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【紫陽花と太陽・下】第九話 親友

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 部活動で使っていた柔剣道場の床をしっかりとモップで磨き、最後に一礼をして俺は外に出た。
 剣道部の仲間と別れ、一人、また一人とそれぞれが帰路に着く。ふと見上げると円を真っ二つに両断したような半月が見えた。

 ——あいつも、たまには月、見てんだろうか。

 きりっと冷えた夜空を見上げながら俺は思いを馳せる。俺の友達……それ以上の関係、親友のことを。

 背中に教科書類の重いスクエアリュックを担ぎ、汗臭い胴着袋をぶらつかせて家に帰った。玄関を開けるとぶわっと飯の匂いがした。

 当たり前、ではない。
 俺は毎日、この日常は当たり前のことではないと思うようにしている。
 部活ができること、自由に帰れること、飯の心配などしなくともいつも食卓に飯が出てくること。

 親友が、どれも手放さざるを得なかったこと。

 人それぞれ環境が違うのだから、同情でも哀れみでもなく、ただ目の前の事実を見て。俺はしなくていいことを親友は小さい頃からやらざるを得なかった。家は近くとも一歩外から見ているだけでは何も手伝えやしない。

 俺は奴と時々話しながら、本当に疎遠になったものだと痛感する。

*  *  *

『彼女と、別れた』
『……え。……えええぇーーーーッ!!!???』

 仕事帰りの遼介りょうすけが、一旦自宅に戻ってシャワーを浴びてから俺の家に来た。この時は、前に翔と一緒に会ってからさらに一月ひとつきほど経っていて、奴と俺は報告会……いわゆる雑談をする予定でいた。二月下旬頃だったか。
 そこで俺がまず報告をした。彼女との離別の件。奴は思った通りの反応を返してきた。

 飲食店で働いている奴は強い香りを避ける。食事に不要な香りを残さないためだとか。そのため洗濯洗剤、柔軟剤、室内の芳香剤の類には特に気を遣っているらしい。無臭の男が目を白黒させて絶句していた。

『な、何年……くらい? だったの?』
『一年と数日だ』
『そ、それはそれは……』

 遼介は現在あずさと交際していて、そろそろ半年は過ぎたくらいか。俺は奴が持参してきたホットコーヒーをぐびっと飲んだ。自宅で淹れてきたらしいそれはマンデリンとかいう名の豆らしく、たまに飲むコーヒーより酸味が少ない気がした。

 俺と別れた元・彼女はとにかく気が合わなかった。彼女は剣道部の一年上の先輩で、主将で、とにかく強かった。結局一度も勝てたことがなかったくらいだ。自分の好き嫌いがハッキリしていて、たぶん——こんなことを遼介に言えば自分にも非があるかもしれないと勘違いするかもしれないが——その絶対に譲らない頑強な意志が、遼介にはなく、俺が彼女に惹かれた反面疲れてしまった要因なのだと思っている。

 遼介と行動を共にしていた時は揉めることは皆無だった。二人で相談し、奴も希望を言うが、けっこう俺の希望を叶える行動をとることが多かった。何して遊ぼうか、おやつはどっちを食べるか、行きたい場所をどうするか……。
 ゆるぅく波のように穏やかな遼介と揉めることがなさすぎて、俺は困惑したのだ。元・彼女はどうしてこんなに細かいところまでこだわるのだろうかと。かといって『どっちでもいい』などと言えば叱責された。一体どうすれば良かったのだろうか。

 別れ話、最近の剣道部について、教科書や参考書を開いて遼介が仰天したりと、普段会うことのない俺達は短い時を共有する。俺の部屋で、俺はあぐら、奴は座椅子に背をもたせ寛ぎながら、なんだかんだとしゃべりまくる。

 来年の受験の話になった。
 あずさは大学を受験するらしい。どういう縁か、俺も同じ大学を希望していることが分かった。少し遠いが電車を乗り継いで通学することは可能だ。そしてその大学には遠方からの学生のために寮もある。
 俺は呟いた。

『あずさが寮に入ったりしてな。その方が通いやすい』

 乗り物に弱く、一人で外出することを恐れているあずさのこと。寮に入れば大学は近くなるから、通学環境をどうするのか合理的に判断するかもしれないと思ったのだ。遼介が一瞬の間をあけ、呟きで返してきた。

