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【紫陽花と太陽・下】エピローグ ピリオド

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 デパートの中にある高級感漂うカフェで私は珈琲を飲んでいた。シャンデリアが天井一面に瞬き、白壁で美しい店内には、年齢層の高めな女性たちがたくさん座っていた。静かな音楽が流れている。

「こちらを、全てお渡しいたします」

 目の前の——白く長い髪を後ろでゆるくまとめている年配の女性——百合ゆりさんが、私名義の通帳を三冊ほどテーブルにそっと置いた。印鑑も添えられていた。

「これは?」
「こちらは、銀行印といって通帳を手続きする際に使われる印鑑でございます。この先、引っ越しやご結婚などで住所氏名を変更する際に必要になるものでございます」
「……分かりました」

 通帳は三冊とも違う銀行のものだった。見慣れぬ印鑑を手にすると、どの通帳にも同じ印鑑を使っているので、と百合さんに言われた。私の、全財産。親からの遺産が入っているはずだ。

 私の書類やこういった諸々の手続きは、今まで全て百合さんが管理してくれていた。初めて見る通帳(遼介りょうすけの通帳は何度か一緒に見て勉強したりしたのだが)をぺらりとめくり、中を見た。入金があった後は何も印字されていなかった。

「これは……、この入金後は、何もしていない、ということですか?」
 私は不思議に思って百合さんに尋ねた。百合さんが大きく頷いた。
「はい。先ほど念のために最後に記帳して来ましたので、今お手元のものが最新です」
「はぁ……」

 遼介の家族と暮らし始めた時に、彼の父親と桐華とうかさんと百合さんとで一度話をした。生活費、学費、毎月の小遣いは私の資産から出す、と言っていたはずなのだが……。まさか口約束だけでずっと彼のご家族に多大な出費をさせてしまっていたのか……と驚愕していたところ、
「ご安心ください。学費等の費用はあちらのご家族は支払っておりませんので」
 と、百合さんが端的に説明してくれた。ホッと息を飲む。

 他の通帳も念のため見ると、資産がちっとも減っていなかった。私は百合さんを軽く睨んだ。百合さんは無表情のまま静かに言った。

鋭司えいじ様からのご要望で、あずさ様の資産からは出しておりません。費用は適正な場所から適正に支払っております。何も問題はございません」

 私の過去をめちゃくちゃにした男に借りなど作りたくはなかった。保護者面して金だけ出せば許すとでも思っているのか。でも今ここで百合さんにそれを言っても何も変わらない。ただ、百合さんを困らせてしまうだけだと分かっていた。

 それで私は素直に引き下がった。


 私は今日、百合さんとの関係に終止符を付けるために会っていた。
 百合さんは、私が幼い頃からずっと家にいた家政婦だった。父の秘書でもあり、父の死後は兄の秘書としても関係が続いていた。彼女が一体今何歳なのか、出身がどこなのか、なぜ霞崎家にいることになったのか、まるで知らない。昔は聞こうとも思わなかった。教えてくれることは全て覚えたが、聞かれないこと、話さないことについては特に何もしなかった。

 私は渡された通帳と印鑑を丁寧にかばんにしまった。
 一口、温かい珈琲を飲んだ。白磁の華奢な珈琲カップは口に触れるところが金色に縁取られており、揃いのソーサーも金縁で上質な非日常の品物だ。家で普段使うようなぽってりとしたマグカップとはまるで違う。

「この、デパートで百合さんと会うことも、最後になるかと思います」
「はい。あずさ様からご連絡を頂いた時に、覚悟をしてきたつもりです」

 こちらもお渡ししておきます、と言って、百合さんがなじみのロゴマークが書かれたショップカードを何枚か渡してきた。美容室、エステサロン、下着専門店、服屋、靴屋、文具屋、雑貨屋……どれも今まで私が百合さんと一緒に行ったことのあるお店だった。……というより、私はこのカードの店以外を知らない。遼介と暮らし始める前までは、食料品と日用品以外の買い物はすべて百合さんが同行していたからだ。

「もし、今後こちらのお店を利用したいと思った際、名前を知らないと困りますので」
 私は一ヶ月に一度、美容室とエステに通っていた。そういうものかと思っていたのだが、遼介はそんなに頻繁に髪の毛は切ってないかもなぁ、と言って驚いていた。さくらと日向に聞いても、そもそもエステなどは利用したことがないと言っていた。

 百合さんに理由を聞かなかった自分が不思議だった。それが当たり前だと思っていたのだ。利用頻度、施術内容、髪の長さの希望、値段、服飾品のデザインの選択、いろいろだ。言われてきたからそうしてきた。それが普通だと思っていた。
 先ほどの通帳を見る限り、それらに支払っていた形跡もなかった。一体誰がどこから費用を捻出していたというのだろうか。

 私は百合さんを眺めた。久しぶりに見ると、首や手のシワが一層深くなってきているように感じた。

「百合さんは……今も兄の元で働いているのでしょうか」
「はい。昔のように自宅にはあがりませんので、お打ち合わせ等は外で会って話しております」
「そうですか……」

 会話が続かない。なぜ彼女は恐ろしい兄の秘書をしているのだろうか。仕事内容はどのようなことなのか。疑問は尽きない。だが私は聞けなかった。聞いたところで何も変わらないのだ。

 遼介との数々の会話を反芻する。

『僕が今日来たのは、今しかないって、思ったからなんだよ』
『僕はできることなら後悔はしたくないんだ』
『言わなければ絶対伝わらないけれど、言えば桐華とうか姉が何を思っているのかを僕たちは知ることができる』

