見出し画像

夢見る猫は、しっぽで笑う。(結・後篇)


この作品は、
絵 イシノアサミ
文 闇夜のカラス
文 あんこぼーろ
3人で作る作品の、完結篇です。

前のお話はこちらから。











「そんなことよりさぁ、菜花との同期率かなり下がってるみたいだけど大丈夫?ドリちゃん。」




私も、ドリちゃんも息をのんだ。
黒髪のその女の子は、私の顔で、私の声だったから。


「え…あの子って…私??」
私がドリちゃんに訊くと、ドリちゃんは頷いて話しだした。
「なるほど。さっきの魔王、変な構造展開させたから変だな、とは思ってたけど。」

「どゆこと?!」

「この世界で言葉を扱えるのは、菜花と私だけ。そしてあなたはこの世界の構造を変えられる。
逆に、この世界にいるモノたちは言葉を扱えないし、ものを生み出したり、構造を変化させることはできない。それは魔王も例外じゃない。
さっき、魔王を叩いた時、忘却領域から空へ移ったでしょ。あれは一瞬で私達の位置情報が変わったって事。つまり、構造が変わったの。でも、魔王にそれはできない。あんたがやったなら別だけど、空中に放り出されたときのあんた、慌てた猿みたいだったもん。だからあんたじゃない。それを、やったのは、おそらくあいつ。」

「あ、そっか!なるほど!…っていうか猿みたいとかはダメ!謝って!普通に傷ついた!」

「そしておそらくあいつは、無意識領域の菜花。」

「既読スルー?!
ととにかくむいしきなんとかって英語のことはちょとよくわかんないんだけどさ、でもなんで、ワタシが私の邪魔するの?お迎えに来てくれてるだけかもよ。」

私がドリちゃんに言うと、
「あのさ、あっちの世界が嫌だからこっちに来てるの。ドリーマーあんた、すごい迷惑なんだけど。」
黒髪のワタシはドリちゃんに不機嫌に言い放った。ドリちゃんは私を見て、肩をすくめた。ほらね、って。


「表層意識の菜花は、ここから出るために闘ってきた。だから私は菜花をサポートしてる。」ドリちゃんは向こうのワタシに向かって言う。

「あれれ?ドリちゃん、ちゃんと菜花のこと見てきた?ほんとにその子があっちに戻りたい、だなんて一度でも言った?」

「そんなの当たり前じゃない!戻りたいからこっちの菜花は頑張って立ち向かったんじゃないの!」

「だからさ、それ、本人にちゃんと訊いたのかって言ってんの。」

ドリちゃんは私を振り返る。
私は、ドリちゃんの水色の眼を見ることができなかった。目をそらした。

「…え?菜花、どういうこと?戻るんでしょう?」

私は俯いた。

ドリちゃんと一緒に闘ってきた。
ふたりで一緒に闘えばあちらの世界の恐怖を克服できるかもしれないと希望をもって闘ってきた。
でも、私は怖い。
やっぱり目覚めるのが怖い。
戻るのが怖い。私がいないほうが、私の大事な人が幸せになれる世界。
私は、あの世界にいない方が、いい。
だったら、こっちの方が、楽だ。

「大丈夫だよ菜花!大丈夫!勇気出して闘ってきたじゃん!目が覚めてもあなたなら大丈夫!さあ、いくわよ!」

ドリちゃんは私の手を握って歩きだす。でも私の足は動かない。
怖くて、動かない。
声も出せない。
ドリちゃんは、それでも無理矢理私を引っ張ろうとする。でも、私はびくともしなかった。足元を見ると、私の足は沢山の根を生やしている。一ミリも動けなくなっている。

ワタシは高笑いしながら、ドリちゃんに
「ドリちゃん!ドリーマー失格じゃん!うける!ワタシたちはここで良いって言ってるのに、あんたが突っ走ってここまで来ただけじゃん!何がサポートよ。
ねぇねぇ、あっちの世界にもどったら、ドリーマーはなにか御褒美でももらえるの?
ライセンスのおっさんたちにさ、尻尾振って砂糖水でももらって舐めるの?
私たちにあんたみたいなのは必要ないの。分かったらさっさとディスコネクトしてよ。同期率下がってるのは、ドリちゃんもかなり消耗してるってことでしょ?早く帰りなよ。砂糖水が待ってるよん。」

ドリちゃんは、それには耳を貸さずに、私の足元の根を取り除いていく。でも、いくら払っても、爪で引きちぎっても、私の足から根が出て蔓が出て、どんどん広がっていく。

「菜花、待っててね、今助けるから、大丈夫、今助けるから、落ち着いてね、菜花、」

必死で根を払うドリちゃんの元へ、ワタシはそばまで歩いてきて、言う。

「はい、無駄。“無駄”が無駄なことするってどんだけなのよ、あんた。さっきも言ったけどさ、ワタシたちはここを選んだの。それを分かってよ。」

ドリちゃんは無心に根をむしっては払う。

「あのさ、あんたら家畜にはわかんないだろうけどさ、人間にはね、大事な人の役にたてない悲しみとか、大事な人の重荷になってしまう苦しみとか、自分なんかいなきゃいいんだって絶望があるの。
砂糖水啜ってるような家畜と同じに考えないで。
前にニュースで見たことあるわ、あんたたちのこと。毛虫みたいでさ、無菌室じゃないと生きられないんでしょ?で、国の莫大な費用使って、生産と出荷。出荷されて、意識のない患者本人の同意はなしに、勝手に接続。そんな家畜にさ、何がさ、できるってのよ!!」

最後にワタシはそう叫び、私の足元で根を払っていたドリちゃんのお腹を蹴りあげた。ドリちゃんは高く弾き飛び、次に白い地面に叩きつけられ、うつ伏せになってお腹を押さえる。私は動けない。声も出なかった。

なんとか仰向けになったドリちゃんは、上を見上げながら呟く。

「菜、花の、役に立ち、たい。」

「だあ、かあ、らあ、そおれが、要らないってえ、言ってえんのおよっっ」

ドリちゃんのそばに走り込んだワタシは、助走をつけてまたドリちゃんを蹴りあげる。そしてドリちゃんが着地する場所には、またワタシがいて、

「要らない、要らない、要らない、要らない、要らない、要らない、」

と言いながら、ドリちゃんが着地する場所に先回りして、ドリちゃんをずっと蹴りあげ続けた。私は、震えて、怖くて、うつむいた。固く目をつむり、耳をふさぐ。


薄目を開けると、雑巾みたいに、ドリちゃんが、地面に横たわっている。
一体、どれくらい時間が経ったんだろう。

ワタシはドリちゃんのそばに木の椅子を出現させ、そこに座って

「ねぇ、菜花あんたもさ、はやく決めないと、ドリちゃんかわいそうじゃない?かわいそうだだと思わないの?まあそうだよね。あんたっていつもそうだもんね、気づかないふり、見ないふり、なんともないふり。だからわざわざワタシが出てきて、こういう状況になってるのよ、わかる?
あんたが、あっちには戻らないって正式に言えば、ドリちゃんはディスコネクトして、ここからいなくなるの。
ドリーマーってね、痛みを感じる神経がすごいんだって。だから、夢の中でのこの痛みも、ちゃあんと、痛いんだって。
あんたにとっては夢のなかでも、ドリちゃんにとっては現実の痛みなのよ。だからあんたが、とっとと決めてあげ」

