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11.引越しと、最初の教授面接

かろうじて多摩美術大学美術学部建築科への進学が決まり、住むための部屋を探すため、大学への送迎バスの出ている八王子と相模原市の橋本へ行ってみた。何軒かの不動産屋で話を聞いてみるものの、これといった物件も見当たらず、一度、実家に戻って出直すことにした。新幹線代がもったいない。実家に戻ってみると、母親がいつの間にか大学の教務課に相談していたようで、大学の近くのアパートを紹介してもらったようで、教務課の人が言うには、「一度、学校に立ち寄ってくれれば良かったのに」とのことだったが、大学のすぐそばというのは盲点だった。ただ、言っておかなければならないのは、多摩美術大学の学部のある八王子市鑓水というところは、八王子市の中でも番外地的な僻地であり、今でこそ、多摩ニュータウンの西の端的な存在で、多摩ニュータウンの開発地域内ではあるがほとんど開発されていない。そこに住むことになるとは思わなかった。
鑓水で有名なのは、江戸時代、生糸の取引で「江戸鑓水」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、「鑓水商人」と呼ばれるという商人集団が生まれ、日米修好通商条約により横浜港が開港すると、高値で売りたい養蚕農家と生糸が欲しい外国商社との間を取り持ち、各地から生糸を買い集め、鑓水村にある自前の蔵に蓄え、頃合いをみて高値転売を行うという手法で発達したことである。また、東京都八王子市から神奈川県横浜市までを結ぶ絹の道と呼ばれる街道があり、鉄道が発展する明治中期頃まで、横浜港に向けて輸出用の生糸が運ばれていた。私が住むことになった「第1シルク荘」という木造2階建てのアパートの「シルク」は、この「絹の道」の「絹」から取られている。近くには、御殿峠という、東京都八王子市片倉町と町田市相原町の境に位置する国道16号の峠があり、そこから伸びる野猿街道を少し入ったところに学部のキャンパスがある。
もう一つ、鑓水が有名なのは、多摩地区に住む人なら知らない人はいないという、八王子どころか多摩地区最強の心霊スポットの道了堂跡があることである。この道了堂跡は、八王子の心霊スポット第1位だ。この道了堂跡をめぐっては、3つの逸話が伝えられている。
1つ目は、昭和38年。当時この道了堂の堂守りをしていた81歳の女性が、この道了堂跡で殺害されるという事件が起きたことで、この女性は3人の私生児を生んだこともあり、住んでいた村ではかなり迫害をされていたらしい。辛い人生を送ってきた女性が、80歳を過ぎてから、信仰する堂の敷地内で強盗目的で殺害されるという悲惨な最期を迎えたことから、この老婆の霊が出ると言われ始めた。
2つ目は、昭和48年。当時女子大生だった女性が、不倫交際をしていた大学の助教授に殺害され遺棄されるという事件が起きている。この殺人事件の事件現場は、正確には道了堂跡から少し離れた場所なのだが、この女性の霊が出るとの噂がある。ちなみに、この女子大生は、立教大学の学生だったらしい。具体的な出没スポットは、多摩境駅より車で10分にある「鑓水公園と鑓水板木の杜緑地」だそうである。

