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【紫陽花と太陽・下】第三話 姉弟[1/2]

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 欲望のままに惰眠を貪り、ようやく眠りから覚めてきた。私は大きなあくびを噛み殺しながらリビングにのそのそと顔を出した。もう一度あくびが出た。

 そこでダイニングテーブルでスマホを手にしていた弟とバッチリ目が合った。

「何かツッコミ入れたほうがいい?」
「ツッコミ?」
「その大口に、チョコレートでも放り投げようか?」
 弟はマグカップの隣にあったマーブルチョコを見せてきた。

「あんたが投げて、入るわけないじゃない」
「それもそうだ」
 目線を下げ、弟はまたスマホを見る。耳には無線のイヤホン。最近暇があるとその状態になっていることが多い。

 リビングに立つとふわりと珈琲の香りが漂ってきた。珈琲を淹れたようだ。インスタントではなく、きちんと豆から挽いて。——弟の誕生日にあずさちゃんが贈ったコーヒーミルはほぼ毎日使っているようで、弟もあずさちゃんもよく珈琲を飲むようになった。

 私の弟。今年十七歳になった。今でも私は弟の大人びた印象にうまく馴染むことができない。ついこの前までは、小学生だったはずなのに。

 何かしたいわけでもないが、とりあえずスマホをチェックした。頭に思い浮かぶのは昔の弟。私や二つ年下の妹とは年齢が離れすぎているせいか、性別が違うせいなのか、最近特に弟の考えていることがさっぱり分からなくなってきた。

「あんた、それエロゲ?」
「?」

 ちょっとびっくりさせてやろうかという悪戯心で聞いたのだが、弟は目をパチクリさせてこちらを見、小首を傾げた。
(知らないか……)
 弟は、私の記憶の中では小学生のままで止まっているのだ。小学校高学年くらいのままで。

「何?」
 イヤホンをはずし、残っていたマーブルチョコをパクっと口に放り込み、弟は台所に向かった。

「何か、食べれそう?」
「ん」
 バカンと音を立てて冷蔵庫の開く音がした。
「何、あるの?」
「うーん、りんごとぶどう、あと、梨」
「うん」
「ヨーグルトもある。はちみつか、ジャムあるからそれ入れて食べたりも」
「うん」
 私がいつまでも首肯しないからなのか、苦笑いしながら弟が続けた。
「朝の残りの味噌汁もある。野菜たくさん入れたやつ」
「それ食べる」
「分かった」

 冷蔵庫から弟が片手鍋を取り出し(鍋ごと入れたようだ)コンロの火にかけた。

 どうしてここまでやってくれるのかというと、私のお腹には、今赤ちゃんがいるからだ。愛する夫との宝物が。
 しんどすぎるつわり期が終わって安定期も過ぎ、今は臨月というやつになった。食欲も少しはあるので——前までは食べる気も起きなくて始終ゴロゴロしていたけれど——少し食べてゴロゴロする生活を今は送っている。

 我が家の食事の支度は弟とあずさちゃんの二人がやっている。複雑な経緯で家族になったあずさちゃんは、本当によく弟を支えてくれていると思う。

 それにしても。

 私は弟の横顔を眺めた。

 何を考えているのやら。いつしか弟はいつも微笑を浮かべるようになった。今もそう。口の端をわずかに上げて鍋の中身を確かめている。

 職場の同僚に少し愚痴ったこともあった。幼稚園教諭の私が、子供(正確には弟なのだけれど)の気持ちが分からない、と。教員のくせにあまり言いたくはなかったけれど、当時は本当にさっぱり分からなかったのでつい聞いてしまった。

「へぇ、何歳くらいの子なの?」
「十五……いや、十六歳か」
「思春期真っ只中ねー、そりゃあ分からないわ」
「女の子? 男の子?」
「男です。弟。何を考えてるのか、さっぱりで」
「分かるわぁー」

 ベテランの類に属する同僚が相槌を売ってくれる。うちの息子も小さい時は母べったりだったのに、ある時期から冷たいのなんのって! と苦笑いを浮かべながら話す。

「肩についたゴミを取るだけで怒られるんだから」
「へぇ」
「普段は部屋にこもりっきりで何をしてるんだか。でもって、話しかけられる時はお小遣いね」

 息子と弟では少し違う気もしたが、そういう態度を取られるなんて考えもしなかった。私の弟はそれとはまた違う。
(話は普通にするのよね)
 部屋にこもるわけでもないし、成長とともに口数はまぁ少なくなってきているかもしれないけれど、険悪な雰囲気になるわけじゃあないし。普通に接しているわよね。

