第80期名人戦第2局 金沢対局大盤解説会レポート
2021年10月、第34期竜王戦第1局でデビューした私の大盤解説会参戦も、今回の名人戦第2局で7か月連続となった。初体験の緊張が今となっては懐かしく思えるほど遠い記憶のように感じる。
将棋と棋士先生、将棋界の素晴らしさに魅了されてからは、日々の観戦や詰将棋、将棋ウォーズやぴよ将棋と、やりたい事だらけの充実した毎日を過ごしている。
将棋は棋力の差があっても、駒落ちやコンピュータのレベル変更などが簡単なので、私のような初心者でも楽しむことができる。もちろん観て楽しむだけでもいい。素敵なコンテンツであることは間違いない。
ABEMAトーナメントや人間将棋など、お祭り要素のある将棋も本当に楽しいのだが、将棋界の最高峰のタイトルのひとつである名人戦にはずっと畏怖の念と憧れを持っていた。長い順位戦での下積みを勝ち抜いた棋士がたどり着くA級リーグの覇者が挑戦者となる。経験も実力も折り紙つきの脂の乗った棋士だ。
今期挑戦者は前期に引き続き斎藤慎太郎八段。
「桜花爛漫」ご自身の揮毫の通り、まさに今が盛りと匂い立つような華を感じさせる。
対局場の金沢犀川温泉「滝亭」は、室生犀星のネーミングのヒントとして知られる犀川沿いにある。周囲を里山の静かな森と水田に囲まれ、犀川から流れ落ちる滝を庭から眺めることができる。
大盤解説会は14時開始だが、1000円を追加で支払うと露天風呂付きの大浴場での入浴が11時から18時まで楽しめるという。温泉好きな私に入らないという選択肢は無かった。4月20日、快晴の空の下、喜び勇んで12時過ぎに会場に到着した。
純和風の格式高い玄関におずおずと気後れしながら近づくと、男性従業員のかたが大盤解説会ご参加ですね、お待ちしておりましたと丁寧なお声がけで招き入れてくださった。接客も一流だ。大盤解説会と温泉で3000円でこの体験が出来るなんて。ひたすら恐縮しながらも、回廊で中庭をぐるりと囲んだ造りの旅館内の眺めの美しさに驚いていた。
露天風呂は男女とも滝を眺めながら入浴ができる。滝の音だけが耳に心地良く響く。対局者の先生方はちょうど昼休憩の時間だ。今頃美味しく昼食を召し上がっておられるのだろう。温泉の効果だけではなく、ドキドキと気持ちが高まってのぼせてしまいそうだった。
そしていよいよ大盤解説会の開始。野月浩貴八段と野原未蘭女流初段が登壇された。約100人定員の会場はほぼ隙間なく満席で、平日の昼であっても対局への期待の高さが窺えた。
この解説会は朝日新聞の囲碁将棋TVでYouTubeライブ配信された。アーカイブ視聴可能なので仕事や所用で観られなかったかたには嬉しい。
野月先生はサッカー好きという事もあるからか、快活で動作も機敏な若々しい印象だった。同い年で仲の良い木村一基九段と同じように、おそらく日頃から体を鍛えておられるのだろう。
野原先生は聡明さを感じる大きな瞳が印象的。4月から法政大学に入学され、大盤解説会はこの日がデビューだという。野原先生登場とあって地元富山県からも知人が応援に駆けつけておられるからか、緊張も感じさせず、初めてとは思えない聞き手ぶりでスムーズな進行だった。
大盤解説会の楽しみの中でも、立会人と副立会の先生方が顔を出してくださるのは嬉しい。今回も名人戦に相応しく田中寅彦九段、飯島栄治八段、横山泰明七段と錚々たるメンバーが次々と登場された。
田中寅彦先生は敬意を込めて「将棋指し」とお呼びしたくなるオーラのある先生だ。マスターズ水泳でも活躍される堂々とした体躯からは昭和の豪快な将棋指しの雰囲気を思わせる。升田幸三賞の受賞を大変喜んでおられ、升田先生との貴重なエピソードを幾つも披露してくださった。
特に寅彦先生が四段の頃、往年の升田先生と対局し、疲れが出てお帰りになった升田先生に代わって花村元司先生が盤前に座り米長邦雄先生も交えて一緒に感想戦をしてくださったという逸話は今では考えられないドリームタッグだ。皆んなが升田幸三の将棋を観たかった、と仰った言葉が心に残った。
