【紫陽花と太陽・下】第八話 新人教育[3/3]
前のお話はこちら
まず、さっきの女性スタッフさんは『冴木さん』という名前らしい。夏頃……学校祭の頃に私たちがここに来た時も確か働いていた気がする。日向が、彼女の胸に初心者マークが付いている、と言ったスタッフのはずだ。
遼介くんは田中さんについて簡単に説明してくれた。
「あまり大きな声では言えないのですが。アルバイトのスタッフさんが、突然辞めてしまったんですよね」
「へぇー、いつ?」
「昨日の夜です」
「本当は今日も来る予定だったって感じ?」
「そうです」
「大変だ」
「困るじゃん。急に辞められたら」
「そうなんです」
私と日向と翔がいるテーブルにもう一つ椅子をくっつけて、遼介くんが座って話をした。何やら店長さんに『休憩行ってきな!』と言われたらしい。彼はサンドイッチを食べながら困った顔で続けた。
「僕には辞めた理由が分からなくて。でも冴木さんは分かっているようなんですよね」
私たちはそろってちらりと冴木さんを見た。
冴木さんはお客さんと話している時は優しい笑顔をしていたけど、黙々と作業している時や遼介くんの前では無表情になりがちだ。背が小さくてかわいいのに、無表情なのはもったいないと思った。
「冴木さん、降参です。理由、検討がついているのなら教えてください」
遼介くんが彼女に向かって言った。カウンターテーブルの近くでスプーンとかお皿を拭いていた冴木さんが、こちらを向いて小声で言った。
「なら、田中さんの前に辞めた人については、辞めた理由が分かりますか?」
「えっと……池田さんのことですよね。いや、さっぱり分からない……」
「本当に?」
「本当です」
冴木さんが遼介くんをじっと見つめた。やがてポツリと呟いた。
「何か、辞める前に言われてませんでした?」
「……‼︎」
遼介くんを見た。口をへの字にして、ものすごく困った顔をしていた。
「田中さんにも池田さんにも、同じことを言われませんでしたか? そして翠我さんは同じことを言ったのではないですか? 思い当たるのなら、それが原因だと思います」
「そ、そういわれても……」
「言いましょうか?」
「いや! いい。いいです……」
最後の方は消え入りそうな声だった。遼介くんがパクリとサンドイッチを食べた。
しばらく沈黙が続いた。
翔が言った。
「その、辞めた人って、高校生とか?」
「うん、そう。高校二年生と一年生」
「女子?」
「え? うん、そうだね……」
「俺、分かったかも」
何⁉︎ 翔が分かったって? 私は目を見開いて翔を見た。奴はニヤニヤしていた。
翔、ではなく、日向が言った。
「翠我くん、告白されたんじゃない?」
お、おぉ……。なるほど。
私は言われてみたら、なるほどそうかもな、と思ってしまった。
だからさっき冴木さんは『誰でも彼でも、そういうふうに笑いかけるから、誤解されるんじゃないですか?』と言ったのだ。
遼介くんは、優しい。怒らない。いつも微笑んでいる。お店で普段どういう感じで働いているのかは正確には分からないけれど、数回お店に来た感じでは、また来たいなぁと思わせる何かを持っている。
学校祭と修学旅行で遼介くんとあずさのやりとりを見ていた。あずさが彼を好きになるのはものすごく頷ける。諸手を挙げて『好きっすか! そりゃそうですね! 分かりますよぉー!』と言いたくなるくらいだ。
スタッフさんに対しても同じとまでは言わないが、優しく接していたら、そのうち好きになってしまうかもな、と思った。
「当たりじゃね?」
「……はぁ、そうです」
遼介くんがしょんぼりして呟いた。全然嬉しそうじゃない。そりゃそうか。
「いいなぁ、俺も告白されてみてぇなぁー」
翔が、頭の後ろで両手を組んで仰け反った。三白眼で遼介くんが睨む。
「ちっとも望んでないです。困っています」
私と日向が同時に吹き出した。
男二人がびっくりして私たちを見た。
「どうした急に?」
「どうしたの?」
私たちはくっくっくと笑いを堪えながら、返す。
「あはは、あずさもね、まったく同じこと、言ってたから……」
遼介くんが顔を赤くして黙ってしまった。
ヒィヒィと笑いがまだ終わらない。あずさも遼介くんも、まるで双子のようにそっくりなのだ。
「僕は一応肩書が主任なので、新しく入ったスタッフさんには仕事を教えるんですよ。その二人にも、時期は全く違いますが同じように教えていたんです。覚えてもらいたいことは一緒なので」
「そうだろうねぇ。主任って、すごいな。なんかかっこいいね」
「どうなんでしょうか。いっそのこと僕じゃなくて、冴木さんが教えたほうが良いような気がしてきました……」
遼介くんが冴木さんの方を向いた。冴木さんはあらかた拭きものを終えたのか、布巾をハンガーに吊り下げてから、こちらに向かって小声で言った。
「翠我さんが、これからも同じように新人さんに教えていたら、また同じようになる気がします」
「教え方がまずいってことでしょうか?」
「教え方はすごく丁寧です。私も同じように教えてもらったので」
「じゃあ、何がダメなんだろう。僕が年上か同い年なのがまずいんでしょうか」
「暗に私が年上であるということを暴露しないでください。失礼です」
