『アーモンド』
先日、初めて韓国文学に触れた。
2020年本屋大賞翻訳部門で1位を受賞した、ソン・ウォンピョン作の『アーモンド』、書店で何度か目にした方も多いんじゃないかなあ。
生まれつき感情を理解できない少年ユンジュが、一人の”怪物”との出会いを通し、人生を変えていくお話。
ユンジュが持っていなかった、「共感」性。
なんで人に共感できるのか分析してみると、自分の経験と相手の経験を結びつける想像力がある。ユンジュは自分の経験自体に感情が伴っていないから想像が出来ないし、もちろん共感も出来なかった。
けど、だからこそ、分からないからこそ、ユンジュが相手に問うその質問は、共感できていると思い込んでいるわたしたちをハッとさせると思う。
「なんで〇〇なの」って言葉は普通、否定的に捉えられる。
例えば、「校則を守れ」って言っている先生に対して「なんで校則って守らなきゃいけないんですか」こう聞いたら先生は怒ると思う。
けど純粋にその理由を知りたい人が悪意の(もしかすれば善意も)ない眼差しでその質問をしてきたら、わたしたちはその問いに真正面から向き合うようになる。そして物事の根っこを探るようになる。
この本のあらすじだけ見ると、人との出会いでユンジュが変わっていくって書いているから、まるで周囲がユンジュを変えたように感じてしまう。
本当は、ユンジュとの出会いで相手が変わって、変化したその相手がユンジュにも影響を与える、っていう構造なんじゃないかな。ユンジュの純粋な疑問一つ一つが相手に本当の理解を意図せず促している。
そんなユンジュの疑問の中で、わたしが本当の理解を迫られたものが『共感』だった。
わたしたちは日々、共感することが出来ていると思い込んでいる。実際出来ているとは思うけど、そんなの三歩歩けば忘れてしまうようなものだと思う。
わたしが思ったのは、共感なんて意味がないっていうことじゃなくて、いかに共感というものが脆いか理解すること、相手を完全に理解していると思い込まないこと、勝手に決めつけて途中で想像することをやめないこと、これらが大事なんだということ。
って言ってもある程度感情の経験値があるわたしたちにはそれが難しい。自分に置き換えて勝手に想像しちゃうから。だから偏見とかが生まれちゃう。けどそういう自分がいるんだと理解しているかしていないかで全然変わってくると思う。
筆者が一番に伝えたかった部分はここじゃない。あとがきにて何を書きたかったか記してある。けど、わたしは筆者の一番伝えたかった部分も感じつつ、自分が一番に感じたことをこうして表した。
本を読むってたくさんの感情を知ることのできる一つのツールだよね、そこでたくさんの感情を知るからこそ、理解した気にならずに常に頭をフル稼働させなきゃいけない。止まったら終わり。疲れるから止まりたくなる、この答えで満足したくなる。けどそれが誤解や偏見を生んでしまう。
わたしたちはアーモンドがあるからこそ、他者を理解できるし、誤解することもできる。それを上手に使えるようにたくさん練習しなくちゃいけない。
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