 私は百合さんと話をするために「今」ここに来た。
 終止符を打つために。
 疑問を解決したかったわけではない。言いたいことがあって直接会っているのだ。

「百合さん」
「はい」

 私は百合さんを正面からまっすぐ見た。姿勢を正す。両手をカップから離して腿の上で軽く組んだ。

「今まで、私の側にいてくださって、本当にありがとうございました」
 ゆっくりと頭を下げた。
 しばらく経って百合さんを見ると、悲しそうな顔で首を横に振った。
「見守れてはおりませんでした……」
 そう、呟いた。私が兄にされてきたことを知っているのだろうか。

「いいえ。百合さんは私にたくさんのことを教えてくださいました。それは紛れもない事実です」
「私は……色々なことをあずさ様にお伝えしてきたつもりでした。ですが感情というものだけは、どうしても教えることができませんでした……」
「……そうですか。そうですね、思い返してみたら確かに感情というものは知ることが難しいことでした」

 目の前の百合さんは憂いを帯びた瞳をしていた。背筋を伸ばした私とは対照的に、若干背を丸めて俯いていた。

「でも私は」

 伝わってほしいと気持ちを込めて、少し強めに言った。

「私は、喜怒哀楽……怒ることはまだ難しいですが、感情を知ることができました。
 今、私は、幸せです。百合さん、本当に、ありがとうございました」

 立ち上がり、もう一度深くお辞儀をした。
 百合さんも静かに立って、お辞儀をしてくれた。お互い見つめた。少しの間だったけれど、向かい合って見つめたことは初めてかもしれないと思った。

 百合さんはそのままお会計をしてゆっくりと退店していった。


 ◇

 最後の珈琲を飲み干し、カチャリと静かにカップをソーサーに置いた。白髪の女性がお店を出たのを確認してからゆっくりと立ち上がり、僕は会計をして店を出た。今年結婚指輪を買ったアクセサリーの店前で待ち合わせをしているので、僕は他人のふりをして女性を眺めた。

 白髪の女性は煌びやかな通路の端の方で——カフェから少し離れたところで——あずささんをそっと振り返って見ていた。カフェは店内と通路の間が大きな窓で仕切られているので、見ようと思えば外からも店内が見えるのだ。人と待ち合わせの時などには端の方の席に座れば分かりやすいかもしれない。

 僕は先ほどのあずささんと女性……百合さんとの会話を聞いていた。百合さんの後ろの席に座っていたのだ。実は僕は百合さんを知らない。あずささんとの会話の中で、昔からずっと彼女を支え続けてくれている存在だ、としか知らない。あずささんは僕の家を突き止められることを恐れて、百合さんとはいつもスーパーで待ち合わせをして外出していた。真面目なあずささんは待ち合わせ時間の十分前には到着できるよう行動していたので、僕がボディーガードとしてスーパーまであずささんを送っていく時も、百合さんと出会うことはなかった。

 ——百合さんと会うことを、終わりにしようと思う。

 そう、伝えられた。卒業式が終わって数日経ち、僕とあずささんが父と母の墓参りに行った時に。三月で寒かったので僕たちはコートを着ていた。それぞれ制服を中に着ていた。最後に制服に袖を通した日になった。

 お供えのお菓子と花を携えて、お仏壇がある自宅ではなく納骨されている墓地にあえて出かけた。

 卒業したよ、と父と母に伝えた。それからあずささんがレイプに遭ったときのことを教えてもらった。相手も。理由も。あずささんは泣かなかった。代わりに僕が泣いてしまった。いつも僕は泣いてしまう。一体あずささんの前で今までどれだけ涙を流してきたのだろうか。
 あずささんは悲しい顔をして謝った。何度も何度も謝るので、抱き寄せて何も言えないようにしてしまった。ずっと長いこと心の中にしまっていた彼女の気持ちを想像し、さらに涙があふれてきた。


 百合さんはさっき「見守れなかった」と言っていた。あずささんに物事を教える立場であって、監護者ではないはずだ。父親の、その後は義兄の、秘書という立場のはずだ。不思議な言い方をするなと思った。

 あずささんの身に起こったことを知っていたのではないかと思った。だいたい、戸籍を調べようと思えばたとえ結婚したとしても除籍履歴は残るのだ。あずささんの現在が分かってしまう書類がどれかは分からないけれど、誰かと結婚したことやその相手だって、何かしら知る方法はあると思う。縁を断ち切ることは難しい。

 今まで義兄に居場所を突き止められなかったのは、どうしてだろうか。

 百合さんが阻止してくれていたのだろうか。

 何のために。


 僕は百合さんをこっそりと眺めた。
 白くて長い髪を後ろでゆるくまとめている。少し背が丸まっている。灰色のシンプルな着物をきっちりと着た百合さんは、まるで目に焼き付けるようにあずささんを凝視していた。

 百合さんがふと微笑んだ。
 少しつり上がった目で口角をわずかに持ち上げて、まるで猫みたいだと思った。

 その笑い方は見たことがあった。というか、ずうっと僕の隣で笑っていた愛しい人と重なった。


 ——まさか、ね。


 僕は百合さんに背を向けて、アクセサリー屋さんに向かった。
 左手の薬指の指輪が、デパート内の眩しい明かりに反射して、キラリと光った。




(紫陽花と太陽 下巻)
(了)


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