「じゃあ!なんであん、たは私をディスコネ、クトしな、いの?」

うずくまったドリちゃんが痛みに顔を歪めながら、途切れ途切れに、ワタシに言う。

「本当に戻、りたく、ないなら、さっさ、とあなたが、ディスコ、ネクトすれば済む、はずでしょ。私がこの、世界、に入った、時にも、あなた、はディ、スコネクトで、きたはず。なんで、しなかった、のよ、もっと、はや、くに!」

ワタシは黙っている。


なぜ黙るのか、私には分かる。
わたしたちは、ドリちゃんにサイコロを振ってもらっていたんだ。自分達で決めずに、ドリちゃんに任せて、なりゆきを見ていたんだ。もしかしたら、怖くなるかも。希望を持てるかも。強くなれるかも。そんな想いでドリちゃんと一緒に戦ってた。
でも、この世界を出ていく段になって、急に怖くなった。
頑張った、でもできなかった、って自分に言いたいがために、ドリちゃんを使った。利用したんだ。

ドリちゃんは脇腹を押さえながら立ち上がり、何度も深呼吸して、話し出した。

「あんたが、言うことは、おおよそ正しい。所詮わたしは家畜だし、莫大な費用もかかってるし、あんたたちが、あちらの世界で苦しんだことを、私は想像しかできない。あんたが言うことは、おおよそ正しい。」

ドリちゃんはボディバッグを外し、白い地面にぽとりと落とす。

「物心ついたとき、あちら側とこちら側があるのを知った。
あちら側では人間たちが自分達の好きなように暮らして、こちら側では人間達が好きなように造り、育てられる動物がいる。

なんで?って思った。

なんで私は人間達のために生きなきゃいけないのって思った。動けない体、食べられない体、見えない聞こえない体を与えられて、何年か生きて、人間のために働いて、死ぬ。

なんで?って思った。

だから、何年も人間のことを呪った。誰かにコネクトしたら、そいつを殺してやる、苦しませてやるって本気で考えてた。
でも、何年もそんなこと考えてたら、気づくんだよね。そんなことして、私、すっきりするのかなって。そして考えるの。私ってなんのためにここにいるんだろうって。私はなんで、苦しんでるんだろうって。

私たちドリーマーの短い寿命のなかで、人を呪って死んでいく子も、絶対にいると思う。

でも、人を呪うことは、自分の命を自分のためじゃなくて、人のために使ってしまうってことだって気づいた。ずっとずっとケージに閉じ込められて、生きてきたのに、命や心まで自分のものじゃなくなる。それって、とっても悲しい。呪うって自分も呪うことだよ。だから、人を呪うのをやめた。

管理されるなかで、人間のなかにも、優しい人がいることを知った。
逃げられず、動けず、苦しいのなら、どうせここで最後を過ごすなら、私はその人たちの役にたちたい。って思うようになった。意味があるかどうかはわかんない。

だから、私は選びたい。
私は、最初で最後の適合者である、二ノ宮菜花の役にたちたい。
これは、命を懸けた私の自己満なの。」

ワタシも、
私も、
ドリちゃんも、
3人ともが、考えている。
立ち尽くし、考えている。

ドリちゃんがワタシを見て口を開く。

「さっきあんたさ、ドリーマーは夢のなかでも痛いって言ってたけど、それは、あんたたちも同じじゃない。あんたたちは、夢のなかでも、そうやって心痛めてるじゃないの。
さっき言ってた、大事な人の重荷になるって、たぶんお母さんのことでしょ?夢のなかでまで、そういうふうに心を痛めてる。それって、つまり痛いってことじゃん。わたしと同じだよ。

その腰まで伸びた黒髪は、たぶん、表層意識の菜花があんたのことを無視した時から伸びてるんでしょう?
その長さだと、6年ぐらい。
6年間、あなたも耐えたんでしょ?
私も一人で耐えてたから、わかる。わかるって言われるのが、一番腹が立つのもわかる。一緒にされたくないってのも分かる。だって、苦しみはそれぞれの中にしかないもの。一緒じゃないもの。
だから、戻りたくないってのも、わかる。
だから、本当にここがいいなら、あんたたちが、自分で決めたらいいと、思う。」

ドリちゃんは、わたしたちをよく見てそう言って、私たちに背を向けた。私が、ここに留まるという選択をしやすくしてくれたのだと思う。






沈黙の後、私は、ワタシに言った。

「ありがとう。
そして、今まで、ごめん。
気づかなくて、ごめん。
嘘ついて、ごまかして、
ないがしろにしてきて、ごめん。
ごめんなさい。
許して。ください。
許してください。
私、わたしを、大事に、する。
もう、ごまかさない。
だから、私は、私で、決める。
私が、決める。
私は、あっちに戻る。
私は、あっちに、戻りたい。
私は、目覚めたい。」




黒髪のワタシは、私のそばまで来て、
ゆっくり、黙って頷いた。
そのまま、氷が溶けるみたいに、私に重なって消えた。

おなじように私の足の根っこも煙みたいに消える。
ドリちゃんは、ふらりとして、ごとんって倒れた。
私はドリちゃんに駆け寄る。

「ドリちゃん、ごめん……ごめんね、わたしのせいだ。」

「んもう、無意識領域のあんた、けっこういろいろ、強烈、だったわね。あんた、さては、ぶりっこね。嫌わ、れるわよ、ちゃんと、直さ、なきゃ。」

「ごめんなさい、わたし、ひどいことしたし、言った。ごめんなさい。」

ドリちゃんはポケットの中からさっき食べた、きらきらの金平糖のようなものを二つと取りだした。ひとつを自分の口に放り込み、ひとつを私に手渡した。私はそれを断り、ドリちゃんが食べるように促した。ドリちゃんはもうひとつも口に放り込む。
ほんのりドリちゃんが光って、ゆっくりと傷が回復していく。

「あのさ、人の心の中って、そんなものなの。沢山のドリーマーたちのデータ見てると、コネクトした人とのさっきみたいな会話は、普通のこと。私は気にしてない。ほとんど事実だし。」

