【紫陽花と太陽・下】第六話 修学旅行8
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声が聞こえるか聞こえないかの距離を保ちながら、俺たちは結局二人を尾行していた。川沿いには土手があり、上の散歩道を二人は歩き、下のわずかな通路を俺たちが歩いていた。高低差があるので二人は全く気が付かないようだった。
小さく呟くような場面ではさすがに聞き取れなかったが、だいたいは聞けた。
聞いてしまってから俺は思った。
次元が違う、と。
五十嵐に聞いたところ、翠我くんは俺らと同じ十七歳だという。六月生まれだといっていたが何月でも同じことだ。同じ歳!
嘘だろと思った。クラスの奴らと話す内容がまるで違う。デートだと言って彼女と話す内容なのかは甚だ疑問だが、彼の生き様が普通と違いすぎて、価値観も違いすぎて、宇宙人かと思ったほどだ。
父親が死んでいて、母親もどうやらいないらしい。親しい男性の話と何を大事にするかという話。優先順位。
現国(現代国語)の先生の説明が下手くそでありえない思う、だとか、この前の模試の結果が目標点数まであと何点だった、だとかいう話ではない。うまく説明できないが、とにかく次元が違いすぎるのだ。
五十嵐が言っていた。
『たとえあずさに会えて、本人からサボることはできない、一緒に行けないと言われたとしたら、遼介は、会えて良かった、ありがとうって礼を言って、それで帰るよ。……そういう奴なんだよ』と。
彼ならそうすると思った。とりあえず、怒ることはしない人間だということは分かった。ありとあらゆるものを全部包み込むような、懐の深い人間だと分かった。
翠我くんの行動ひとつひとつが、例えば歩調を合わせていたり、カイロを手渡していたり、キスの時の触れ方だったりが、霞崎さんをものすごく大事にしていることが伝わってきた。
俺はあんなことしたことねぇ……。ずっとキスをし続けている二人から目をそらし、頭を抱えてうずくまっていると、五十嵐が俺に言った。
「だぁら、尾行はやめろって言ったんだよ。でもまぁ、少しは分かったか? 遼介の人となりがさ」
「……」
俺はかなり情けない顔をしていたように思う。鏡がないから知らないけど。
◇
昼食を、遼介くんも一緒に食べることになった。
スマホで連絡を取り合い、待ち合わせの店の前であずさと遼介くんを待っていると、スーッとタクシーがやって来て二人が降りてきた。
「タクシー使うなんて、社会人は金持ってるな」
「道に迷うわけにはいかないからね」
剛くんが入れたツッコミを、車から降りて来た遼介くんはにっこりと微笑んでかわしていた。続いてあずさがタクシーを降りようとすると、すぐに遼介くんが手を取って降りるのを手伝ってあげていた。
「遅くなってすまなかった」
あずさが私と日向に向き直った。頬を薔薇色に染めて、へにゃりと崩れた表情で笑っていた。すごい、こんな表情をするなんて、見たことがない。
昼食は蕎麦屋だった。趣ある木目が美しい板に『蕎麦』と書かれた看板を見て、あずさと遼介くんが目を合わせて「蕎麦」「蕎麦だ」と同時に言った。見ると二人ともすごく笑っていた。
「あずさ、蕎麦、好きだっけ?」
「……あぁ。まぁ、そうだな。好きだ」
くつくつと口に手を当ててあずさが笑っていた。ぞろぞろと連れ立って『ご予約』と書かれたプレートのある掘りごたつ部屋に通してもらった。
「すごい、個室なんだね」
「人数が多いからな」
「剛、予約取ってくれて、ありがとうね」
「……まぁな」
メニュー表を真ん中に置き、総勢六人で注文をどうするか悩んだ。
私も日向も普段蕎麦は食べないので、どれにしようかけっこう悩んでしまった。写真付きのメニューの方がおいしそうに思ってしまうけど、たぬき蕎麦も美味しそう……鴨南蛮蕎麦も絶対美味しいやつだ。
ふとあずさを見ると、両手を軽く握り腿のところで添えていた。
「あずさ、もう決まったの?」
尋ねると、大きく頷いた。
店員さんを呼び、それぞれの注文を言っていく。
最後にあずさと遼介くん、という番になって、二人とも同時に同じメニューを指さした。
「天ぷら蕎麦を、二つ、温かいのでお願いします!」
◇
夕方、私が修学旅行から帰宅すると、しぼったボリュウムでテレビが付いていた。椿ちゃんのお気に入りのアニメだ。ふわふわの服を着たかわいい女の子が登場する、それでいて勇ましい戦闘も繰り広げる物語だ。
