大豆ミートを選ぶなら、お肉を食べればいい
という意見をよく耳にするし、私も少し前まではそう思っていた。
お肉食べたいんじゃん。素直に食べたらいいのに。
でも今は、その考えって「なぜあえてそれを選ぶのか」という背景に目を向けていないなぁと思う。自分の感覚だけで、自分のなかにある正解だけで判断してるなぁって。
最近仏教に少し興味があって、精進料理についても調べてみた。
精進料理にはいろんな考え方がつまっているのだけれど、そのなかに「無駄な殺生は避ける」というものがある。お肉やお魚は避けて、植物性のものを必要な分だけ摂る。
無駄な殺生って植物ならいいの?植物だって生き物なのに…?と思って、「×動物、○植物」の考え方がどこから来てるのかも調べてみた。すると、仏教では「有情物か否か」が基準になっているということがわかった。有情物とは字のごとく、情を有している、つまり感情があるかどうか。植物は同じ命であっても「感情はない」と考えられていたみたい。
その考え方に対しては、植物だって声をかければよく育つという話も聞くし、感情が全くないとも言い切れない気がする。
私は、私が苦しまないために動物を殺めるのは避けていきたいよなぁ、と思った。
動物は恐怖を感じれば逃げるし叫ぶ。それを見たり聞いたりするのは苦しい。だから動物をなるべく殺めない。植物だって実際には感情があるのかもしれないけれど、私の目や耳ではちょっと拾い切れないから、生きるために感謝しながらいただこう。
そんな考えをぼんやり持っているけれど、でも今まで雑食で生きてきているから、お肉やお魚のおいしさは知ってる。その味を求めることは単なる欲求であって、考えと矛盾しているわけでもなんでもない。欲求と思考は別。
なるべく殺生を避けたいという思考を持って、おいしいものを食べたいという欲求もある。だからお肉に近づけた大豆製品を選ぶ。それって割と自然な流れなんだなぁと思った。
エスカレーターを使えば楽に移動できることは知っているけれど、健康のために階段を選ぶ、みたいなことと似ている気がする。洗濯を自分でやるのは疲れるからやりたくないけど、着るものがなくなっちゃうし汚れたままも嫌だから洗濯機で洗う、みたいなことと似ている気がする。
使えるものを使って、自分の思考に沿って、自分の欲を満たそうとする。ただそういうことなんじゃないかな。