振動は、ずっと昔のことを思い出させる。それは、私の知らないこと
銅鑼のトレーニングを終了し、私は、少しだけ何かが分かった気がした。だけど、数時間、借りた銅鑼で練習しただけでは、自分の身になっている気がしない。
銅鑼の入手先をハンニーにきき、アメリカの会社にコンタクトをとった。文法を確認しながら丁寧に問い合わせをしたのに、むこうは気軽に返事をしてきた。
Hi, Amy から始まるメールを読むと、その銅鑼は現在、在庫切れだという。
「その大きさのものは、いつ入手できるかわからない。どうする?サイズを変える?それとも、このまま待つ?」
いつ入手できそうかときくと、どうやらその銅鑼は、スイスの職人が一つ一つ手作業で作っているものだから「I am sorry だけど、彼ら次第なんだ。でも多分、半年ぐらいだと思うよ」
ーーーー
待っている間、私はもちろんクンダリーニヨガを教え続けていたけれど、同時に、銅鑼の勉強もしたかった。
それで、トレーニングのテキストだけでは足りないと、銅鑼の本も輸入した。それには、銅鑼の歴史や叩き方などさらに細かいことがかいてあった。
しばらくして、銅鑼が届いた。送料だの税関だのを入れると、さらに高額になり、領収書をみて冷や汗をかいた。
ハンニーに教えてもらい、立てかける台は、地元の業者に頼んだ。このセットをリビングにおいたときには、身が引き締まる気がした。
これで、ようやく、準備が整った。
銅鑼のトレーニングを終えてから、8か月が過ぎていた。
ーーー
それから、数か月して、私は、初めての「銅鑼セッション」をおこなった。
それは、イベントではなく、普段のヨガの生徒さんに、少し延長して、銅鑼を聴かせるものだ。
銅鑼をどう説明したらいいかも分からないし、知らない人をよぶ自信もなくて、とりあえず生徒に体験してもらうことにしたのだ。
終わった後、彼らは口々に言った。
「すごい…。これ、初めての体験です。これ、もっとやったらいいですよ。やってくれるならまた来ます!他の人にも声をかけます」
ーーー
私は、今だに銅鑼が「なに」だか、よく分からない。それは、私が文章を書くということが「分からない」のと似ている。
音階もないし、楽譜もない。ただそこにいて、たたくだけなのだ。文章も、私はパソコンの前に座るだけ。
そこに「私」はいらない。
私がどうだとか、これはかっこいいだろうとか、こんな風に見られたいとかそんなものも、全部いらないのだ。
ー
「ニュートラルになれ」とは、きっとそういうことだったのだと、今思う。
ヨガをしているときに、ただその場にあるだけになる。それは、存在というものかもしれない。
振動にゆだねるだけのものになる。
ーーー
銅鑼は、古代から伝わったものだ。
人は、もしかして、神聖なものをきこうとして、銅鑼をつくったのではないか。
そのとき、人は、「私」なんて、なかったのかもしれない。自意識だとか、自己表現なんて、なかったのかもしれない。
ーーー
文字を持たない人たちが、銅鑼にきいたもの。
それは、ただの振動で。
銅鑼は、それを思い出させる。
私たちは、振動のひとつに、なれることを。
(終わり)
ーーー
銅鑼のサウンドバス
※終了しました
11/4土
名古屋市 伏見
17:00〜18:30
キャリアも取柄もない、友達もいない。
いきづまっていた私は…
「人生が変わる経験は、きっと誰にもやってくる」
青海エイミー新刊
『本当の私を、探してた。』レビュー4つになりました。すべて5つ星です↓