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本 十牛図入門 (続き2)
みつけた牛の足跡は、つまり釈尊による「おしえ」です。
第二章 牛の足跡を見つける(見跡)
もう見つからないと座り込んで、ふと足元をみたら、牛の足跡があった。
ありがちです。こういうこと。
そして、教えをことばに説くことについてふれています。
教えは言葉にはよらないけれど、間違えてしまったその元が言葉によるな
ら、修正も言葉でしましょうということです。
正しい言葉を、正しい師匠から聞くのがいいけれど、
それができないときは経典をよむことであってもよいのだそうです。
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数ある仏教を貫く根本の教えは、「縁起」と書かれています。
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ここは難しいです。
はっきりいって、私にはわかりません。
相対するなにかがあるから、そのものが認識できる。
相対するなにかがなければ、そのものもない。
私は、こんな理解です。この解釈には、自信がないです。
読み進めていくうちに、気づきがあるかもしれそません。
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この章で一番こころに響いたのは、
「正聞薫習」(しょうもんくんじゅう)
ただしい教えをただしく聞くことを繰り返すことは
深層心理に潜在する素晴らしい種子(可能力)を、
水、肥料でそだてる、ということ。
そして、自己を深層から改革していくことができる。
ちなみに、教えは非論理的なものでもいいとあります。
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分からなくても、足跡をたどりながら、つまりとにかく教えをたどりながら、信じて牛=自己を探す。
結局なんだか、当たり前の結論みたいなことになってしまいました。
当たり前のことなんでしょうけど、むずかしいことだなと思います。