「事実じゃない!ドリちゃんはわたしの大事な友達だし!仲間だよ!無意味じゃないし!私にとっては大事で必要な存在なの!!」

「生きて、生きてる人と関わってれば、いろんなこと言われる。ホントのことも、嘘のことも、勘違いのことも。私は、大丈夫だよ、菜花。私は気にしない。」

ドリちゃんは、そう言うと、ふわりと気を失った。
小さく寝息が聴こえる。
私はドリちゃんを膝枕して、ドリちゃんの頭をなで続け、ごめん、ありがとう、ってたくさん呟いた。





しばらくして、ぱちりと目を開けたドリちゃんは、あくびをして、いてててと言いながら起き上がった。

「寝てたの?わたし。」

「うん。寝息たててた。」

「そっかあ。夢の中で寝ちゃったか。じゃあ私の意識はどこに行ってたんだろう?っていう哲学的な問い。」

ドリちゃんはそう言って私に、にんまりと笑いかけた。私が気にしないように、わざとふざけてくれてるんだと思った。そしてボディバッグからなにかを取り出す。

「忘れないうちに、菜花これ、プレゼント。」

ドリちゃんは綺麗にたたまれた洋服を私の前に両手で差し出して、
「もう、戦うのは、終わりだから。」そう付け加えた。

菜の花色のワンピース。
薔薇色のボレロ。
ピーコックグリーンのタイツ。
最初に私が着ていた洋服だった。

「一応私にも、ものを生み出す力はほんの少しだけあるの。実は時間かけて少しづつ作ってた。」

私は、つなぎの戦闘服を脱ぎ、ドリちゃんがくれた新しい服を着た。やっぱり着たい服がいちばんしっくりくる。私は居ずまいを正して、ドリちゃんにお辞儀をする。

「ドリちゃん、ありがとう。私、反省してる。さっきのこと。ほんとに、ごめんなさい。」

「何度も言うけど、ドリーマーはそういう対応込みでの精神活動なの。頭や心の中は、いろいろごちゃごちゃしてて人にみせられないものがあって当然でしょ?あ、じゃあ、たんぽぽって、根っこから花まで、全長どれぐらいあると思う?」

「え?たんぽぽ?たんぽぽは、地面から10センチぐらいのところに花が咲くから、全長は30センチぐらい?」

「ぶっぶー!ハズレ。正解は1メートル。花の何倍も深い根を張ってるの。人の無意識もそう。自分で気づかないことがたくさんある。見えなくて当然、知らなくて当然。」

「そんなに長いんだ…恐るべしだね。たんぽぽ。」

「人も同じ。菜花も同じ。だから、知らない一面なんて、あって当然なんだよ。でもさ、さっき、菜花はふたりとも、ディスコネクトしなかったね。いろいろ言われてたけど、言葉とは裏腹に、頼られてるって思った。だから、嬉しかったよ。あの時間。」

「え…ドリちゃんって、変わってる…。」

「あんたも大人になればわかる。」

「え!同い年じゃん!」

ドリちゃんは手を差し出した。
私も手を差し出した。
ふたり手を握る。





「よし、菜花、伝えておくね。ここでのこと。
いい?ここで起こったことは、記憶として残らないことも多いの。ほら、夢を見たのに起きた途端に忘れるのと同じ感じ。全世界の半数のナイトメア患者さんが、ナイトメア記憶が欠落した状態で意識回復してる。」

「えとぉ、つまりその、どゆこと?」

「起きたらこのこと全部忘れるかもってこと。」

「え!そんな!ドリちゃんのことも忘れちゃうの??」

「コインを投げて、表が出るか、裏が出るかと同じ確率で、忘れる。そして同じ確率で忘れない。だから、私にも、分かんない。」

「あ、でも起きたらそばにドリちゃんいるんでしょ?」

「うん、菜花が目覚めるまでは、菜花の額に前足をコネクトさせてる。」

「じゃあ大丈夫だよっ!!思い出すよ!必ず!」

「あ、ちなみに、ドリーマーは忘れないから。菜花がもし忘れても、私は憶えてる。」

「もう!私も忘れないって言ってるじゃん!大丈夫だよ!」


「あ、そうだ。ランプ持って来てたんだった。」

ドリちゃんは胸のポケットから風船を取り出して、それを口に咥えてぷううっっと空気を吹き込んだ。膨らんで薄っすらと光り始める。

「菜花の足もとは私が照らす。だから不安になったら、足もとを見て。足もとだけでいい。」

「うん。わかった。」

「行こう。」

「うん、でも、怖い。」

「うん。わかってる。だから、探しに行こう。」

「何を探すの?」

「何でも探すの。」

「うん。わかった。なんとなく。」

「そして、怖いなら、逃げる。」

「逃げる?」

「うん。逃げていい。怖いって言っていい。寂しいって言っていい。怒ったって言っていい。でも、菜花の気持ちから逃げると、またここに来ることになる。逃げていい、逃げて自分を、一番大事にして。」

「うん、なんとなく、わかった、かも。」

「よろしい。行こう。」

「うん、行こう。」




1622375294299_探しにいこう




薄い桃色の扉。


「菜花、入り口の鍵を開けて。」

「え?ここ出口じゃないの?」

扉に鍵穴はなかった。
桃色の扉にゆっくりと鍵を近づける。
沈むように、鍵は扉に入ってゆき、ふわりと扉が向こう側へ開いた。
朝日のような柔らかな光が差し込み、すずめの鳴き声が聞こえる。


「ううん。出口じゃない。入り口だよ。菜花、目を開けて。」




















眩しい。
窓の外で鳥が鳴いている。
その鳴き声で、今日はとても晴れていて、気持ちの佳い一日なのだということがわかった。空は青く雲が流れ、風はやわらかい。そんな気がする。



菜花は、あくびをし、大きく伸びをした。

「痛ったっ、え?なにこれ?」

両肘や胸にテープやコードやチューブが付いて、皮膚を引っ張っている。それを菜花が外そうとすると、見知らぬ女性が、

「菜花ちゃん、痛かったね、私がはずしてくね。待っててね。」

と、優しい笑顔で言う。

「あ、はい。え?あ?えっと、その、え?だ、誰ですか?」

よく見ると、その女性のそばに、にこやかな初老の男性も立っていて、こう言った。

「起きたら知らない部屋って、びっくりするよねえ。いまから説明するね。あのね、僕は病院の先生。そしてこの人はね、看護師さん。で、ここは、病院。菜花ちゃんはね、ずっと眠ってて、入院してたの。」

菜花は仰向けのまま、あ、はぁ、と、力のない返事をする。その間看護師は、テープなどを外していく。

「菜花ちゃん、これから体のことについて質問をするよ。あのさ、どこかさ、痛いなぁ、ってところとか、うぅ気持ち悪いとか、うげぇ変な感じがするなぁ、ってとこはない?」

医師がそう訊いたので、菜花はよく分からないという顔をしながら、手足を動かしてみたり、お腹をさわってみたりして、うん、まぁ、ない、です、と答える。医師は満足そうに笑顔で頷き、ベッドの反対側に向かって、

