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連載小説「雲師」 第五話 雨の少女
少女は微かな音を感じ、そちらにゆっくりと顔を向けた。
さぁあ……
ぱららっ……
ぱら……
ぽた……、ぽた……
どうやら、雨が、たった今、降り始めたようだった。音からして粒は小さく、その丸い粒が窓に当たって弾けた音を、少女の耳がしっかりと聴いていたのだった。少女の唇が少し動いた。
「きれいなおと」
そう呟いた。が、その言葉を受け取る人はその場には誰もいない。
「なぁ、ソラ! お前正気か⁉ 本当に見に降りていくのか⁉」
苦虫を噛み潰したような顔をした少年シラスが、十歩先を駆けていく少女ソラに向かって叫んだ。ソラがほぼ走っていくのでシラスも大慌てで走り出した。
柄の長いスパチュラが物に当たらないよう気を付けながら走った。
「見るだけだもん!」
廊下に続く中庭のすみまでやって来て、ソラはひょいとスパチュラに跨った。魔女が使うホウキのように、雲師のソラやシラスたちはスパチュラを使って空を飛ぶのだ。空色の柔らかい肩下までの髪を乱暴に後ろにやってから、ソラはあらためてシラスの方を向いた。
「大丈夫! 場所は配達員さんのおじさんに頼んであるの。一緒に着いてきてくれるから迷わないし、帰りだっておじさんと一緒だもん。絶対に大丈夫!」
「それは……そうかもだけど、見られない保証はあんのかよ! 雲師の掟を忘れたのか? 不用意に人間界に降りるのはダメだって、校則でも先生からもキツく言われてるだろ?」
「知ってるよぉー! もう、シラスってば、掟とか校則ばっかり!」
(……し、ん、ぱ、い、なんだよ!!!)
シラスが渋る理由は一つだけだ。ソラが心配だからだ。
先日、願いの配達人さんがソラの祖母に相談しに行った時、ある難しい願いごとを知ってしまった。
「空を飛んで雲の上でピクニックをしてみたい」
空を飛ぶことも、雲の上に乗ることもできない人間には到底叶いっこない、夢のようなロマンチックな願いごと。それを願ったのは余命宣告を受けた少女だと聞いたソラは、一瞬でもいいからその少女に会いに行きたいと言ったのだ。
(見てどうする。会ってどうなる。おれたち雲師は存在を明かしちゃいけないんだろ?)
準備万端のソラが肩がけ鞄をぐいっとシラスに渡してきた。思わず受け取ってしまったが、慌ててシラスもソラに返そうと押し返す。
「ちょっと持っててよ!」
「ソラが持てよ!」
「その鞄があると飛びにくいからさぁ、戻ってくるまでシラスがちょっと持っててよ。ばぁばに渡したらどこに行くのかしつこく聞かれちゃうし」
「おい! 荷物番させんなよ! ……あー、もー!!!」
シラスが自分の荷物の他にソラの鞄も肩に下げ、己のスパチュラに跨った。
「ん? シラスはどこに行くの?」
キョトンとするソラに、シラスは噛みついた。
「おれも、行く!!!」
叫んだシラスは、だん!と強く地面を蹴って空へと舞い上がった。みるみるうちに中庭が遠くなってゆく。庭の周囲に植えられた広葉樹の木々が瞬く間に小さくなっていく。
「あ……! ちょ、ちょっと待ってよ! シーラースーーー!!!」
天上界はカラッと晴れていたが、下界へと降りるにつれ少しずつ湿度を持った空気に変わっていった。
白いローブのソラとくすんだ青いローブのシラスは、赤い帽子の願い配達人のおじさんの案内で、まっすぐに人間界まで飛んでいった。
「雨は降ってないみたいだな」
と、シラス。
「そうだね。でも朝にちょっと降ったのかもしれないね」
と、ソラも答えた。
「ソラさんにシラスさん、もうすぐですよ。二人ともこんなに長く飛ぶのは初めてでしょう。それなのにしっかり飛んで着いてこれて、すごいですね」
最後におじさんが労ってくれた。
ソラはドキドキしていた。
雲師のソラたちは下界に行く前におまじないを受けていた。配達人詰め所におまじないをする人がいて、頭と両肩と首のまんなかにちょんちょんちょんと指を当てられた。それが、おまじない。
