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「ぼく、うんこになる!」 PeeeACEノベル


〜祖父の死〜


一週間前、
おじいちゃんが死んじゃった・・・


おじいちゃんとおばあちゃんの家は、
電車から見える家並みがなくなって、
あたり一面緑色の景色に変わるところにある。


おじいちゃんからは、森では木登り、
虫取り、そして川では魚釣りや水切り・・・、
たくさんのことを教えてもらった。

もっともっと一緒にあそびたかったのに・・・



ここは、
おじいちゃんと最後に過ごした場所。
そのときのおじいちゃんの言葉、
みんな覚えている。

難しい話だったけど、
大切なことだっていうことだけは
なんとなくわかった。

今まで見たことのない
おじいちゃんの表情だったから・・・。



「ここは、森や川から
たくさんのことを教わることができる
いいあそび場だよ

子どもの頃のじいちゃんにも
大切なあそび場があった
でも、たった一回のまぶしい光で
あたり一面焼け野原になってしまった

その大切なあそび場でたくさんの人が
苦しみながら死んでいった・・・

友達もだ


みんなみんな、今日だって明日だって、
大人になってからだってやりたいことが
たくさんあったのに死んでしまった・・・

いや 死んだというより、
突然命を奪われてしまったんだよ

あの戦争だって、人間が昔から
何度も何度も
何度も何度も
繰り返してきた戦争のうちのたった一つ

人間は、そもそも
争う生き物なのかもしれない・・・

そうだとしたら、だからこそ、
戦争をしない(あらそわない)
世に中にしていかなければならないんだよ」



「ん~なんだか難しいよ
ぼくが大きくなってから教えてちょうだい」


「あっ、そうだったな ごめんごめん
この話はもう少し大きくなってからだな」



ついこの間、
ぼくに弟が産まれたことを
喜んでくれていたのに・・・。

それにぼくが
大きくなってからの話しの
続きがあったのに・・・





〜人の命とは、生き物の命とは〜


おじいちゃんとのお別れの式の日、
パパとママは、
「おじいちゃんは骨になったけど
みんなを見守るところに行ったんだよ」
と話してくれた。


みんなと別れて別のところに行く?

でも、みんなのことを見守ってくれる?

人が死ぬってどういうことなのだろう・・・

どうせ見守ってくれるなら、
死なないで生きていてくれたらいいのに・・・

なんだかわからなくなってきちゃった

弟は生まれ、おじいちゃんは死んじゃった

なぜ人は生まれ、そして死んでいくのだろうか?





夕方になって隣の家のしんちゃんがやってきた。


「今朝早くお父さんと出かけて
釣ってきたんだ!
いっぱい釣れたからおすそわけにきたよ」


しんちゃん父子は釣りが趣味で、
いつもおすそわけだからって月に1回くらいは
釣った魚を持って来てくれている。


「わあ 立派なマダイじゃなーい!
新鮮でおいしそうねー!」 


ちょうど晩ごはんのメニューを
考えていたママにはグッドタイミングだった。


「さあ 今日は
とびっきっきりおいしい魚のおかずで
晩ごはんを作るわよ!
さあ まな板を出して手伝ってちょうだい」



「トントントン 
 トントントン 
 トントントン・・・」



ママが包丁とまな板で奏でるリズムが、
心なしかいつもより弾んている。

ママは料理が得意で、
いつも魔法のような包丁さばきで
おいしいごはんを作ってくれる。


「さあ おいしいごはんができたわよー」
「新鮮な魚ってやっぱりおいしいわねー」
「おいしいものを食べるのって、
ほんとしあわせよねー」
「お隣さんに感謝だわよねー!」