『それがあずささんの望みなら、それがいいのかもね』

 ひどく落ち着いていた。言ってから遼介には酷なことかもしれんと思ったが、考えだしたら寮暮らしの方が彼女にとっては良いことのように感じてしまった。
 ——遼介の家族に気を遣う必要がなくなる
 ——寮と大学が近い方が通学に時間がかからない
 ——今みたいに遼介や友人に、通学の時一緒について来てもらわずに済む
 ——一般的に、一人暮らしより寮生活の方が費用が安い

 そういう話をすることがあるのかと問うと、していない、らしい。
 でもさっきの落ち着き具合からすると、遼介はそれも予想はしているみたいだった。俺達の人生の分岐点。足元から道が延びて、幾重にも分岐をして遠くまで続いている。遠くは暗くてよく見えない。

『お前はついていかないのか。職場が遠くなるのか?』
『そうだね。僕はずっと家だ。椿つばきもいるし、柚子ゆずのこともあるからね』

 柚子、というのは奴の姉の子供で姪っ子にあたる。ミルク作りは前にも見たが、これから大きくなれば離乳食も作るらしく、一体奴が普段どんな生活を送っているのか想像もつかない。

『お前の子供じゃないんだから放っておけばいいじゃねぇか。姉貴がどうにかするんだろうよ』
『確かにそうなんだけど、でもさ、今の状況を作ったのは僕とあずささんでもあるんだよ』
『どういうことだよ』
『やりすぎたのかもしれない。なんでもかんでも。ごはん作りだって要領良くできるようになればさ、もう自分で進めたほうが早いんだ。桐華姉に一からやってもらうといろんなところが見えてしまう。手を出したくなっちゃう。たまにはお願いするよ? お惣菜買ってきてーってさ。でも……』

 遼介が、目を伏せながら苦笑いをした。
『いいんだ。自分で撒いた種だから。僕にとって大事なことは桐華姉を一人で生きていけるようにすることじゃない。あずささんを、椿もだけど、一人で生きていけるようにする、それが一番一番大切なんだ』

 ——父さんもそれを願ってた。

 その台詞を吐いた奴の顔が目に焼き付いて離れない。
 あずさが家を離れる——大学入学時なのか、就職時なのか、いずれにしても遠くない未来には、この二人は別れることになるのだろうか。
 背中を押す者。押されて前を向いて生きていく者。

 まずは進路の相談だよな、という結論で締めくくった。ホットだったコーヒーはぬるくなってしまっていた。俺には無理だった『落ち着いて両者の意見交換をする』ということを、遼介とあずさはきっとできるだろう。

 それにしても。進路の話でこれほどクソ真面目に誰かと話したことなんぞなかった俺は苦笑した。親とだって、ない。クラスメイトとは? 希望の大学名とそれの合格判定のアルファベットくらいは話すか。でもそれだけだ。目標に向けて努力しなくてはならないのは自分自身。誰かと相談する時間が勿体ない。
 皆、自分のことで手一杯だ。
 誰かの背を押す、それもまた、当たり前ではないのだ。

 家族が笑顔で暮らせること。そりゃあ素晴らしいことだ。だが、誰かの犠牲があって成り立つものではないはずだ。皆で協力し合わないといずれ歪みが生じる。

 俺が遼介をすげぇな、と思うのは、本人が被害者意識を持っていないことだと思う。自分ができることを、できる範囲で、年単位で続けていく。そして無理もしない。あずさなら倒れるくらい何かに集中することを、こいつはある程度で上手に手を抜き、まぁいっか! とそれで良しとする。

『別れねぇといいな』
 わざと冗談めかして言った。それを受け、ある時から少しずつ前を向くようになった奴が飄々と切り替えしてくる。

『そんなこと誰にも分からないよ』
『そりゃあそうだ』
『未来は考えても仕方ないし』
『刹那的だな』
『セツナ?』
 ちょいと難しい単語を言えば、一瞬遼介は頭を捻る。
『あぁ……、今しか見てないってことか』
『そうだ』

