たまらない文章
グッとくる表現、というのがある。
ストーリー性とか、起承転結とか、そういうことではなくて
たった一節、ひとつの単語に、思わずうなるような。
昨日読んだ小説に、そんな一節があった。
主人公の女性が、何年も前に酔っ払って書いたノート(わたしは本当に子どもを生まなくていいのか、後悔しないのか、と自分に問うた殴り書き)を、引出しから取り出すシーンだ。
「それからページを破って切り離すと、それをふたつに折った。それから四つに折り、八つに折り、もうこれ以上はたためなくなるまで小さくしてから、ゴミ箱の底に置いた。」
(ここで章がかわる)
すごい。
思わずため息が出た。
この女性の感情など、文中には何ひとつ書かれていないにもかかわらず、ものすごくハッキリとわかるではないか。
子どもを生む、という選択肢を、消そうとしていること。
だけど、本当の本当は、その思いを捨てたくないこと。
気持ちを書き殴っただけの紙でさえ、丸めてポイッと捨てることはできず、丁寧に折りたたんで、ゴミ箱にそっと「置く」。
そんな、言葉にならない深い思い。
(ちなみに、私は子どもを生みたいと思ったことがほぼないので、共感は限りなくゼロである。ただひたすら、表現方法に対する感動でしかない。)
不思議なことに、ストーリーは全然覚えていないのに、ある一文だけ、ある表現だけを覚えている小説もある。
例えば、村上春樹の『海辺のカフカ』は、そんな本だ。
どこのどんな話だったか、どんな主人公だったか、まったく覚えていない。途中で美術館が出てきたような気がするな、という程度。(それと、村上春樹だから、たぶん主人公は「僕」)
だけど、なぜか「ナカタさん」という奇妙な登場人物が、脱いだ服を畳むシーンだけを鮮明に覚えている。
ナカタさんは、シャツやズボンを丁寧に畳み、重ねてゆく。
そして、私の記憶が確かなら、最後に「いくつかの概念に、ひとつのタイトルをつけるように」一番上に帽子を置くのだ。
なんてすっきりと整頓された表現なのだろう。
と、感動したのは確かだけれど、まさか10年以上たって物語の全てを忘れ去っても、この表現だけ覚えていようとは思わなかった。
でも、こういうことは時々起きる。
数年前、ビジネス書とか自己啓発本をよく読んでいた時期があった。
そのころの私は、自分には色々なものが足りていないという焦燥感に追われていたので、実用的な本から他人の経験値を借りることで、一足飛びにそれを埋めようとしていたのだ。
もっと有効に時間を使うにはどうすればいいか。もっと仕事の質を上げるためには。もっと自分の価値を高めるためには。・・・
How to、How to、How to。
そういう本には確かに役に立ちそうなことが書かれていて、影響を受けやすい私は片っ端から試してみたりした。(今も残っている習慣もあるから、実際に役に立ったのだ)
だけど、あれは私にとって、読書ではなかった。
本の形をしているけれど、本ではない。
文字化された情報であり、人生の合理化マニュアルだった。
だから私は一度も感動しなかったし、美しい一文にため息をつくことも、気に入った表現を繰り返し読むこともなかった。
(もっとも、そんなことは時間の無駄だと思う人もいるかもしれないし、捉え方によってはそれも事実なのだろう)
そんな経験があるからなのかどうなのか、
グッとくる表現に出会うと、私はたまらなく幸せな気持ちになる。
・・・という話をしても、あまり誰からも共感を得られないのだけれど、それでもいい。
ただ私は、こういう出合いが、きっと人生に何かいい影響を及ぼしているのではないかと思うし、もし何ら影響を与えていないとしても、活字という味気ないものがこんな風に幸せをもたらすことは、感動に値する事実ではないかと思う。
すてきな表現に出合えてよかった。幸せ。
また明日も、そのあとも、グッとくる文章に出合えますように。