ママの口は、喋るのと食べるのとで忙しい。



パクパクパクパク・・・・



ママの口の中にお刺身は
入ってはなくなり
入ってはなくなって
次々と消えていった。

そんな様子を見ているうちに
ママの口とエレベーターの扉が
重なって見えてきた・・・

そのエレベーターは、
いつも家族で買い物に行く
ショッピングセンターの待ち合わせ場所の
前にあるエレベーターだった。


大きな扉(口)が開き、人が乗り込む。
次に大きな扉(口)が開くと
人はだれもいなくなっていた。

次々に人がエレベーターに乗り、
乗った人たちは次々にいなくなっていく。

みんなどこに消えていくんだろう。

まるで大きな口の生き物に
人が食べられているみたい。



生き物に食べられている・・・



そう
ママの口の中に入ったお刺身は、
ママの体の中で栄養になっていく

ママだけじゃない
人間の口に入った食べ物はみんなそうだ

人間の体の中で消化されて栄養になる

そして残りは明日朝トイレに流されるだろう


でも、刺身になった体の持ち主は・・・


キッチンの三角コーナーに頭が転がっている
明日出す生ごみだ


命っていったいなんなのだろう


命あるもの殺し
その栄養をもらって
別の命が生きている



ママの言葉を思い出す。

「おじいちゃんは死んで骨になったけど
遠くでみんなを守ってくれるところに
行ったんだよ」

人間は死んでも
別のところで生きてるって?


でも魚は
体は人間に食べられて
人間の栄養になる

人間は死んだらお墓がある

人に育ててもらったペットも
お墓があったりする

人間が生きるために
食べられる生き物は
お墓なんてない

でも今日刺身になった魚も
遠いところに行くの?

魚だけじゃない

人間が食べている動物たち、
うしさん、ぶたさん、とりさん・・・

みんな死んだら
ほんとに遠くの世界に
行くというの?

人間が食べた動物だけでなく
動物そのものも死んだら
遠くのところに行くの?

それとも人間だけが
遠くの世界に行けるっていうの?

人間だけが・・・



人間は他の生き物とどう違うんだろう



道具を使うのは?
道具を使うおさるさんって
聞いたことがあるなぁ

言葉でのコミュニケーションは?
鳴き声だって言葉になるかなぁ

服を着るのは?
メスにモテるためなのか
鮮やかな羽の鳥も服の一種かなぁ

ん~、なんだかわからなくなってきちゃった。


だったら反対に
人間と他の動物は
どこが同じなのだろう?

目があること?
いやいや
ない動物もいるぞ

手足があること?
いやいや
ない動物もいるぞ

心臓があること?
いやいや
ない生き物がいるぞ

ん~ どこが共通なのだろうか?
脳・・・目・・・鼻・・・歯・・・
口・・・口?



そうか、口と肛門?



共通しているところは、
口と肛門なんじゃないか

口と肛門が
生き物の原点なのかな?

生きるために
外から栄養をとって
消化し排泄する

それって・・・



そうか、消化器か!



人間だけが死んでも
別の世界で生きるって?

同じ消化器の生き物なのに
なんで人間だけが?

人間が
食物連鎖の頂点に立っている
絵を見たことがあるけど 一方通行・・・

そう 人間は
他の生き物の食べ物に
なっていない

だからといって
動物に食べられて
排泄物になるのはいやだな

それなら 人間は
どうしたらいいんだろうか?

人間が食物連鎖の
頂点にいるならば、
人間同士も含めて生き物として
互いを大切にして
命をつないでいくことはできないのかな?

互いを慮って一人一人が
自分の人生を精一杯生きることは
できないのかな?

この世界のそれぞれの
生き物の命のリレーがスムーズに
できるようにすることはできないのかな?

じゃあ自分ができることはなんだろう?

