<雑感> KANさんのこと、谷川俊太郎さんのこと、そのほか
今更ながらKANさんのことなど。
KANさんが亡くなってから、気づけばもう一年が経っている。
KANさんのことは「愛は勝つ」で知り、「愛は勝つ」が入っている「野球選手が夢だった」のCDを、若い頃、車の中でよくかけて聴いていた。
「愛は勝つ」は、父が身体を壊して家にいた頃で、母とも会話に上った思い出の曲でもある。
その後、「野球選手が夢だった」のCD以外はあまり聴くこともないまま過ごし、去年、KANさんは亡くなってしまったのだが、亡くなった後の今、KANさんの曲をよく聴くようになった。
CDがなくても配信で多くの楽曲を気楽に聴ける様になったのもあると思うが、KANさんが亡くなってしまった後になって(亡くなってしまったことがむしろきっかけになってというべきか)、曲を聴くようになったというのは、もっと生前からリアルタイムで聴いていればとの残念な気持ちもある一方で、好きなものを見つけ直させてもらえたような、ありがたいような気持ちもある。
数年前、会社の同期の一人が亡くなったとの知らせを受けた時、もっとちゃんと連絡を取っていればと悔やんだが、彼が生前の時よりも、時々ふと彼のことを思うことがある。
どうせなら本人が生きている時に、ちゃんと接点を持ち、新しく出された曲を聴いたり、集まって話をする機会を持てていた方がもちろんいいに決まっている。
でも、いなくなってしまったことをきっかけにして、再び接点を取り戻すということも少し不思議なものだなとも思う。
それでもやっぱり、いなくなってしまってから気がつくのは残念なことなのだけれど。
◇ ◇ ◇
それから先日、谷川俊太郎さんが亡くなった。
普段、谷川俊太郎さんの詩集をよく読んでいたわけでもないけれど、谷川俊太郎さんの訃報の後、私のX(Xは見るだけ)のタイムラインは、谷川俊太郎さんの詩とともに悼む投稿や、詩にまつわる思い出の投稿がたくさん流れてきて、谷川俊太郎さんの詩で溢れた。
いつか教科書やどこかの美術館で読んだかもしれない懐かしい詩や、初めて読む詩など。スヌーピーの翻訳も谷川俊太郎さんだったことなど、改めて知ることも多くあった。
まさに、「朝のリレー」ならぬ、谷川俊太郎さんにまつわる “思い出のリレー” だった。美術館やカフェの壁だけでなく、それぞれの生活のいろんなところに行き渡っていたのだと実感した。
「生きる」という詩がタイムラインに流れてきて、改めて読んだ時、その中に、“いま遠くで犬が吠えるということ” というフレーズがあり、父が生前に友人のために書いた追悼文のことを思い出した。
父の友人が亡くなった時、父はまだ40歳くらいだったと思う。
父が書いた追悼文を全て覚えているわけではないけれど、“〜のとき、犬のしっぽが揺れるとき、自分が生きていることを実感する” と書かれた一文が印象に残っていた。
今振り返って、自分が40歳くらいのとき、そんな風に、“生きている” ということを意識していたことはあっただろうか。
不摂生から身体を壊し、還暦を迎えずに亡くなった父だが、40歳の当時はまだ健康だったと記憶している。それでも、その当時から、父はある種の死生観、厭世観や刹那的な感覚を持っていたのだろうか。
それとも、ただ、格好つけた文章を書いただけかもしれない。
今となっては分からないけれど、懐かしくその文章のことを思い出した。
それにしても、言葉の力(刃的なものではなく、前向きな意味での)の強さ。
流れてくる詩を読んで、谷川俊太郎さんの詩の広がりを改めて感じさせられた。ひらがなが多く、難しい言葉などほとんどないのに、余白があり、余韻が静かに広がっていく感じ。
きっと谷川俊太郎さんの心には、宇宙のような広がりがあったのだろうなあ。
言葉を紡ぐ人の大きさ、言葉の力、言葉が思い出の一部になることを、改めて感じた時間だった。