エッセイ:人が海を眺める理由
なぜ人は海を眺めるのだろう。
今の家は海まで歩いて10分ほどで、週に2-3回は海辺を散歩することにしている。黙って海を見つめていると、頭の中に渦巻いていた思考が、まるで波に攫われるように消えていく気がする。悲しみは悲しみのまま、寂しさは寂しさのまま、嬉しさは嬉しさのまま――波がそっと攫ってくれる。なぜだろう、少し心が軽くなる。大きな手で頭を優しく撫でられているかのように、人が海を求めるのは、その包容力に惹かれるからかもしれない。
海の前では、過去をよく振り返る。「あの場所は正確にどこだったか」「あの人はあの時どんな顔をしていたか」なんて細かい部分が思い出せないことに気づく。声のトーンや肌の感触、匂いまでもはっきりとは蘇らない。思い出はいつも上書きされ、点描画のように断片的になっていく。脳とは、そういうものらしい。いつか愛した人であっても、思い出の中の彼ら彼女らは、輪郭のない幻のようにボンヤリとしてしまうのだと知ったとき、とても寂しい。でもどこかで「それも仕方ない」と無抵抗な自分も居るのにも気づく。人は通り過ぎていったものをこうして一つひとつ手放していくのだろうか。そうすれば悲しみも、どんな切ない別れも「これが運命だ」と受け止められるのだろうか。
ふいに、また海が見たいと思った。
きっとこれが罰なんだろう。
海の上を渡る風にはなれなくて、
ずっとここで、
海を眺めることしかできないなんて。
きみに、もう一度だけ会いたかった。
寄せては返す波音を聞きながら、「これ以上失いたくない気持ち」と「それでも消えていく記憶」のはざまで揺れ動く心を、波に重ねる。
なぜ人は海を眺めるのだろう。
理由なんてないのかもしれない。ただ、美しいから――それだけかもしれない。そんな「理由がない」ときだけ、人は本当のことを言えるのだと思う。透明な水がこんなにも青く見える不思議、この星のほとんどが水でできている不思議、誰も見たことのない深い場所がまだたくさんある不思議。こんなに何も知らないのに、きみにちゃんと出逢えたことも不思議だった。どこへ行くのかわからない船が遠くを横切る。海に落とした足を揺らしながら「ここじゃないどこかで生きたい」と呟く。きみはもう、何も答えてくれない。
人が海を眺める理由、愛されなかった理由、
届かなかった理由、追いかけなかった理由、
この世界に生まれた理由。
本当は、きみがなんて言うのか、
その言葉を聞きたいだけだった。
きみの、そして誰かの記憶の中で、
ぼくもまた消えていくのだろう。
そんなことを考えながら、
今日も海を見つめている。