これでわたしたちは人間には見えなくなる。
到着した場所は、病院だった。
すごく大きな病院で、広々とした敷地に平たく長い建物が建っていた。
窓の数を下から数えると五階くらい。そんなに高い建物ではなさそうだった。
「話し声はおまじないでも消せませんので、お静かにお願いしますね」
おじさんが忠告した。ソラは慌てて片手で口を塞いだ。反対の手はスパチュラを握っているので離すことができないからだ。
病院の周りには歩くための石畳があり、大小いろんな木と植物があった。さらにその周りをぐるりと囲うように、青々とした生け垣が植えられていた。天上にはあまりない植物が珍しく、ソラもシラスも興味深く葉っぱを指で弾いたりしてみた。
おじさんが小さなメモ紙を二人に見せた。
『レイン病院 四棟 四階 部屋番号 病院入り口から四番目』
「なんか、四ばかりだな」
「あっ……。もう、シラスってば、黙っててって言われたじゃない……!」
ついツッコんでしまったシラスをソラが小声でたしなめた。
四、四……と数えながら、目的の部屋が見つかり、ソラたち三人は静かにまた空へと浮上した。そろりと窓から病室内を見た。
少女がベッドに横たわっていた。
正確には、ベッドの上に座っていた。腰までふとんに包まれているので寝ていた状態で上半身だけ起こしていた、という感じか。
ぼんやりと無表情で壁を見ていた。
(なんて白い肌をしているんだろう)
ソラは小さく息をもらし、四ばかりの部屋にいる少女を眺めた。彼女の年齢は分からない。細くまっすぐな肩くらいの髪は黒く、ソラよりは短めだ。ソラの髪は肩よりちょっと下で先の方がくるんと丸まっている毛質だった。ふとんから出ている手首は細い。手も顔も真っ白だ。
瞳の色まではよく見えなかった。壁の方を向いたまま微動だにしない。部屋の窓はわずかに開いている。
コンコン、と小さく音がして、それから部屋のドアが開いたようだった。少女がゆっくりとドアの方に顔を向けたのが見えた。
「ユウ。あら、起きていたのね。体調はどう?」
「うん……何ともない。ふつう」
「そう、それは良かった」
(ふつう……)
ソラは不思議な気持ちになった。
ユウ、と呼ばれた彼女が発した「ふつう」が、本当にただの「ふつう」なのだとまっすぐに伝わってきた感じがしたからだ。
「何か食べられそうかしら。一応、今日はりんごとぶどうをタッパーに入れて持ってきたのだけれど」
少女と同じく黒髪の女性がベッドの隣に近寄って話しているのが見えた。それからいくつか言葉を交わし、少女は細い指で細い棒をつまみ、女性が用意した小さな食べ物をそっと口に入れていた。
「おいしい」
少女の言葉がまっすぐソラに届く。
おいしいのだ、彼女が、今、食べたものは。
どうにか抑え込んでいた曇天の雲から、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。むわっとした空気が熱と一緒にソラたちのところまでやって来た。遠くに見えていた庭木は、霧のような白いモヤで見えにくくなり始めた。
(見ることができましたね。もう十分でしょう?)
ごく小声でおじさんがソラを見ながら言い、ソラは頷いた。シラスは眉間にシワを寄せて少女を眺めていた。
くるりと向きを逆にして三人は来た道をまた戻って行った。
飛んでいるソラとシラスの顔に雨粒が当たって小さく霧散していく。雨は冷たくて気持ちよく感じた。
「気持ちいい」
ソラは少女のマネをして、できる限り思った通りの言葉を言ってみた。それを聞いた隣のシラスは不思議そうな顔をする。
「なんか、雨に当たりたい気分なのか?」
ソラはシラスの問いには答えず、上手く言葉にできなかった悔しさを胸に、まっすぐに天上へと飛んでいった。
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(つづく)
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