「上条くん、それじゃあ、Dも除去。」と、指示を出した。

ベッドの反対側には、細身の男性が立っていた。彼は頷き、

「お疲れ様。よく頑張ったね。」

と、菜花に言う。
彼女はまた、あ、はぁ、と力ない返事をする。
そして、上条は菜花の頭部に伸びたコードを外していく。ぺりりりという音がして、額に貼り付いていた黒っぽいコードが、だらりと力なく垂れ下がった。コードには薄っすらと毛が生えて、ぴくぴくと動いている。
菜花がそのコードを眼で辿っていくと、菜花と同じベッドに、黒い毛の動物が横たわっていた。20センチぐらいの手足のない動物。ほんの少しだけ尻尾がある。上条はその動物を透明のケースに両手で移し、医師と少し会話している。

菜花は、ケースの中の動物を、遠くを見つめるように眺めた。芋虫のような胎児のような、毛の生えた動物。あれって、なんなんだろう。黒い潤んだ目で私をじっと見てる。へんなの。なんか、気持ち悪い。

上条はそのケースをステンレスの台に載せ、菜花をちらりと見てから、病室を出ていく。私はなんとなく彼に会釈する。彼はちょっと笑って、会釈を返し、眼を伏せた。


「じゃあ、お母さんにお伝えして。」医師が看護師にそう告げてから数分後、誰かがスリッパで走る音が聞こえてきて、菜花の母親が病室の入り口に現れた。

母親は、口許を押さえ、菜花を見つめる。
菜花は、あ、お母さん、おはよう、今日は仕事休み?と、言った。
母親は、おはよう、菜花、おはよう、と言ってその場にしゃがみこんだ。






「あ、おつかれさまでっす。遅かったすね。」

「ああ、388番の同期率が低下してるから、すぐに来てくれって。で、駆けつけたんだけど、それからしばらくしてさ、二ノ宮さん、意識回復した。」

「お、まじっすか、やりましたね。お疲れさまでした。」

中川は、ケースの中の388番を見て声をあげた。

「え、かなり痩せてるじゃないすか。呼吸も、浅いし、あの、上条さん、388番、かなり、」

上条は388番を見つめ、小さく頷いた。
「うん。よくやったよ。9年も。」

「いや、ほんとにそうですよ。9年前って言ったら、僕はまだ大学で、睡眠削って健康害してまで、一生懸命合コンしてた若造ですからね。」

「そこは一生懸命の言葉の使い所間違えてるけどな。」

「そんな頃から388番は、よく、頑張りましたね。あ、上条さん、頑張ったな、ハチって言ってあげなくていいんですか?」

「は?なんだよそれ。」

「またまたあ、ナースもみんな、知ってますよ、上条さんが388番の様態が悪い時、夜も付き添って、ハチって話しかけてたこと。」

「………ほんと…か?」

「もちろんっす。上条さん、クールぶってますけど、ナースたちに、影でハチパパって呼ばれてます。以上、業務報告っす。」

上条は頭を雑に掻いて顔を赤くした。
そして388番のケースを、自分のデスクの上にそっと置き、小声で、
「おかえり。ハチ。お疲れ様。」と恥ずかしそうに呟いた。

ケースには、呼吸 脈拍 血圧 が表示されている。
388番健康時の70%にまで、数値が低下している。

それもそうだろう。そもそもがドリーマーの平均寿命を大幅に越えている状況で、コネクトしたのだ。上条は、羅列された数字を見つめながら、なんとも言えない顔をした。

9年も耐えてきたドリーマーに、自由に走り回れる場所を経験してほしいという気持ちがあった。誰とも適合せずに命を使い切るドリーマーも多い中で、その倍の時間を生きて、やっと適合者が見つかった388番。適合した時には迷わずコネクトの段取りを進めた。最後ぐらい活躍の舞台を用意してあげたかった。

でも、388番が望んだのかどうかはわからない。これで良かったのかどうか、上条はわからなかった。388番は、横たわり、浅い息をしている。





目覚めた翌日、菜花は一般病棟に移った。そして、ベッドの上で窓の外を見ながらゼリーを食べている。

「ねえ、ゼリーなんてよく噛む必要ないじゃん、なんか気持ち悪いよ。」

菜花は赤いゼリーを見下ろしながら、母親にぼやいた。母親は、菜花の着替えをたたみながら、くすくすと笑って、先生がそう言うんだから仕方ないでしょ、食べる練習、食べられるだけまだましじゃない。と言った。菜花は唇を尖らせてゼリーを口に運び、大袈裟に噛むしぐさをする。

「今日再検査して、異常なければ明日から自宅療養に切り替えても大丈夫だって。」

「早く帰りたいよぉ、病院ってきいらいぃ~」

菜花はベッドを大袈裟に叩く。母親はほくそ笑みながら菜花を見つめた。



退院の日、菜花は不機嫌だった。
お気に入りの靴を履きたいと言ったのに、母親が違う靴をもって来てしまったからだ。そんな子供っぽい靴絶対に履かない、靴が来るまで退院しない、とまで話が発展した。けれど、ナースの説得もあり、不機嫌ながらも菜花は病室を後にする。

玄関前に、担当医師とナースが見送りにきた。母親は丁寧に感謝をのべたけれど、菜花は手をぶらぶらさせて不機嫌だった。母親がすこし叱ると、医師もナースも、いいんですよ、と母親に言った。


そこに、上条が現れた。
母親は上条に深く頭を頭をさげ、上条さんのおかげで退院できます、と言ったけれど、上条は、いやいや、僕はなにもしてませんよ。ほんとに、よかったですね、お大事に、と言った。
母親は菜花に、ドリーマーのケアをしてくださった方よ、と上条を紹介したけれど、菜花はドリーマーのことをまったく覚えていない。とりあえず、母親に言われるがままに、上条に頭をさげた。上条は笑顔でお辞儀した。見る人が見たら、その顔は寂しく見えただろう。

菜花と母親は、3人に見送られ、病院を後にした。


駐車場までに途中、横断歩道があった。
菜花は、ぼーっとして歩いて、赤信号になった横断歩道を渡ろうとする。気づいた母親に、咄嗟に体を引っ張られ、尻餅をつく。すぐ目の前を軽自動車が通りすぎていく。


「ちょっと菜花!気を付けなさい!」

「痛ったあああ!びっくりしたぁ!ごめん、ぼおっとしてた。」

度胸があるってよりは、ただ何も考えてないだけね

「ほんとにっ!もう!退院してまたすぐ入院したいの?」

「え、だって、ぼーっとしちゃったんだもん。仕方ないじゃん。」

さっきみたいなやつに捕まって喰われそうな時に、でもー!だってえ!って言ってて通用すると思う?

