No.975 体験過程理論における基礎概念を私なりに理解してみる③本来性(Authenticity)前編
私は2024年12月にラオス🇱🇦へ1人旅をした。
写真は首都ビエンチャイにある寺院ワット•シームアン(Wat Simuang)。
この寺院が建立された際、シーという名の妊婦が人身御供として自ら支柱の穴に飛び込み、それ以来守り神になったという伝説の女性「シー」が眠るビエンチャンきっての名刹だ。
圧倒的に女性の参拝者が多く、特に本堂では、結婚、出産、入学、死別など人生の節目に行われるラオスの伝統儀式バーシーを受ける女性で賑わっていた。
さて、今日も体験過程理論、および体験過程療法について書いてみたい。
この理論は哲学者 ユージン.T.ジェンドリン博士(1926-2017)によって創られ、この理論が現在のフォーカシング指向心理療法の源泉となっている。
少し時間が空いてしまったが、今日も著書 「セラピープロセスの小さな一歩」(以下「本著」という)を参照しながら、体験過程理論における3つ目の基礎概念である「本来性(Authenticity)」について私なりの理解を書いてみたい。
本来性(Authenticity)
本著によれば、本来性(Authenticity)について、次のように書かれている。
「本来性(Authenticity)は、現在において推進(carrying forward)された過程である。これまで提示された基礎概念はこころとカラダの統一(unity)および人と環境(世界または状況)の統一を暗示している。
第3の統一体は過去、現在と未来の統一である。
人はカラダの気持ち(body feeling )の中に、他者との状況の中に、そして過去と未来の中に実存している。人はその人の過去とその人によって投げかけられた未来(projected future)とともに現在を体験する。
人はこれから何かを引き起こそうとして(まだ起こっていないこと、これが未来である)、現在の出来事を妨害的に感じたり、欲求不満に感じ、今怒りを感じたりするのだ。
未来において恐れられる何らかの出来事によって、今怖いと感じるのである。
未来は現在の在り方を導くが、未来に向けての投げかけや現在は、過去であるカラダ、あるいは過去を持っているカラダによって生きられ、そのようなカラダとともに生きられるのである。」と。
本来性とは、「本当の私、真の私、本来的な私、純粋な私」と言った意味が適当であり、体験過程が推進することで本来的な私が現れてくる。
第3の基礎概念における統一は、その人の過去と現在と未来との統一であるが、人は過去や現在の私の体験から映し出された、まだ体験していない未来に対し、何らかの出来事を想起し、今のカラダの感覚を実感する。
故に、「未来に向けての投げかけや現在は、過去であるカラダ、あるいは過去を持っているカラダによって生きられ、そのようなカラダとともに生きられる」こととなる。
それは未来への不安であるかもしれない、恐れであるかもしれない。
しかし、どのような種類の感覚であったとしても、私たちのカラダにそのような実感が感じられるのは紛れもない事実である。
その感覚を無きものにしようとしても、それは体験されている過去を持っているカラダとして実感されているのだ。
故に、私たちは今感じられている感覚に注意を向け、その感覚を大切な存在として理解する必要がある。
私はラオスへの初めての旅で、不安や寂しさ、暖かさや楽しさ、ワクワク感など様々な感覚を感じた。
その一つ一つがその時における私の実感であり、それらに注意を向けることで実存する私を感じられた。
そして、その感覚はその時々で私が次に何をすべきかを教えてくれた。
また、過去と未来の統一について次のように書かれている。
「過去と未来がさらに定義されなければならない。体験している人にとって、選択された未来なら何でもが可能な現在(possible present)を生み出すのではない。選択が本来的でなくてはならない。どんな変化でもいいわけではない。本来的な変化の過程が定義されなければならないのだ。
変化には異なった種類がいくつかある。ある出来事の中に別のものが割り込んでくるような突然の変化がある。同じままである(sameness)ということもあるが、これは静的に見えたとしても、ここでも生きる過程は進行しており、カラダの変化が関与している。その中心に推進(carrying forward)と呼ばれる最も重要な変化の種類があり、これは突然の変化のようではなく、同じであり続けるようなものでもない。
例えば、空腹感と食べることとの間にも変化はあるが、例えば、空腹感から毒されることへの変化、空腹感から痛みに移行すること、空腹感から逃げること、不安になること、性交をすること、といった変化なら何でも良いわけではない。従って、確かに変化ではあっても、食べることと空腹の間にはとても特定の関係がある。
カラダの生きる過程(bodily living)はどの瞬間においても、さらに進んだ生きる過程に傾いており、それを「暗に示している(implies)」が、それはどのようなものでもいいわけでなく、一見異なったように見える特定の一歩だけが必要なのである。
このような一歩にはカラダで感じられた継続性(bodily felt continuity)がある。空腹感に続くのは食べること、息を止めることに続くのは息を吐くこと、などといったことがわかるのに生物学者はいらない。カラダのプロセスにおけるこの変化-内-継続の特徴(continuity-in-change characteristics)を突然の変化や変化がないこと区別するために、それを推進(carrying forward)と呼ぶ。」と。
私たちは過去を持ったカラダとして、現在を生きているのだ。そのカラダは私たちの未来をも含みながら現在を体験しているのである。
そうした意味からすれば、私たちのカラダに何か突然、本来的ではない体験が現れてくることはない。
もし、現れるとしたなら、それは本来的でないことになる。
例えば、何か物悲しい感覚を実感している体験において、突然と笑いだしたりすることはないだろう。
これは過去を持った私たちのカラダからの継続的な感覚とは程遠く、未来への小さな一歩の推進は起こらない。それには本来性のかけらを含んでいないのである。
その物悲しさだけが本来性を持っており、そこから感じられる継続的なかけらの一部を探さなければならない。
本著の例で言えば、
私たちは空腹ならば、そこに継続するのは食べることであり、息を止めることに継続するのは、息を吐くことである。突然走り出すことはあり得ないのだ。
この継続性のある実感を推進(Carrying forward)と呼ぶ。そして、継続性のない、突然の変化は本来的な変化の過程ではないのだ。