他の動物に食べられたくないから
そもそも動物の栄養になれないしなぁ



動物の栄養・・・



栄養・・・栄養・・・栄養・・・



そうか!自分ができる
地球の栄養に
なれればいいんだ





〜最期の日、そしてバトンの受け渡し〜


ずいぶんと年月がたち、
老いた私は
病院のベッドで
みんなに囲まれて
見守られている。

声を出すこともできなくなった私は、
心の中で語りかけた。



みんな集まってくれたね
さぁて、もうそろそ
私の役目は終わりのようだ

いよいよ次の人たちへの
バトンパスだ

祖父の友をはじめ
多くの人々の命を奪った
あの戦争が終わり

平和の大切さが謳われて久しい

しかし
その平和なるものは
危ういものだとわかった

平和なるものの陰で
争いの準備が行われている

世界で唯一の被爆国であっても
近隣諸国はどれくらい
平和というものを意識しているのか

ましてや被爆国そのものとしての
意識すらどうなのか

ただ、これだけは言える

この世界に生を受けて
自分らしく生きる

そんなあたりまえなことが
人間としての生き方だとしたら

争い(紛争・戦争)がない世界
ではなく

争い(紛争・戦争)をしない世界
していくことなのだろう

みんなに語ってきたことだった



この地球のために何ができたか・・・

それはわからないが

次の世代に平和への想いを込めた
バトンを渡せそうだ

その意味では ちょっとは
地球の栄養になれたかな



争いをしない世界で
一人一人が自分の人生を
自分らしく生きていけることを
ねがってるよ・・・



まぶたがゆっくりと
閉じていく・・・



そして、かすかな意識の中で、
なつかしい子ども時代の
記憶がよみがえってくる。



「トントントン
トントントン
トントントン・・・」


キッチンから包丁とまな板の
心地よい音と一緒に
ママの声が
ぼくの部屋まで聞こえた。



「ねえ 駅に行って来れたー?」


「うん ちゃんと買えたー」 


しんちゃんと
あそぶ約束をしていたぼくは、
机の上に2枚の紙をそろえ、
大急ぎで着替えを済ませて
階段を駆け降りた。


ぼくは
玄関の上がり台に腰をかけ、
ズックの紐をギュッと結んだ。



「ママ ぼくね」

「うんこになる!」



「えー?なんて言ったの?」


キッチンにいるママには
聞こえなかったようだがそれでもぼくは、
眩しい光が差し込んでくる
玄関のドアを開け、
飛び出しながらこう答えたんだ。



「そう、地球のう・ん・こ!



部屋の机の上には、
広島行きの切符と
1枚のリーフレット。


そのリーフレットには、
「戦争の語り部」の文字が
記されていた。






【あとがき】

何十台もの破壊された戦車、何百発ものミサイルが打ち込まれた街、そして、たくさんの子どもたちが犠牲になっている様子・・・。

毎日飛び込んでくる紛争・戦争(以下争い)のニュースです。

まるで、よく作られた映画でも見ているかのような現実を、世界の多くの人々が、家族で食卓を囲みながら、また友人とお茶を飲みながら、平穏な生活の中でテレビを通して見ていることでしょう。

もし「あの映像の中の街に自分の人生があったとしたら」と考えると、正直恐ろしく、争いのない地域で生活ができていることに安堵します。

しかし、今生活している地域は、歴史を遡れば同じような争いの上にあり、一見平和な時間の上に新たな争いが歴史として刻まれてしまう危うさもあります。


学校で世界史を学びました。

正確には、世界史の教科書で知りました。
人類の歴史は、対立、分断、支配、侵略、統一、紛争、戦争という文字がいかに多いかということを。

そもそも争いがないときなど、人類がこの世に誕生してからあったのだろうかと思ってしまいます。

太古から、とは言っても何十億年もの地球の歴史からすれば人類が誕生したのはたかだか数百万年前からだそうですが、これまでどんなことで争いをしてきたのでしょう。

そして、今もってどんなことで争っているのでしょう。

領土、民族、宗教、資源・・・。
争う道具が変わっただけで、おそらく昔から、争いの火種は変わってはいないのではないかと思います。

争いが一応終わったかのような状態になると、一転して平和の大切さが謳われます。

しかし、その陰では、密かに争いの準備が行われ、いつしかまた争いへとつながっていくようにも感じます。


果たして人類は、「平和」というものを本当に実現できる生き物なのでしょうか。人類は、そもそも争う性質を持っている生き物であり、また、それを露骨に表す生き物と考えた方がいいのでしょうか。

そうであれば、平和を願うことなど到底無意味なことですし、「平和のために」などという無駄な努力をせずに済みます。そうであれば、いっその事、諦めがつくというものです。


随分と投げやりな言い方になってしまいました。


人類は、

場所にこだわる性質があること、
異質なことを排除したがる性質があること
相手の物を欲しがる性質があること

そして、
争いをしてしまう性質がある生き物であるという認識の上に立ち
だからこそ争うことをしない」という人類共通の生き方はできないものかと思います。


世界史に争いの歴史を刻むことがないよう、
人類だけが持つ、理性と知性で抑制を図り、
先に生きる人類として、後世に生きる人類によりよい状況でバトンを渡すために、

もういい加減、
争いをやめることができないのか

と思います。


「平和な世界」という表現は、
ややもすると、「争いのある世界」の裏返しでもあります。


「平和な世界」ではなく、
「争いがない世界」でもなく、

明確な意思がある「争わない世界」にすることなのだと思います。


例えるなら、
人類は、その性質上、相手を傷つけてしまうようなナイフをどこかに持っている。だからこそ、理性と知性でそれを使わない生き方をする。
ということになるでしょうか。