「まだ家で様子見なんだからね?ちゃんと周り見て、足元気をつけて歩きなさい。」

足もとを見て
足もとだけでいい

「あ、う、うん。」
菜花は立ち止まる。

「あの、あれ、なんか、お母さん、なんか、私、なんか大事なこと、忘れてる気がする。」

そう言って菜花は駐車場の真ん中で考え始めた。

「どうしたの?忘れ物ならちゃんと確認したよ?」

菜花は、難しい顔をしながら腕を組んで何かを思い出そうとする。

突然、涙が次々に溢れてきた。手のひらや、手の甲で拭い取っても、どんどん流れてくる。なんで泣いてるんだろう、おかしいなぁと、菜花は思った。

母親が、不安な顔で駆け寄ってくる。
そして、菜花は泣きながら笑いだした。

「なんでだろうなあ、私、馬鹿だなぁ、ひどいなぁ、私。忘れないって、約束したのに。お母さん、私、病院に戻らなきゃ。」

「なんで?忘れ物はなかったよ?」

母親がそう言うと、菜花は首を左右に振って、言った。

「思い出したの。会わなきゃ。ドリちゃんに。」








母親と菜花は、睡眠外来の受付で上条を呼び出してもらった。
先程退院したばかりの患者に呼び出され、上条は、なにごとですか、という顔で登場する。

「あれ、二ノ宮さん、どうか、されましたか?」

「あのぅ、すみません、上条さん、うちの娘が、菜花が、ドリーマーの記憶を取り戻したみたいで、ドリーマーにあいた」
「おじさん!ドリちゃんはどこですか?!」

菜花が母親の言葉を遮るように上条に質問すると、上条は、ドリちゃんって、ドリーマーのことかな?それなら、特別室にいるよ、と答えた。会いたいんです、と菜花が鼻息荒く表明すると、ケース越しであれば会ってもいいよ、と上条は了承した。





菜花は、元気なドリーマーを想像していた。
菜花の夢のなかで出てきたような、辛口で軽快で痛快なそんなドリーマーを想像していた。けれども、上条がケースで連れて来たのは、手足のない、芋虫のような動物だった。小さな口、小さな目。短い尻尾。

「この子が、ドリちゃんですか?」

「そう。菜花ちゃんにコネクトしてた、ドリーマー0388。」

菜花は恐る恐るケースに近寄って行き、ドリちゃん、と小声で話しかける。ゆめのなかで沢山話した388番とは、似てもにつかぬ姿に、菜花は戸惑った顔をして、両手を胸の前で祈るように握る。
そして、耳元で大きな声で話せばすこしは聞こえると、388番が言っていたことを思いだし、

「ドリちゃん!私だよ!わかる?!ドリちゃんなの?」

と、ケースに向かって大声で話しかけた。
ケースの中の388番は菜花のいる方向を見つめてはいるが、返事はない。もしかしたら、聞こえていても返事ができないだけじゃないか、と菜花は思った。

「ドリちゃん!菜花だよ!!夢のなかで一緒にいた菜花だよわかる??ドリちゃん分かったらまばたきして!はいなら1回!違うなら2回!ドリちゃん!菜花だよ!わかる!!!!!???」

388番は、小さな瞳をぱちりと閉じた。

「ドリちゃん!ドリちゃんなの?!じゃあ、肉球の匂いかがせて!!」

388番は、小さな瞳を、ぱちり、ぱちりと閉じた。

「ドリちゃんだ!!ドリちゃんなんだね!な菜の花だよ!わわ忘れててごめん!待たせてて、ごめんなさいででもちゃんと思い出した!!ずっと忘れててごめんねドリちゃん!あんなに頑張ってくれたのにわたしばかだなひどいねわたしごめんねドリちゃんドリちゃんごめん、いたいとこはない?大丈夫?」

388番は、しばらくの間、まばたきをしなかった。
どの質問に答えたらいいのか、わからなかったのかもしれないし、声がうまく聞き取れなかったのかもしれない。

「菜花ちゃん、ちょっといいかな。あのね、388番は、ほかのドリーマーよりも、すごく痩せてる。というのも、平均寿命の2倍以上生きてるんだ。ほかのドリーマーなら、もう何年も前に死んでしまうんだけど、388番は今日も生きてる。9年間生きてる。」

上条は、菜花の目の高さにしゃがみ、続けて言った。

「だからね、もう、命がのこり少ない。僕の時計に、388番の体の状態を表示できるようにしてるんだけど、健康なときの数字が100だとしたら、今60ぐらいなんだ。
だから、もしよかったら、この子の最後を一緒に過ごしてあげてくれないかな。どんなことを夢のなかですごしてたのかおじさ」「私のせいですか?私が病気になったから、ドリちゃんは、」


菜花はとんでもないことをしてしまったという目をして、上条に問いかける。上条は、ゆっくりと首を横に振った。

「388番はもともと寿命だった。そもそも何年も前に、寿命が過ぎてる。今日生きていることは奇跡なんだ。だから、絶対に、菜花ちゃんのせいじゃない。」

「もう、治らないんですか?私がじゃあコネクトします!ドリちゃんにコネクトして私が戦う!コネクトさせてくださいおねがいしますわたしがたたかうからおねがいします」

上条は優しい顔で、残念そうに首を横に振り、寿命なんだと呟いた。

菜花は、そばで見守っていた母親に抱きついて、そのスカートに顔を押し当てて泣く。部屋に、菜花の声だけが響いている。



「ドリちゃんを外に連れていきたい。バイクにのせてあげたい。海をみせてあげたい。誕生日のパーティをしてあげたい。だめですか。」
菜花が上条の方に振り返り、はっきりした口調で言った。

上条は何度もうなずいて、苦しそうに、菜花に答えた。

「ありがとう。でもね、菜花ちゃん、ドリーマーは、規則で、病院の外に出しちゃいけないことになってる。だから、ここからは出せないんだ。」


絶句する菜花を、母親が慰める。
「菜花、このお部屋に入れるだけでもすごいことなんだよ、特別に入れてくれてるんだよ、最後にドリーマーに会えただけですごいんだよ。ね、だから笑って。最後までドリーマーのこと見ててあげよう?」
菜花はスカートに顔を押し当てて、いやだいやだと言いながら首を横に振る。

なりゆきを見守っていた中川が、デスクを叩いて立ち上がった。

「はあ!?上条さん!ハチパパのくせになに言ってんすか!9年も生きて、女の子救ったのに、死ぬ前に外出するのが許されないルールなんておかしいですよ!連れて行ってやってくださいよ!なにより、上条さんが後悔しますよ!」

菜花も母親も、上条も、驚いて中川を見る。
中川は、怒ったような顔で目元を拭い、上条の返事を待っている。
すると、母親も菜花も祈るように上条を見つめた。
上条は頭をかきむしり、388番をちらりと見た。すると、388番も、上条の方向をぼんやりと見つめている。会話の断片が聞こえているのだろう。

