連載小説「雲師」 第十一話 だれも悪くない
「数値が下がってきていますね」
ツンとした消毒の香りにも慣れた。ここは白を基調とした総合病院の入院病棟。先ほど主治医から告げられたあまり良好とは言えない言葉を脳内で繰り返した。
優雨の母は、大きくため息をついた。
毎日毎日、見舞いが可能な時間を見計らって優雨の母は果物やお茶を携えて娘の部屋を訪れている。娘は目が見えない代わりに聴覚や味覚が大変優れているようで、好きな食べ物を見つけるのは母のひそかな楽しみになっていた。お茶もいろんな紅茶を飲んでみた結果、最近の優雨のお気に入りは「ウバ」。今日も自宅で丁寧にウバのティーを淹れてきた。
ドアをノックして優雨の部屋に入る。
「おはよう、優雨」
「おはよう、おかあさん」
顔をこちらに向け目を閉じた優雨が、何やら微笑みながら挨拶をしていたので、母は不思議に思った。いい夢でも見たのだろうか。
「今日はちょっとご機嫌かしら? 優雨」
小ぶりの室内には、一輪挿し——庭の紫陽花が一本飾られていた——それと、児童書が数冊重ねられて置かれたサイドテーブル、優雨が肌寒い時に羽織るパーカーが布団の上にあるのと、簡単な入院セットの入った濃紺の旅行カバン。
長いことずっとこの個室を使わせていただいている。ここが、もはや優雨の部屋だ。
母は優雨にウバ茶をマグカップに少量入れて手渡した。
「ありがとう。ふふふ、最近ね、うれしいことがあったの」
「そうなの」
「うん。……あ、あとね、おかあさんにお願いがあって」
(お願い……? 優雨が私に何かをお願いするなんて、珍しいわ)
微笑んだ優雨は、母を見ながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
昔ちょっと話した、願いごとを撤回してきてほしい、と。
「願いごと?」
優雨の母はキョトンとした。娘の願いごとは夢物語のようなもので、だけど一度きりしかそのようなことは言わない子だったのでよく覚えていた。
「あの、『空を飛んで雲の上でピクニックをしてみたい』っていうことかしら?」
「うん。そう」
「それを……? 撤回って、どうすればいいのかしら」
「おかあさんはその願いごと、神社とかでお参りしたの?」
神社。そう、確か、普段全然自分の気持ちを言わない優雨がお願いをしたのが嬉しくて——七夕の短冊の話の時だったかと思う——お父さんにも電話で伝えて、それから神社で母はお祈りしたのだった。
「おかあさん、そうしたらもう一度神社に行って、その願いはしなくていいですよって、言ってきてほしいの」
「えぇ⁉」
「……お願い。もう、だいじょうぶだから」
母は優雨をじっと見つめた。諦めるようなこと……そもそも空は飛べるものではないし、優雨も現実を知って恥ずかしくなったとか、そのようなことだろうか? 今日の優雨はずっと笑顔だった。悲観的な顔はしていない。
別にわざわざ「もう願いごとは叶えなくていいです」なんて言う必要があるのかと母は疑問に思ったけれど、優雨は何度も撤回しに神社へ行くよう、母に希望を言った。
今、一番注意しなくてはならない経過観察中の数値が下がっている。
母には、それが喉の奥にずっと引っかかっている魚の小骨のように感じていた。
——次の手術が成功するかも分からない。
——宣告された余命が確かなものかも分からない。
——優雨の父は今海外で、仕事の合間を縫って治療方法を探している。
——希望はあるのか、いよいよ覚悟しなければならないのか。
「優雨」
母は娘に小さな声で言った。手の震えは娘には見えないから悟られる心配はない。
「さっきの話だけど、お昼に一度帰る時、神社に寄って言うことにするわね。そしたら優雨も安心かしら?」
「ほんとう? ありがとう」
「えぇ。……それとね、いつも言っているかもしれないけれど、本当に、お散歩はほどほどにするのよ? 前は看護師さんに付き添って歩いていたみたいだけど、車椅子を使うようにしてちょうだいね?」
「……うん。最近は歩いてないよ。だいじょうぶ」
「お母さんもね、外に出ただけですぐにいろんな菌にやられちゃうとは思っていないけれど、優雨は体を本当に大事にしてほしい。お散歩は気晴らしになるかもしれないけれど、今の時期は急に寒くなったりするから。看護師さんや先生に言われたとおりに、してちょうだい」
数値はあくまで数値であって、あまり気にするなと言われても気になるではないか。
(愛する娘のことだもの……)
母は唇を噛み締めた。遊ぶことも、散歩程度のことですら、制限をかけなくてはならないことが辛かった。娘をそのような体に産んでしまった自分を責めたことも、一度や二度どころではない。
希望はもはや完治ではなく、延命だった。
優雨は、いつも通りの透明な声で、母に頷きながら答えた。
「分かったわ。看護師さんや先生の言われたとおりにする」
その言葉に、母の強張った顔がわずかに綻んだ。それから優雨は続けてこうも言った。
(優雨の、選びたいこと……?)
目の前の優雨はいつもより饒舌だった。頬が薄紅色に上気しているのは微熱のせいかもしれないとも母は思った。
それが、ほんの数日前の出来事だった。
今目の前の優雨は、ゆっくりと静かな呼吸を繰り返しながら眠りについていた。
目を凝らして見れば胸がわずかに上下しているので、命がそこに繋がっていることが母にも分かった。
(この子が何を選んだのか……)
母は集中治療室のガラスの窓越しに優雨を見た。娘の体から何本も管が見えていた。
作日、言われた時間に優雨のもとにやってきた看護師さんによると、娘は涙を流して微笑んで「ありがとう」「うれしい」「あたたかい」と繰り返し呟いていたと聞いていた。その後、高熱を出して意識を失い、それからずっとこの管に繋がれたままだった。
鬱々とした母の心境とは裏腹に、本日の外は雲一つ無い晴天。
優雨の父は急いでこちらに向かっているはずだ。
いよいよ覚悟を決めなくてはならない時か。そうでなくても優雨の顔を父にも見せたかった。もともと帰国予定ではいたので、それを少し早めただけだ。有り難いことに天候も安定しているおかげで予定通りに飛行機は飛んでいるようだった。
(優雨……。だれも悪くない、そう思うようにするわ。大事なあなたの願いだから……)
管だらけの優雨を見ながら母の両目から涙が溢れてきた。
(そう、大事なのはこの子の幸せ。いつも幸せと言っていた。この子は幸せを感じていたの……)
優雨の寝顔は穏やかだ。
着ているのはいつものパジャマ。虹や太陽、雲、傘などのポップな模様が散りばめられた……まるで彼女の夢をぎゅっと詰め込んだ、そういう柄の衣服だった——……。
(つづく)
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