身体を使い切る。やがてそれは天に昇る道管となる。
『名付けようのない踊り』という映画を観た。
ダンサー、田中泯さんが72歳から74歳に
国内、そして世界各地で踊った
『場踊り』の記録が彼のここまでの道に
ランダムに交じり合いながら綴られる。
『場踊り』その名の通り、
その場のあらゆるものと一体になり、
そのエネルギーそのものを踊ること、
とわたしは理解した。
田中泯さんを近く感じたのは、
私のフラメンコの師匠、
松丸百合さんを通じて。
彼女はフラメンコの向こう側を
いつも見つめていて、
そこにこの田中泯さんの存在も
あったと思う。
以前、松丸さんのご縁で
とある山の中の集まりで、
彼が森の中で舞うのを見たことがある。
山の道の真ん中に
ただ座っているだけなのに、
岩のように存在感があって、
あたりの見えない存在たちが
吸い寄せられるように
集まってくるようだった。
森の中を駆け巡り、
崖に体当たりをしていく。
土に転げ回り、這い回る。
その後、
雷鳴がきて大嵐となり
土砂降りの中を
黙々と帰った。
たった一人の人の
ダンスの影響力に圧倒された。
わけのわからない世界観だけど
掴まれた。
あのわけのわからない世界観を
また観たくなった。
映画で観る田中泯さんの踊りは
とても微細だった。
スクリーンいっぱいに映し出される
その肉体の美しさ、暖かさ、そして
満ち満ちたエネルギー。
彼は、ダンスのための体作りはせず、
野良仕事で鍛えると。
研ぎ澄まされた感性と
いのちを育てている身体の
たくましさと
優しさ。
土と、その中で蠢く
いのちそのものと
繋がる自信と野生。
やっていることはシンプルで
ただただ、その場のいのちを感じ
道管となる。
やがて、それは軽くなり
水蒸気が立ち上るかのように
彼の身体から抜けて昇華する。
第二次世界大戦の只中
東京大空襲の日にこの世に誕生した
その出生の偶然を必然と
思わせるかのように。
踊りは言葉以前にあった、という。
人はこうしていにしえから
いのちの通り道だったのかもしれない。
観る人の中もまたあらゆるいのちの
昇華が起こるようだ。
映画の中で、観ている人たちが
だんだんと変容していくのが面白かった。
そして、それは私にも起きた。
身体の中の奥深くに振動が起きて
涙となって流れていく。
いつものあれ。
一切の嘘がないバイブレーションに
触れた時、いつも
言いようのない震えが内側に起き
私の中の何かが解放されている。
ゴボゴボと涙があふれていく。
踊ることは言葉以前にあった。
それはこの震えが始まりかもしれない。
@渋谷Bunkamura
ル・シネマにて