「みんなでそんな目で見つめられてもなぁ。でも、ハチ、お前にそんな感じで見つめられたら、そりゃだめだ、とは言えねえよな、ハチパパとしては。」
上条はそう呟いた。

そして大きな声で、
「ハチ!外に出るってことは、もう外で死ぬってことだぞ?ここ以外では生きられないのはわかるよな?いいのか?ここでゆっくり静かに休んでててもいいんだぞ?外が辛くても、後悔しないか?」

388番は、ぱちり、ぱちり、とまばたきをした。

それを見届け、上条は振り返り、菜花に尋ねた。

「菜花ちゃん、誕生日会の会場はどこ?俺も参加するよ。」




菜花は、私の家で、やりたい、と答えた。
母親がそれに反応し、じゃあ急いで家の片付けをしなきゃ、と慌て始めた。

「じゃあ、お母さんはこれからすぐに家に戻って会場の設営をおねがいします。僕はハチと菜花ちゃんを乗せてケーキを買って、会場へ向かいます。」

母親はお辞儀をして、出ていった。けれどすぐに戻ってきて、中川に深くお辞儀をして、
「ドリーマーのライセンスの方々は、ほんとうに良い方たちばかりですね。」そう笑顔で言った。中川は、照れてしまって、もごっもご言う。

「すまん、中川。ありがとう。あとは頼んだ。よし、菜花ちゃん、行こうか。」
上条はケースから388番を出し、菜花に優しく抱かせた。
そしてふたりで部屋を出る。

けれど菜花はすぐに戻ってきて、まだひとりで照れている中川に片手で抱きついて、ありがとうと言って走って出ていった。
中川はひとりの部屋で、にやにやし続けた。











上条さんと私とドリちゃんは、病院の廊下を歩く。

「上条さんだったんですね、ハチって呼ぶの。」私は早足で歩きながら言う。
「ドリちゃんに聞きました。病気で辛いときに、いろんな本を読んでくれて、嬉しかったって。でも、平安時代のとかバイクのとか変な本ばっかりで、変わってる人だって。あと、なんか好きなバイクがあるって言ってました。」

「はははは、そうか、こいつにはちゃんと聞こえてたのか。そうか。」

「他にもたくさんいろんなこと話してくれました。」

「じゃあまた聞かせてもらおうかな。よし、ついたよ。」

地下の駐車場で、上条さんが言った。
そばには、黒光りするバイクがあった。

「え!バイクで行くの?!!!」

「そうだよ。あ、そういえばさ、ハチは、なんてバイクが好きだって言ってた?」

「えっと!多分、なんか、ショーロンポーとか、ホイコーローみたいな名前だったような気がします。」

「なんだろそれ。中国のバイクなのかなぁ。ちょっとわかんないなぁ。ちなみにこのバイクは、ハーレーのファットボーイロゥって言うんだけど、違うよね?」

「ドリちゃん!ドリちゃんが海辺を走りたいって言ってたバイクって、ファットボーイロゥって名前?」

ドリちゃんはぷるぷるぷると震えながら、一度だけまぶたをぱちりと閉じて、そのあと何度もまばたきをした。私には、
「それそれそれそれ!すごい!嘘でしょ!乗れるの?!すごいっ!!」
って言っているように見えた。カルピスを飲んだ時のドリちゃんを思い出した。

「上条さん!このバイク、ドリちゃんが好きなバイクだって!!」

上条さんは片頬で笑って、
「ハチ、すげえいい趣味だけど、お前も変わり者だな。人のこと言えねぇぞ。」と言ってヘルメットをかぶった。顔が半分出る、帽子みたいなヘルメット。

上条さんは私にもヘルメットを渡し、ハチを頼むね、しっかり掴まっててね、と私に言った。私は大きすぎるヘルメットを被り、胸元でドリちゃんをしっかり抱いて、縦に大きく首を振る。

私とドリちゃんが上条さんの後ろに乗ると、上条さんは、バイクのエンジンをかける。エンジンは、ぼとととととととととととととって大きな音で吠えるみたいだった。ドリちゃんがピクッてして、まばたきを何度もしてた。エンジンの音だけで、感動しているのが伝わってきた。





バイクは走り出し、風が生まれた。
病院を抜け、
太陽の光を浴び、
沢山の車を追い抜き、
大きな橋を渡り、
風の上を滑るように走った。

「上条さん!海!海のそばを通ってください!!」
上条さんは、右手の親指をたてて、柔らかく進路変更して、徐々に速度をあげた。すごい風が足に当たるけれど、上条さんの広い背中の後ろは、ほとんど無風だった。いくつかの交差点を越えて、上条さんが左に曲がると、右手には、輝く砂浜と、輝く海が見えてきた。吹いてくる風は海の匂いがする。

青い海、遠くに大きな雲がいくつもある。太陽は眩しくて、海の上を宝石みたいに照らす。

私はドリちゃんの顔を胸から出るようにして、ヘルメットを開けて大声で叫んだ。

「ドリちゃん!ドリちゃんから見て、左!ひ!だ!り!左側に太陽と海だよ!すごく晴れててきれいだよ!見える??!ドリちゃん!海だよ!海!!!!見える???!ドリちゃん!海なんだよ!!!空だよ!!!!!風がきもちいね!!!ドリちゃん!!!!」

ドリちゃんは顔だけを少しだけ左に向け、震えながら目を見開いた。小さな口を大きく開けている。

私から見える、海と空は、ぜんぶ滲んで見えた。
だから、もしかしたら、ドリちゃんにも滲んで見えたのかもしれない。
燦々と煌めく青と白と金色の景色が。

海を過ぎると、上条さんはバイクのスピードをあげた。エンジンが低音で響き、風がきもちいい。飛んでるみたいに、バイクは進む。
ドリちゃんを見ると、目を真ん丸にしてまた口を大きく開いている。ドリちゃんにも全部聞こえてる!見えてる!風を感じてる!