3つ目は、怪談話の巨匠・稲川淳二氏の怪談で、稲川氏の怪談の中でも有名な「首なし地蔵」の話は、この道了堂跡が舞台となっている。
他にも、「八王子恐怖トンネル3兄弟」と呼ばれる八王子1~3トンネルは全て鑓水にある。
学部の4年間を暮らすことになるアパートの場所が、そんなヤバイ場所だとは引越し当初は知る由もなく、かと言って引越しもままならなかったので、有名な心霊の話を聞いてからも、我慢して住み続ける他なかった。実際、ここに住んでいるあいだに、何度か心霊体験をすることになる。それは、のちのちの話であるが・・・
アパートの大家は、鑓水商人の子孫に当たるらしく、地元では名士で、近くに「絹の里」というジンギスカンのレストランも経営していた。野猿街道からキャンパスに登っていく坂道の下に、ちょっとした羊の牧場があったのだが、あそこで飼われている羊たちのその後の運命やいかに。
アパートで新生活を送るための家財道具は、近くの相模原市の橋本のスーパーで揃えたのだが、橋本は、何年生の時だったか忘れてしまったが、京王電鉄の相模原線が乗り入れ、将来は、リニア中央新幹線の駅が併設される予定されているそうで、今では神奈川県の北の入口と位置付けられ、県や市、民間が主体となった再開発が進み、また、中心市街地活性化法では相模原市の第一の都市核として認定されている。相模原市南部の中心地である相模大野(南区)に対する北部の交通・商業の中心地として機能している。駅の北口付近には超高層マンションが立ち並び、建設ラッシュが続き、当駅を核とした市街地域や住宅地域は、北部へ境川を越えて西部に拠点のない町田市まで広がっていて、駅の西、かつての国鉄車両センター跡地にも超高層マンションやハイテクパーク、コーナン、東急ストア、橋本郵便局、相模原北警察署が完成しているなど、なかなか発展しているようであるが、私が入学した頃は、駅前にスーパーが2軒あるだけの、ちょっと寂れた街だった。
さて、いよいよ学生生活が始まるわけだが、すぐに講義や実技課題が始まったわけではない。まずは、学生一人一人と教授陣の面接があった。その時にいろいろ聞かれるのだが、覚えているのは、愛読書は何か?ということである。その時よく読んでいたのが、倉橋由美子の「最後から二番目の毒想」と、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」だったので、そう答えると、先生方は倉橋由美子は知っていても、オルテガはご存じなかったようで、説明を求められた。
ちなみに、倉橋由美子の「最後から二番目の毒想」は、サティのピアノ曲「最後から二番目の思想」から取られた書名で、倉橋由美子が言うには、彼女の書くものは、ほとんどが毒薬で、ただし、服用すれば正気に返るという効用のある毒薬である。だから内容は、「いつも惰眠を貪っているふとりすぎた脳細胞を目覚めさせるための毒言葉」ということになるらしい。もちろんこれもサティの「いつも片目を開けて眠るふとった猿の王様を目覚めさせるためのファンファーレ」に倣ったものであるということである。私はこの本の中で、新おんなゼミ5に1979.9.20に掲載された「おんなの知的生活術」の「オリジナリティ」に関する文章が好きである。
【オリジナリティ】 このカタカナ英語は舌がもつれて私には発音できない。だから使ったことがない。編集者その他がよく使う。これがある、と言えばつまり褒めたことになるらしい。しかし大体、一流の本物は、由緒正しくも何かの模倣であって、なおかつ偉大である。オリジナリティがあるなどと言っては失礼に当たる。それがあると言う以外に褒めようがないものは大概三流以下なのである。
一方、ホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」は、「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代に、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になり、なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからであることが述べられている。「大衆」は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ、無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。こうした大衆社会は、その後、ファシズムやナチズムを生むことになる。
私がホセ・オルテガ・イ・ガセットの「大衆の反逆」を読むきっかけになったのは、西部邁の「大衆への反逆」に触発されてのことで、倉橋由美子にしても、西部邁にしても、当時の私には、精神のエリート主義的な傾向があったためと思う。西部邁に注目していたのは、1988年に、東京大学教養学部助教授に中沢新一を推薦するも、委員会では通ったが教授会の採決で否決され、これに抗議して、本人曰く、「東大の馬鹿騒ぎ」と呼んだ東大辞職事件があったからである。この騒ぎで西部支持に回ったのは、蓮實重彦、佐藤誠三郎、公文俊平、村上泰亮、村上陽一郎、芳賀徹、平川祐弘、鳥海靖、舛添要一、松原隆一郎、大森彌などである。元々、東大の学生時代、全学連の中央執行委員も務め、60年安保闘争に参加するも、連合赤軍による群馬県榛名山での集団リンチ殺人事件(山岳ベース事件)の報道を目にして、多少とも左翼に共感していたことへの道徳的反省をして、1980年代から保守派の論客として活躍するが、2017年10月、週刊ダイヤモンドのインタビュー中、安倍晋三を名指しして「陋習とそうでないものを峻別しながら伝統を守るのが保守。故に保守ではない」「戦後の日本人の愚かさ加減がにじみ出ていると言える」と評するなど、昨今の無批判に自民党を応援する自称保守派の論客と違い、『産経新聞』、『正論』、『諸君!』などを中心とする日本の親米保守の知識人たちと一線を画し彼らを批判している姿勢が好きだった。
ところで、この面接の時に、入学試験の時の実技の作品が先生方の前に用意されていたのだが、ちらっと、私の実技の作品の点数を見てみると、平面構成も建築写生も12~13点だった。よくこんな成績で入学できたものである。いったい、学科試験で私は何点取ったのだろうか?

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