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エッセイ:愛とは「許すこと」なのか

「愛とは、許すことなんだな」と言う言葉を、ある人との会話の中で耳にした。そこには寛容さや大らかさを感じさせる一方、「諦める」「見過ごす」「目を瞑る」という少し暗い響きも感じられてしまう。それでも、愛はやはり「許すこと」を含んでいて欲しいなと僕は思う。相手の全部を知ろうとするだけが愛じゃない。知らないことを許す、理解できないことを許す、遠く離れることを許す――その人が死ぬまでに見せてくれるものを見られたらそれでいい、そう思える二人は、きっとあたたかで、愛情深い関係なんだと思う。

近しい相手ほど「許せない」と感じてしまうことがある。今ふり返ってみると、それは「相手にこうあってほしい」という自分の願望や期待を押し付けていたからなのだと気づく。自分が見たい姿を相手に求め、見えない部分は都合よく補完し、不都合があると裏切られたように感じた。愛情深いどころか、どれだけ傲慢で、身勝手だったんだろう。

もっと正直に言うと、「許せない自分自身」にすら腹を立てていた。たとえば、恋人が自分との時間や距離を越えて、誰かに、何かに興味を持つ。自分との関係よりそれらを優先することを当時は許せなかったし、同時に「許せない自分」が情けなかった。ふたりの間に生まれた溝を覗き込むと、そこにはまるで鏡のように「自分の醜さ」が映っている気がした。「自分の醜さ」を隠すために「許せなさ」にすり替え、大切な人を責め立てていた。

これは恋人同士だけでなく、夫婦や友人、親子の間でも、きっと同じことが言えると思う。  愛する人とのあいだに生まれる許せなさ。それを「愛する能力の至らなさ」と言ってしまうのは、もしかすると酷かもしれない。  

それでも大切な人を許せるようになったとき、自分が生きている環境や世界は少しだけ、優しく見えるようになるんだと思う。許すことでしか、愛せない場所があるんだと思う。とてもとても難しいけれど、そこへ近づいていきたい。

そしてその過程で、少しずつ、ひとは自分自身をも好きになることができるのだと、僕は思う。

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Payao/詩人
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