「ドリちゃん!聴こえる?見えてる?ドリちゃん!」

ドリちゃんは、ぱちり、一度だけまぶたを閉じた。



駅前、夢路さんのケーキ屋さんの前に、バイクは滑り込む。
上条さんにヘルメットを外してもらい、ドリちゃんを抱っこしてもらい、私は慌ててお店に駆け込んだ。

「夢路さん!あの!バースデーケーキお願いします!」

「お、おぅ!菜花ちゃん久しぶり!最近見なかったけど元気だった?あれ?学校は?」

「入院してたから学校は休みですあのバースデーケーキ!お願いします!」

「入院?!大変だったね、まぁでも、元気そうでよかったよ。なななんか、急いでる?えっとね、今あるのが、下の三つ。チョコ、好きだったよね、チョコのにする?ショートケーキもあるけど。」

「友達の、ケーキなんです!」

私は、息を切らしながら、3つのケーキをそれぞれ見る。チョコ、フルーツ、ショートケーキ。
でも、ドリちゃんどれが好きなんだろう。わかんない。私はドリちゃんの方を振り返る。ドリちゃんは上条さんの腕のなかで小さく震えて、上条さんを見上げている。ドリちゃんなら、なんて言うんだろう。

「お祝いなんだから、菜花がいっちばん美味しいと思うものを選ぶのが筋でしょ!なにそんなに悩んでんのよ!」
って、いいそうな気がする。

「チョコレートケーキ!お願いします!」

「よし!即決だねぇ。じゃあチョコレートプレート書くから、なんて書こう?
この紙にね、お友だちのお名前と、メッセージ書いてね、あんまり長いと難しいから、大きな文字で、この枠に入るぐらいでね。」

私は背伸びをして、ガラスケースの上で、メッセージを書いた。
店の中のお菓子も、文字も、色とりどりのケーキも、全部滲んで見える。
夢路さんに、紙を渡す。

「お、2人も誕生日の子がいるんだね、誕生日パーティー楽しみだね、よし!すぐとりかかるから、待っててね!あ!ろうそくは、9本?10本?」


私は少し考えて、9という数字を指で出した。夢路さんは厨房に入り、他のスタッフの人とやり取りしながら、てきぱきとプレートを仕上げていく。
私は上条さんを見たり、ドリちゃんを見たり、歩き回ったり、そわそわしたり、店内のお菓子を見たり、夢路さんを見たり、いてもたってもいられなかった。なにかをしていたかった。

そのとき、なぜか、視界の端のケーキが気になった。プリンのように容器に入っていて「クラフティ」という名前がついている。

そのケーキの説明には、

“フランス、リムーザン地方の伝統菓子。カスタードとチェリーが入った素朴な
プディングケーキです。”

と書いてあった。

「はあい、菜花ちゃんお待たせぇ!」

「あの!夢路さん!あの!」

「どどどうしたの?」

「あの!夢路さんってフランスのお菓子が作れるんですか?あの、フランスのモンさんって人のオムレツも作れますか?!」

「もももモンさん?うーんと、えっと、わかんないなぁ、誰かなぁ。」

「あの!えっと、モンさんって場所があるって言ってました!そこのオムレツが食べたいって、友達が言ってたんです!作れますか?!!」

「あー、はいはい、モンサンミッシェル!」

「そう!!はい!!!!そう!正解!そうそれです!!」

「まぁ、若い時にさ、フランスに研修行って1回、食べたことあ」

「夢路さん!お願いします一生のお願いですご迷惑かもしれないですけどお願いします本当に本当に大事な友達がそのオムレツを食べたいってそのでも、その友達は行けなくて間に合わなくてだからその夢路さんお願いしますごめんなさいおねがいします!」

「んもう!大慌てだね今日は!
んもう!うん!わかったよ!!
いつもおとなしい菜花ちゃんが、そんなに切羽詰まって僕にお願いするんだから、よっぽどのことなんだね。
今からレシピ調べて、大急ぎですぐ作る!毎日卵使ってるケーキ屋が作る、渾身のオムレツ焼くから、10分待っててね。」

私はその場で夢路さんに泣きながら抱きついた。ホイップクリームの甘い香りがした。
本当に心から、ありがとうって思った。

そして店の外に出て、上条さんの腕にしがみついて、腕の中のドリちゃんに大声で言った。

「ドリちゃん!ねえ!すごいよ!すごいの!ねえ!ドリちゃん!ドリちゃんが食べたがってたもの!誕生会に食べられるよ!でもまだ秘密だよ!だから頑張って!ドリちゃん!聞こえる?!みんなで食べようね!」

10分後、厨房から満足気な顔をした夢路さんが出てきた。
壊れやすいから、あんまり揺らさないようにね。そういって夢路さんは箱を手渡す。
菜花ちゃんは、いい友達を持ったし、その友達も、いい友達を持ったなって、おじさんは思うよ。と夢路さんは言ってくれた。ぽろぽろろって涙が出て、私はうんって言った。

お金がないのに気づいたけど、上条さんが、外から素早く一万円札を私に渡してくれた。
私は上条さんにお辞儀して、夢路さんにもお辞儀した。
そして夢路さんが上条さんに笑いながらお辞儀をして、上条さんは目元を拭いながらお辞儀をした。

私は、ケーキとオムレツを抱え、上条さんが洋服の胸のなかにドリちゃんを抱える。
バイクは、ばうおうううんって唸って、ばろろろろろって走り出した。
あの時の、ドラゴンみたいに。




アパートに着くと、お母さんが掃除をし終わったようで、窓が全部開けたままだった。上条さんのバイクの音で、お母さんが窓から顔を出した。私は、ケーキとオムレツを持って、アパートの階段を駆け上がる。その後ろから、ドリちゃんと上条さんが駆け上がる。
金属の階段がかんかんかんかんって鳴って、なんだか私は、4人家族でやってる運動会の借り物競走みたいな、そんな行事みたいに思えて、とっても楽しかった。


いつも私が一人でご飯を食べていたテーブルに、オレンジジュースと、フォークと取皿が4人分用意されていた。窓が開けてあり、いつも暗い部屋がとても明るかった。

「上条さんが、ドリーマーは視力があんまりないって言ってたから、明るくしてみたんですけど…。」

お母さんが不安げに言う。

「ドリちゃんは、海も見えたって返事してた!だから少しは見えるかもしれない!」

私は答えた。

お母さんと私で、オムレツとケーキを、急いでお皿に盛り付ける。

オムレツはふるふると震えて、湯気が上がり、とても柔らかそう。

「それなに?どこで売ってたの?」お母さんがケーキの箱を開けながら、オムレツを見て訊く。

「フランスで修行したシェフに作ってもらったの!夢路さん!」私は自慢げに答える。

お母さんは驚いて笑った。そしてケーキにろうそくをテキパキと9本立て、火を付ける。
すると、上条さんが、あ!って言って、カーテンを閉め始めた。
私とお母さんが、なんでかな、って顔をして上条さんを見る。すると、
「ろうそくは、暗いほうが、9本、見えるかなって、思って。」
上条さんは、きりりと答えた。私もお母さんもきりりと頷いた。


お母さんと、上条さんが座り、ドリちゃんは上条さんの手の中に抱かれている。
私はケーキを持って、キッチンからテーブルに歩いて行く。

「ドリちゃん!歌うよ!聴いててね!!!せえの!」

私とお母さんと上条さん。
3人で、大声でハッピーバースデーの歌を歌った。
ドリちゃんに聞こえるように、音程も無茶苦茶。とっても騒がしい、ハッピーバースデーの歌。
みんな、おかしくて、笑いながら歌った。


ドリちゃんの名前を歌う時、
上条さんは、はあちー、って歌って、
私は、どりちあんーって歌った。


はああああっぴばああすでええいとぅゆうううう!!!!