人類一人一人がその価値観を持つことができれば、世界の国々のリーダーはその価値観に向かってはくれないでしょうか。
世界の国々のリーダーがその価値観を持って実践すれば、世界は変わっていかないものでしょうか。


国々が争うのではなく、人間としてもっている理性と知性で解決や協力をしていくことはできないものでしょうか。


平和な暮らしの中に、人類一人一人が与えられた自分の命を謳歌できるあたりまえの人生があるはずです。

脈々と続く地球上の生き物の一つの種である人類として、生き方も含めて命をつないでいけたらと思うのです。


主人公は、
祖父の死を通して命というものを考えます。

また、食を通しても人間と生き物の命を考えることになります。

人間と他の生き物の命のつながりを食物連鎖で考えたとき、人間が実際には頂点に立っていても連鎖の中に入っていないことに気づきます。

そして、この地球という環境で脈々と命が継がれている生き物の一つとして人間をとらえたとき、次の人類へバトンを渡す一人の人間としてできることを考えていくことになります。(タイトルの挿絵は、見えないバトンを渡す、そんなイメージを表現をしています。)

同じ地球の生き物として命の連鎖に入っていない人間としてできることは何か。

主人公は、幼いときに戦争を経験している祖父と一緒に過ごした日々から、自分ができることを探してしていきます。

生き物が命をつないでいくために自分ができることな何か。
人として命を謳歌するために自分ができることは何か。

地球に生きる一つの命として、また次の人類へ命のバトンを渡す一人の人間として、平和な世界で生きることの大切さに気づいていきます。

それは、平和な世界、つまり争わない世界であることへ向かう生き方が地球の栄養という考えにつながっていきます。

そうした自分ごととして考えた主人公の言葉が「地球のうんこになる」です。


本文は、過去や現在、そして未来に時間軸が展開しています。

お気づきの方もおられるかと思いますが、最後を迎える主人公の年齢は80歳程度をイメージできることから、「被爆地広島」を想定されてお読みになられた方々にとっては現在の時間から40年ほど先の時間になろうかと思います。

今からの40年間、いったいどんな世界になっていくのか?
いいえ、「子どもたちのためにどんな世界にしていくのか」ということでは、
主人公は私たち一人一人でもあるのです。


今、争いをしている地域や国の指導者と国民の方々、また、そこに関係している方々、そして争いの準備をしている国々の方々に言葉にしてほしいのです。

地球のうんこになるため、争うことやめた」と。





PeeeACEとして


子どもたちは、未来の人類を担う世代です。


命が継がれていく生き物の一つの種である人類として、次の世代によりよい状況でバトンを渡すため、今、世代を任されている私たち大人ができることはなんだろうかと考えます。

また、それと同時に、未来の子どもたちが生きる環境がどうあるべきか、ということも考えます。

人生を謳歌できる環境、それは争いをしない世界だからこそできること。

そう考えると、世界の現状は、子どもたちにバトンを渡せる環境なのだろうかと疑問に思います。


一人一人が人生を謳歌できる人類の生き方を考えたとき、残念ながら未だもってその環境にはないように思います。

継がれていく命の中で、人類の未来を担う子どもたちの成長、そして、一人一人が自分らしく人生を謳歌できる環境が両輪としてそろわなければならないと考えます。


PeeeACEは、
これからも子どもたちの成長や発達にかかわる情報を発信し、
次の世代へのよりよいバトンパスにつながる活動をしていきます。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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おとなパフォーマー【PeeeACE】
サポート大変ありがとうございます!これからも子どもの育てについて、家庭内はもちろんですが、子どもの育てを頑張ってらっしゃる方々に少しでもお役に立てる情報をどんどん配信したいと思います😊その為の活動費として有益に使わせていただきます。