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一度自分は死んだと思えば何でも楽しく思えるのかもしれない
18歳の時に、夜の山奥でスリップして車ごと冬の川に放り落ちる寸前の単独事故を起こしました。
現場はガードレールが無い崖で、奇跡的に1本だけ建っていた視線誘導標に車が引っ掛かって川に落ちなかったのです。
視線誘導標も衝突した衝撃で斜めに曲げてしまったのですが、もしこの誘導標が無かったら冬の川に車ごと落ちて誰にも気付かれず本気で死んでいたと思います。
山奥というのも、当時人口50人程度しかいない山村に暮らしていて、町内から山村まで20km離れた街灯の無い山間部で事故が起きたので人通りはほぼゼロ。この日、私は知り合いの方のお葬式から山村に向かって帰るところでした。
死ぬと感じた時に思ったこと。
車がスリップして回転し出した瞬間、全てがスローモーションに見えました。走馬灯は見えませんでした。ハンドルを思いっきり回して見ましたがタイヤは思ってる方向にひとつも動かず、ぐるぐると回る四角い箱に身を委ね、『あ、私18歳で死ぬんだ。やりたいこと何もできなかったなぁ…』とふと思ったのです。そして、その瞬間「やだあああああああああああああーー!!!!!!」と全力で叫んでいたのです。
まだ生きたい。生きたい生きたい死にたくない。本当に本当に本当にまだ終わらせたくない。
あとはもう確かな記憶がありません。
車が視線誘導標に思いっきりぶつかって身体が鞭打ち状態になり、目を開けると車がギリギリ落ちていなくて、車が重力で落ちるんじゃないかと思いながら急いで車内から飛び出し、山村に住んでた父親に電話しました。助かったのです。
父親や山村の方々が助けに来てくれて、中学生の男の子が現場の崖を見て「やっば…笑」と思わず笑ってしまっていたことを覚えています。
私はずっと泣いていました。
警察が町から駆けつけて来て「僕でもこんな場所で事故になったら泣いてしまいますよ」と声をかけてくれました。
わんわん泣きました。
安心と緊張のほぐれともしかしたら死んでいたかもしれない恐怖で涙が止まりませんでした。
今思い出しても怖くて涙が出ます。
人生は短い。急に終わってしまう無念があることを身をもって学びました。そして、人は何が理由で死ぬか分からないということ。大きな充実感も得られていないまま自分の人生を中断させられてたまるものか、自分の人生を一点の曇りなく生きたい。と決意した瞬間でした。
もしあの事故の時死んでいて、もし生き返るならどうしたい?と自分に問うなら、『自分の可能性に懸ける人になりたい、だから何でもやってみたい、何か生きた爪痕を残したい。今を納得できるように生きていきたい。いつ死んでも納得できるように。』と、答えると思います。生きているだけでやりたいことをやれる、それが保証されている今、悩んだりやりたいことをやってみることができるのはまるごと有難いことなのです。だから、今でも生き方とか人生について考えずにはいられないのです。そして、周りの人の人生がプラスに好転するような何かを生み出すという漠然とした使命感も感じています。
後悔のない生き方をする。