 自分よりもあずさの気持ちを優先したい遼介の行き着く先は、どの船着き場になるのだろうか。仕事はともかくとして、家族は置いてあずさと二人で暮らしていく未来を、考えたことはないのだろうか。

『ね、剛』
 遼介が懐かしむような目をして話しかけてきた。
『あずささんと剛が、受験に失敗しないで就職もできたとして、お仕事をスタートするのって、いつだと思う?』
 指折り数えて考えた。
『就職して一年目、だろ……。来年、再来年から四年が大学生で……』
『そうそう』

 なぜ遼介がそんな懐かしがるのか、と疑問に思えば答えはすぐそこに。
 俺とあずさが就職する年。奴の妹の椿は、中学二年生になるのだという。
『中二だよ。僕たちが、出会った年だ』

 こいつはどこまで未来を見ているんだろうか……。
 刹那的に生きているのかと思えば、遠い不透明な先の先、今の俺には考えられない『いつか』をこいつは見えている気がしてならない。


 帰り際、遼介は玄関で靴を履きながら俺を振り返って言った。
『さっきの、あずささんが出ていくかもしれない話だけど』
『うん?』
『もちろんいつかはそうなるんだろうなぁって思っているよ』
『それにしては困った感じがしねぇな』
『そうかな』
『あぁ。まぁ、遠距離になっても関係が途切れるわけじゃねぇから、あまり心配してないのかもしんねーけどよ』

 靴を履いてからも話が終わらん。会わない期間が長いとどうしてもしゃべりすぎてしまう。

『あんまりあずさの気持ちばっかり優先させんじゃなくてよ、お前のしたいこと、やりたいことだって、ちゃんと言わねーとダメなんじゃね?』
 俺はどちらかというと遼介寄りなので、口うるさく忠告する。
 そんな心の内を知ってか知らずか、奴がふふふと何やら微笑んだ。

『お前の気持ちはどうなる。ただ黙ってあずさが何か決めるのを待ってるだけか……』
『大丈夫。待つだけにはしない』

 奴が一呼吸をおいて、言葉を紡ぐ。

『僕は、たぶん、ずるいことをするよ』

 何だよずるいことって、と言うも、上手にかわされた。
 何を考えているのかさっぱり分からない。

 宣言した時の遼介は、俺の方ではなく玄関に吊り下げられた鏡を見ていたものの、その視線の先は鏡すら見ていないようだった。横顔は何とも不思議な表情だった。

*  *  *

 温かい飯を食い、進路の話を親にした。
 合格判定ラインを見ると今でも十分なのだが、せっかくなら推薦入試もありだと考えている。あらゆるリーダーをやらされ、いつの間にか実績が加算され、剣道部主将も継ぐことになっていた。早くに大学入試の合否判定が出れば時間にゆとりが持てる。その余暇で遼介ともっと話をする機会が持てるかもしれない。

 ——結局俺は、物事の中心に奴がいるんだな。

 遼介が太陽だとしたら、俺は月か。ぐるぐるとつかず離れずの立ち位置で、昔からずっと奴のまわりを回っている。

 俺が予想できる未来があるのだとすれば、これからもまたずっと、俺は遼介を遠くから眺め見ているのだろうということだった……。



(つづく)

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【あとがきではないあとがき】
本来は会話文だけの報告会でしたが、あまりにもだらだらと長過ぎたので、剛の独白のお話に書き直しました。

ここには書かなかった話題に、桐華姉の強み、があります。
長くなるので割愛しました。
姉弟のお話でも本話でも、桐華姉は家で何もしない描写となっておりますが実際はそんなことはなく、一家の大黒柱として皆を支える役目をしていると思います。
保育に関わる先生ってすごいんです。怪我やケンカ、個性豊かな子供ひとり一人を見ながら一緒に遊び、保護者にも寄り添い、降園後は行事の準備やその日の保育の報告を毎日作っていく。
椿が幼い頃は怪我や体調不良にもなるでしょう。そんな時、強くてたくましい桐華姉はきっと頼りがいのある存在なんだろうなぁと想像しています。
いつでも前向き。小さなことにこだわらない。そういう桐華姉は、あずさにとって一緒にいても疲れない、包容力のある女性に感じていたと思います。

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