 一度言い争いになったことがあった。弟が中退をして働くと言い出した時だ。
 母が死んで、父も死んで……弟も辛い時期が、悩んだ時期があったのは分かる。笑わなくなってあまりしゃべらなくなった時期もあった。

 それを乗り越えて、今は、謎の微笑。

「おまたせ」
 顔を上げると目の前に盆に乗った汁椀と箸が添えられて出てきた。
「ありがと」
 視線が合った。時々、弟はいつしかの父と同じような慈愛に満ちた瞳を宿す。

「今日は、仕事あるの?」
「あるよ」
 弟が壁に貼っているホワイトボードとカレンダーを指差す。
「十時四十分には家を出るよ。あ、洗濯は終わって、干してもあるから」

 さいですか。つわりで寝ていても家の中のことは何も心配しなくていいらしい。事実、つわりでなくても全ての家事が弟とあずさちゃんの二人で片付けられていく。もう何年も私はずっと自堕落だ。


 しっかりものの姉とのんびり屋の困った弟。
 こういう絵が頭の中にずっとあった。それが心地いいと思っていたこともあった。

「あんた、身長いくつになったっけ?」
「えっ? ……百八十……くらいかな。たぶんだけど」

 そんなに高かったのか。心の中でそっとため息をついた。夫と同じくらいになっていたとは。

「ふぅん」
「味噌汁、もう冷めてきたんじゃない?」
「あんた、彼女とかいるの?」
「彼女?」
「そう」
 今日は気になっていたことを聞いてみた。リビングの中は今は私と弟だけ。カチカチと時計の音だけが静かに響く。夫は仕事、二つ下の妹は一人暮らしでここにはいない。末の妹は小学校、あずさちゃんは高校。

「いると思う?」

 弟が小首を傾げて聞き返してきた。あの微笑はそのままに。
 てっきり顔を赤くしたり、口ごもって返事をすると思っていた私は戸惑った。
「愚問だったわ。あんた、家と職場とスーパーしか行かないもんね」
「そうだねぇ」

 実際、弟の行動範囲は異様に狭い。小さな頃と変わらない。
 朝起きて、家族の食事の支度、いってらっしゃいと見送った後、後片付け。時間になったら出勤し、終わったら帰宅。一人で晩ごはんを食べたらあずさちゃんに変わっての後片付け。そして、寝る。おんなじ生活。繰り返し、繰り返し。

「ずっとこの家に入り浸るつもり?」
「少なくとも、椿つばきが自立するまでは」

 即答だった。まっすぐに見返す瞳は力強い。弟は弟の考えを持って今の生活を選んでいるのか。

「迷惑なら、やりづらいなら、別の方法も考えるけど」
 弟は時計を確認して、残りの珈琲にゆったりと口をつけた。
「これから赤ちゃんも生まれるし、桐華とうか姉に家事や育児を任せるのも、ちょっと怖い」
「……」
「かといって、あずささんに家事を任せるのは、僕はしたくない」
 きっと完璧に全部こなそうと頑張っちゃうと思うし、と弟は呟いた。
「でも、ひろまささんも過ごしやすい家にしないとね」
「まぁ、そうね」
梨枝りえ姉も、椿も。もちろんあずささんも」

 そろそろ準備してくるね、と言って弟が立ち上がった。

「家族会議、したいの?」
 そんな大変面倒なことは考えてなかった。急いで首を振る。

 ごちそうさま、と急いで箸を置いて盆を下げた。弟の心は分からないけれど、家族のことを弟なりに考えていることは少なくとも分かった。昔のようにぼんやりと生きているわけではないのだ。
 弟が、手近な場所に準備してあった仕事用のシャツに着替えた。その背中が逞しくなっているのを見て、腕の筋肉にもいつの間にか出てきた喉仏にも気が付いて、私は月日が経っているのを久しぶりに感じた。年寄りみたいに。

「無理しないように」
 ふわりと微笑んで弟が出勤して行った。


 ふと胎動を感じてお腹をさする。眠くはないがすることもない。
(とりあえず、散歩でもするか)

 のんびりと私は生きている。


(つづく)


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