先生方がたくさん紡いできた棋譜が現代将棋の礎となり、こうして今バリエーション豊かな将棋の恩恵を受けている。初心者の観る将としては歴史の生き字引とも言える寅彦先生にお会いできて本当に光栄だった。
凄八こと飯島栄治先生は予想に違わずユーモア満載でありながらも、言葉選びや立ち振る舞いの細やかな気遣いに大人さを感じた。挑戦者の斎藤先生とのエピソードが無くて、と仰りつつ、関西将棋会館で夕食休憩にココイチのソーセージカレーを食べたのが順位戦ラス前(最終一斉対局の前)の勝利に繋がり、昇級の原動力となった事を話してくださった。人生を変えたカレー。次にココイチに行ったらぜひこのトッピングで試したい。
そして横山泰明先生は、昨年末のオールスター東西対抗戦で拝見して以来、その独特なワールドにすっかり魅せられた先生のおひとりだ。
将棋界には若々しい先生方が多いが、何度聞いても41歳とは到底思えない。若々しいのではなく、年齢のほうが嘘だろうと思える程にお若いのだ。立ち姿も品がよく、大盤を操作する手が美しい。局面が手の広い中盤から終盤の入口だった事もあり色々な手をシミュレーションしてくださった。
大盤解説会が始まった14時頃には既に渡辺名人が指しやすい、後手持ちだという声が聞かれるなか、夕食休憩頃にはさらにじわじわと名人が局面の優勢を拡大していった。野月先生は常に挑戦者側からの打開策も懸命に考えて紹介してくださった。
斎藤先生ファンに気を遣ってという事では無いですよ、と仰りながらも、きっと勝負師としてのご自身の血が騒ぐのだろう、野月先生の心意気と熱量が伝わり、集中が途切れる事なく観戦することが出来た。
夕食休憩後の17時40分、斎藤先生が飛車取りの95手目▲9二角を放つ。対局室で背筋をすっと伸ばした前傾姿勢で指す斎藤先生をご覧になった野月先生が、まだ全然闘志は衰えていないですね、と仰った。かなり苦しい局面とはいえ、斎藤先生は決して諦めておられなかった。
すらりとした長い脚、はんなりと上品な関西弁。人気ルックス実力全てを手中にした王子様のような斎藤先生が、なりふり構わずに食らいついていく姿に心を打たれた。名人位を獲得するという目標に向かい続けた長い時間が、先生を最終盤の戦場に送り出す勇気になるのだろう。
とはいえ、この日の渡辺名人の盤石ぶりは目をみはるものがあった。自玉は鉄壁の要塞のような堅守を誇り、崩されるイメージさえ難しい状況だった。野月先生が仰るには、決して斎藤先生に悪手があったわけではなく、一手毎に僅かながらリードを積み上げ、それを決して失わない渡辺名人の強さが光る将棋だった。まさに知略家の渡辺名人の素晴らしさ、真骨頂をみた思いがした。
20時12分、132手をもって斎藤先生が投了を告げられた。終局の場面では自然発生的に拍手が起こる事が多いが、固唾を飲んで見守っていた大盤解説会場ではまるで対局室に同席しているかのように対局の余韻に浸る、静かな終局だった。
野月先生と、今日解説会デビューだった野原先生は僅かな休憩以外、スタートから6時間半をほぼ立ち通しで奮闘してくださった。お二人の的確な解説やこぼれ話の楽しさで、時間を忘れてしまうほどだった。
対局会場を出るとライトアップされた滝亭の庭がまた風情があった。対局者の先生方は、戦い抜いた充実感でこの庭に癒されるのだろうと、同じ景色を目に焼き付けた。
将棋のタイトル戦の観戦では、それにかける関係者の真剣な思いの強さを至る所でひしひしと感じずにはいられない。素敵に和服をお召しになった対局者の先生方だけではなく、準備して来られたすべての方々の将棋愛が結実して、まるで一本の映画を撮るように、素晴らしい戦いの場を演出しているのだ。
だとすると私は一観客として、エンドロールに「大盤解説会場の皆さん」として紹介されるのだろうか。
名人戦はまだまだ続く。この七番勝負ももちろんのこと、次期の第81期も既に組み合わせ抽選が終わり、名人を目指す戦いはもう始まっている。
私もこれからもひとつでも多く、セリフの無い俳優としてこの映画に参加できる機会があれば本当に嬉しい。