「おかえりなさーい」
ソファに座った椿ちゃんがくるりと私を見て、またテレビに集中した。
旅行用の大きなカバンをリビングの入り口付近に置き、まずは手洗いを……と洗面所に向かう途中で、遼介と出くわした。
「あ、おかえり! あずささん」
トイレに行っていたようだ。ふわりと微笑んで、挨拶をくれた。
手を洗ってうがいをし、リビングに戻ると遼介がコップに水を入れて渡してくれた。喉が渇いていたのでありがたく一杯いただいた。
「さっきは、会えて嬉しかった」
午前中に修学旅行先で会い、長い話のデート(?)をし、あれだけキスまでしておきながら、目の前の遼介はのほほんとした顔で感想を言った。
ごはんか、お風呂か、少しゆっくりするか、いろいろ提案をしてくれている遼介に、私はひとつ質問を寄越した。
桐華さんだ。あまりに静かすぎる。和室の奥の部屋で寝ているのだろうか。
「桐華姉?」
遼介が、あずささんは気が早いねぇとにっこり笑いながら、
「実は、僕が京都から帰る頃に、無事出産したんだって。だから今は産婦人科にいるよ」
と言った。私は目をまんまるにした。確かに予定日は少し過ぎていて、いつでもいいとは言っていたけれど……。
「ひろまささんも、今、病院。落ち着いたら帰ってくるって連絡もらったよ」
「そうなのか……」
うちに、赤ちゃんがやってくる。
私は初めての気持ちを何度も反芻する。
桐華さんとひろまささんの、大切な新しい家族。
何もないところから縁があって、繋がって、そしてものすごい確率で産まれてくるのだ。
「あずささん……。大丈夫?」
急に押し黙ってしまった私を見て、遼介が心配そうな顔をした。
春に遭った被害のことを私が思い出してしまっているのではないか、とでも思っているのだろう。私は遼介の目をしっかりと見て言った。
「嬉しいと思っている。私の今までで、赤ちゃんという存在があまりに遠かったものだから、まるで分からないというのが正直なところだ。本は読んだが実物は見たことがない」
「実物って、動物園じゃあるまいし」
「人間はヒト科ヒト亜科ヒト族で動物だ」
「あずさペディアだ」
「とにかくだ。早く会ってみたい。嬉しい。遼介、教えてくれてありがとう」
あずさペディアについては黙殺した。ひろまささんは赤ちゃんの写真を撮ってくれただろうか?
遼介が、わずかに振動したスマホでメールをチェックした。どうやらひろまささんからだったらしい。
午前中に京都で見た時の彼はいつもとは少し違っていて、不思議な気持ちになったことを思い出した。まさかたった数時間のために会いに来るなんて……。学業を放棄しているという感覚はなかった。あの時の私に必要なのは、京都で、遼介が昔感じた『誰にも言えなかった気持ち』を『今』聴くことだと思った。
——……悲しかった。……悔しかった
シンプルな二つの感情を示す言葉が胸に突き刺さった。
たったそれだけの言葉すら、彼は今の今まで、誰にも言わないまま腹の中で抱え込んでいたのだと知った。私や椿ちゃんには、しょっちゅう自分の気持ちは遠慮しないで言っていいんだよ、などと言っているくせに。
(この先)
私は今思い浮かんだことをゆっくりと確かめる。
(これからも、私は遼介とずっと一緒にいたい……)
告白された日も一度そう望んだが、先は見えていなかった。
本当に、そんなことを、望んでいいのかも分からない……。
(でも、何か一つでも、彼の支えとなりたい……)
修学旅行のたった数日離れてみて実感した。
私は、彼が好きで、大切で。
この先も隣で彼の気持ちを受け取れる人で在りたい、と。
ずっと親に価値のない人間と言われ続けてきた者が望むには、あまりにも大きすぎる願いだと思った。
今のままでも十分すぎるくらいのものを受け取っているではないか。
だが、この現れた望みを再び秘し隠すことは、今の私にはあまりにも難しそうだった。
椿ちゃんの観ていたテレビ番組では、仲間が敵に捕らえられ、自身も満身創痍、絶体絶命のピンチという場面が映し出されていた。主人公の女の子が自分の気持ちを声の限りに叫ぶ。煌めく光と美しい音とともに、凛とした彼女は、一歩、足を前に踏み出した。
(修学旅行 終)(つづく)
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