上条さんはドリちゃんを揺らして、私とお母さんは拍手をする。

上条さんは、ドリちゃんの顔をケーキの方に向けている。
ドリちゃんの黒い瞳の中に、ロウソクの火が9つ映って、輝く。
私は自分の目元を拭って、上条さんの手の上のドリちゃんに訊く。

「ドリちゃん!!ろうそく消してみる?」

ドリちゃんはふわふわと震えながら、一度だけまぶたを閉じる。
最後のひとつ消す? 私がもう一度訊くと、ぱちりとまた閉じた。
私は、8コのろうそくを消す。
上条さんが、ドリちゃんの口を、そおっとロウソクの前に近づける。







ドリちゃんは息を大きく吸い、小さな口から息を吐き出す。

ぷしゆぅい

すちいいい

ぷううしい

しゅううう

苦しいのか、息を整えながらも、懸命にドリちゃんは息を吹きかけた。
でも、まったくろうそくの火は動かない。
カーテンの閉まった薄暗い部屋に、ドリちゃんの呼吸が小さく響く。

それを聴いて、生きてる、って私は思った。ドリちゃんは生きてるって、その時思った。

お母さんも私も、上条さんも、誰も涙を拭かずに、笑いながらドリちゃんを見守り続けた。何度も息を吹きかけるけれど、まったく火は消えない。
ドリちゃんに内緒で、消してあげようと思って私は唇をすぼめた。すると、お母さんも、上条さんも泣き笑いのまま唇をすぼめていた。

その時、ドリちゃんの吸う息が止まった。みんなではっとして、ドリちゃんに注目した。

ぷちんっ

ドリちゃんは、ちいさなくしゃみをした。

そのくしゃみで、火は消えた。


私達はお互いの顔を見合わせて、お互いの顔も可笑しくて、くしゃみが可愛くて、嬉しくて、笑いながら、おめでとうって大声で叫んだ。
お母さんは立ち上がり、カーテンを開ける。部屋が明るくなった。

「ドリちゃん!チョコの上にね!バースデーメッセージね!書いてもらったの!見える?」
私が言うと、上条さんがドリちゃんをプレートに近寄せる。
プレートには、こう書いてもらった。



ハチちゃん ドリちゃん
お誕生日おめでとう
生まれてきてくれてありがとう 



ドリちゃんは体をのけぞらせるようにして、目をぱちぱちさせた。
ハチ、読めたか?上条さんが訊くと、ドリちゃんは、ぱちり、ぱちり、2回まぶたを閉じた。見えたけど、読めなかったらしい。

上条さんが大声で、声をつまらせ、読み上げた。聴こえたか?と言うと、
ドリちゃんはとってもゆっくり、ぱちり、とした。


私はティースプーンにケーキをほんの少しだけ載せて、ドリちゃんの口元に運ぶ。
小さな口を開け、お米よりも小さなケーキをドリちゃんは口に入れる。みんなで見守っていると、どりちゃんはぷるぷると震えて目をぱちぱちさせた。
ケーキを食べたということだけでも、ドリちゃんにとってはすごい感動なんだ。

私も上条さんも、お母さんも、ケーキを食べた。いつもより何百倍も美味しく感じて、お母さんたちも、大きな声で感想を言い合った。






しばらくすると、上条さんが時計の数値を見て呟いた。
「菜花ちゃん、脈拍が、もう、半分以下になってる。もう、意識がなくなると思う。」

「ドリちゃん!今日はサプライズプレゼントがあるよ!ドリちゃん、ちょっと手を出してみて!肉球の匂い嗅いだりしないよ!手を出してみて、ほら、ふわふわでしょ!温かいでしょ!さて!何でしょ!
実は、モンさんのオムレツ焼いてもらったフランスで修行したプロのひとのなの!プロの人に焼いてもらったから本場のモンさんのやつよりもおいしいの!だから、ドリちゃん食べよう!一緒に食べよう!サプライズプレゼント!!」

ドリちゃんは、触手のような前足で、震えながらオムレツの表面を触った。ドリちゃんが触れるたびに、ふるふるとオムレツは震える。

私はまた、ティースプーンにオムレツを少しだけ掬い、よくふうふうして、ドリちゃんの口に含ませた。
ぴちゃぴちゃぴちゃと音をさせ、ドリちゃんはオムレツを口の中で舐める。
音が止むと、ドリちゃんが、ため息をついたような気がした。
ドリちゃんは、ホッとしたように、肩を落とした。

「どう?ドリちゃん!おいしい???」
ドリちゃんは、ゆっくりと、ぱちり、とした。

すると、ドリちゃんの触手がテーブルの上のスプーンに伸びる。
ドリちゃんがなにかしようとしてる。
お母さんがタオルを一枚テーブルに敷く。その上に上条さんは、ドリちゃんを乗せた。
ドリちゃんが、スプーンを触手で掴む。持ち上げようとするけれど、重くて持ち上がらない。

スプーンがテーブルに触れ、

かつんかつ こつんかつ

と、音を立てた。私は、ドリちゃんが自分の力で食べたいのだと、それでスプーンを持ち上げようとしているのだと思った。だから、ドリちゃん私が支えようか、と話しかけた。
すると上条さんが私を遮って、慌ててドリちゃんに訊いた。

「モールス…?ハチ!モールスだな?モールス信号で俺たちに伝えたいことがあるんだな?!」
ドリちゃんは、ぱちりとまぶたを閉じた。




こつん こつん こつ こつん こつん

こつん こつん こつ

こつ こつん こつ こつ  こつ こつ

こつ こつ こつん こつ こつ

こつ こつ こつん



上条さんは黙って音を聴く。私とお母さんは、わからないから、黙って見守る。











「ハチが、ありがとう、って言ってる。」

上条さんが私達に言う。
お母さんがハンカチで顔を覆うのが見えた。私はドリちゃんを見続けた。ドリちゃんが伝えたいこと全部、受け取りたいって思った。


スプーンのモールスは続いた。
上条さんは、音を聴きながら、ドリちゃんが出す音を、ひと文字ずつ、言葉に訳してくれた。



















































































ドリちゃんはスプーンを離し、
しっぽを、3回振った。








そして、動かなくなった。








上条さんが、ドリちゃんを撫で、ドリちゃんの耳元で、小さく、ありがとう、ハチ。と言った。

私は、ドリちゃんを抱きしめた。

温かかった。



4人の部屋を優しく風は通り抜ける。



























































いいなと思ったら応援しよう!

拝啓 あんこぼーろ
もしサポートして頂けた暁には、 幸せな酒を買ってあなたの幸せを願って幸せに酒を飲みます。