「わーっ、申し訳ありません!」
「……別にいいです。本当のことですから。そうですね、対策として、主任には恋人がいるって宣言してから雇ったらどうですか?」
「そんな店がありますか」
「それか、男性しか雇わないとか」
「そこまでしますか?」
すごい、どんどん話が進んでいく。この冴木さんって人、淡々と話しててかっこいい。
すると奥のキッチンからめちゃくちゃでかい声が響いてきた。
「男を雇ってもよぅ、男好きだったらオシマイだよな! ガハハハ!」
全員その場に凍りついた。一体いつから話を聞かれていたんだろう……。
遼介くんが添えられたミニトマトを食べようとして、手からトマトが吹っ飛んだ。
「遼くんは、優しすぎるんだと思うんだよなぁ」
少し声量を落としてくれた店長さんが、しみじみと言った。
「はぁ。そうでしょうか」
ぼんやりと答える遼介くんに冴木さんがピシリと物申す。
「自覚がないところが問題だと思います。高校一年だか二年だかの若い女の子に」
「自分から高校生が若いって言った」
「……女の子に、褒めて褒めちぎって優しく寄り添って教えたら、誰もがそうなりますよ」
「デコピン痛い‼︎ ……はぁ、そうですか。そんな褒めてましたか?」
「やってみせて、やらせてみて、それでまず褒める。そして直してほしいところやもっと細かい希望を言って、またやらせてみて……の繰り返しじゃないですか」
「育児と同じかと思って」
「スタッフは子供じゃないです。赤の他人です」
遼介くんと冴木さんの会話が面白い。人に教えるのって、難しいんだなぁって思った。
遼介くんがちょっと真面目な顔になって言った。
「冴木さんの言うことももっともだと思いますよ。仕事は育児ではないからそこまで親身になる必要はないのかもしれない。でも、いずれ戦力になってほしいと思って、仕事も楽しんで続けていってほしいと思って、教えてきたつもりでした。それが、僕とスタッフの間でもし食い違ってしまったのなら、それに気が付かなかった僕のミスです。仕事ぶりの評価と同じように、自分をどう見ているのかももう少し気にしないといけないと思いました」
最後のサンドイッチを食べている遼介くんに、冴木さんが話した。
「翠我さんみたく、褒められ慣れていたら大丈夫かと思いますが、世の中褒められてばかりで生きてきた人は少ないと思います。だから、少し優しくされただけで、誤解してしまうんじゃないでしょうか」
「冴木さん、僕は褒められてはきてないよ」
「え?」
「僕の姉は、僕にけっこう強く当たる人でね。そりゃあいろいろ叱られた。もっとちゃんとしろとか、こんなんじゃダメでしょ、みたいにね。むしろ褒められたことはなかったかもしれない。やって当たり前、みたいに思われていた気がする。
だから、僕は自分がされて嬉しいと思うことを人にしてみようと思ったんだ。僕が褒められなくて、認めてもらえなくて辛かったから、僕が出会う人にはめいっぱい褒めてあげようって。あまり『褒める』っていう言葉も好きじゃないんだけど。上から目線のように感じるから」
遼介くんが人に優しくするのは、自分が優しくされてこなかったから、だと彼は語った。そういう風に考えることが、私にはできるだろうか……。嫌なことをされたら嬉しいことを人にするってことだよね? それってなかなかできることじゃないと思う。
翔が遼介くんに言った。
「じゃあ、たくさんたくさん褒められたら遼介くんはどうするの?」
「そうだね、嬉しいと思うから、よけいにもっと嬉しいことをしてあげたくなるね」
「褒めてくれた人に?」
「褒めてくれた人にも、いろんな人にも」
日向が目を瞠って言った。
「いろんな人も褒められて嬉しくなれば、また別の人に嬉しいことをするかもしれない。……それって、何だか……」
何だか、理想ではあるが、そんなことが可能なのか。
皆が褒めあい喜び合う、そんな素敵ワールドを頭の中で思い浮かべた。
遼介くんがふっとため息をこぼし、続けた。
「ま、どうなるのかなんて分からない。僕の原点が人に嫌なことをしたくないっていうだけだから。臆病だし。ケンカ苦手だし。
ただ、冴木さんには感謝しています。きちんと僕のダメなところを言ってくれる。こうしたらどうですか、と提案してくれる。僕をきちんと見ていてくれているから、それがすごく心強いです」
遼介くんがそう言って、冴木さんににっこり微笑んだ。
冴木さんが目を細めて遼介くんを一瞥し、それから、ふいと別の方向を向いた。
「だから、そういうところが問題なんですよね……」
小声だったので、遼介くんが聞き直した。
「なんて言いましたか?」
冴木さんが彼を睨んだ。
「……結局、何も変わらなさそうですね、と思っただけです」
私は見てしまった。遼介くんが心強いと言った時に、冴木さんの耳が真っ赤になっていたのを。あくまで声色も表情も一ミリも変えなかったので、遼介くんは気が付いていないようだった。
遼介くんは、人たらしだ。
私はそう思って、残っていた甘ったるいミルクセーキをずずずっと飲み干した。
(つづく)
前の話へ / 次の話へ
「紫陽花と太陽 下巻」マガジンはこちら↓
紙媒体で作成した小説を区切りながら公開しております。
お気軽にお付き合いくださいませ。