間龍となる、見るからに危険極まりない地点だ。
豊島先生がこの正解手を選ぶことはなかった。150手目☖6五玉と横にかわした後、159手目☗4五龍を見て静かに投了された。終局時刻は午後9時15分。対局開始から約12時間の長い戦いだった。
豊島先生は感想戦で、☖5四玉は☗3四龍と王手で香車を取られてしまうので、ここに逃げては負けだと、検討を即打ち切っていた事を話された。
AIの推奨手である☖5四玉は、敢えて香車を取らせて一間龍の状態を受け入れてから、合駒に☖4四銀を選択する、という手の流れを示していた。豊島先生も、藤井七冠もこの手で余せるとは気が付かなかったと感想戦で述べられている。
もしかすると何も先入観を持たない素人のほうが、後ろに引けばいいのではと発想するのかもしれない。
練習を含め何千、何万局と将棋を指してきた豊島先生が身につけた棋士としての本能が、詰みが生じる危険な地点を選択させなかったのだ。
しかし私はこれまで数多くの豊島先生の将棋を観戦し、時間の無い中で2択のロシアンルーレットのような正解手を次々と選び取る豊島先生の能力の素晴らしさに何度も平伏してきた。本譜の正解手はあまりにも巧妙で、残酷だった。一目では断崖絶壁に向かって一直線に進むかと思われる先に、最後の楽園が広がっていたとは。
再びタイトル戦の舞台での対決を見届けるまで
一般人では想像もつかないほど膨大な量の手数を読める将棋棋士の先生方にとって、2時間3時間と長考されるのもさほど珍しい事では無い。1分将棋は、その能力を発揮するにはあまりにも短い。
ただ、限られた1分だからこそ先生方の研ぎ澄まされた感覚が際立ち、観戦する我々はたった1分で導き出された指し手のクオリティの高さ、その芸術性の高さに酔いしれる。
取捨選択せざるを得ず、全部は読めないからこそ、培ってきた直感やセンスが試される。それも将棋観戦の醍醐味であることは間違いない。
あの時、もう少し時間があれば、先生はもう一つの手を選んでいたのかもしれない。ふとタイトル戦の告知を目にした時、そこに応援する先生の姿が無いことにチクリと胸が痛まないかと言えば嘘になる。
ただストレートニュースにその名が躍る事はなくても、豊島将之の鮮烈な将棋の印象は私の中で決して消える事は無い。
藤井聡太という最強の相手と、タイトル戦という最高の舞台で戦う姿がどうしても見たい。豊島先生も同じ気持ちでまたすぐに研鑽の日々を過ごされるのだろう。
藤井七冠もきっとそれを待ち望んでおられる気がしてならない。感想戦で豊島先生にみせる21歳の笑顔からは、共に将棋の真理に近づく同士への敬愛の念がいつも感じられるからだ。