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筑波に生まれたロマンティックなお姫様


さあさあ、お立ちあい、御用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。遠出山越とおでやまごえ笠の内、聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白あいろがトント分からない。

筑波大道芸 ガマの油売り口上 第一段 呼び込み

今から4000年前、筑波の伊佐宮で新婚生活を送っていたイザナギとイザナミは、そこで女の子を授かりました。
二人にとって初めての子供は、昼に生まれたのでヒルコと名付けられました。
しかしながらこの時イザナギ40歳、イザナミ31歳。2年後には大厄の歳を迎えます。二神は親の災厄が娘に及ばないよう、生まれた子供をイワクス船に乗せ、流します。これは現代の「流し雛」の原型となった儀式です。

親元を離れたヒルコ

まだ3歳にも満たなかったヒルコは流された先でカナサキ(住吉神)に拾われ、まるで我が子同然のように育てられます。
兵庫県西宮市にある西宮神社で拾われ、廣田神社で育てられました。
ようするに筑波から船で流されたヒルコは兵庫の西宮の海岸に流れ着いたのです。彼の地はヒルコを拾った場所だから廣田(ひろた)と呼ばれるようになりました。

カナサキ(住吉神)は廣田の地でヒルコにさまざまな教養をほどこしました。彼女の両親であるイザナギ・イザナミが作った「あわのうた」もそのひとつです。二神は人々の言葉の乱れが心の乱れにつながると考え、それを正すために「あ」で始まり「わ」で終わる48音からなる「あわうた」を世に広めたのです。
カナサキから正しい言葉を学んだヒルコはのちにこの島の文化である和歌を確立させます。
ゆえにヒルコは別名でワカ姫と呼ばれます。

筑波で生まれたワカ姫はこの島の歴史に多大な影響を及ぼしました。しかしながら古事記や日本書紀など日本の正史と呼ばれる書物はこの女神の存在を隠します。
理由はおそらく、彼女が縄文の女神だったからでしょう。
僕がこの島の古代史を、東国の古代史を調べる理由は縄文の世界をもう一度思い出すためです。
争いを好まなかった縄文の世界。10000年も平和が続いた特殊な時代はおそらく、さまざまな女神が活躍していたのだと思います。
そんなわけで遺伝子に受け継がれた古代の記憶が、正史に隠された女神の存在を求めるのです。

今回の記事と前回の記事はこの島に残された古史古伝のひとつである
ホツマツタヱ」をベースに考察しています。
「縄文の叙事詩」と呼ばれた文献にこの島の真実の断片を探し求め、僕は日がな一日パソコンの前でキーボードを叩くのです。

男神として登場するアマテラス

ホツマツタエではイザナギ・イザナミの第一子としてまずワカ姫(ヒルコ)が生まれます。次に二神はヒヨルコという子を授かりますが、未熟児で死産だったため葦船に乗せて流します。3番目にアマテルという男の子が生まれます。つまり記紀で描かれるアマテラスが男神として登場します。そしてツキヨミ、ソサノオという男の子たちを順に産んでいきます。

ワカ姫(ヒルコ)はアマテル(アマテラス)の姉として生まれますが、両親は自分たちの災厄が娘に及ばぬように一度手放し、養育をカナサキに任せます。すなわち両親はワカ姫を捨てたのではなく、一時的に里子に出したのです。
カナサキ夫妻に大切に育てられたワカ姫は成長して再び実の両親の元に戻り、皇族に復帰します。この時にアマテル(アマテラス)の妹として戻るのです。なのでワカ姫はアマテル(アマテラス)の姉であり、妹なのです。

ワカ姫の持つさまざまな尊称

ホツマツタエでワカ姫はさまざまな尊称で呼ばれます。
ヒルコ、ワカ姫、稚日女(ワカヒルメ)、下照姫、高照姫、歳徳神、御歳神、丹生の尊。
これだけの名を持つ神様ですから、縄文の時代に活躍し、多大な功績を残した女神なのでしょう。ホツマツタエにもさまざまな逸話が残っています。
僕が好きなエピソードはのちに夫となるオモイカネとの馴れ初めの話です。

下照姫神と思金大神様のなれそめ

ある日、アマテラスの使者アチヒコ(阿智彦・思金大神になられる前の名)が玉津宮にやってきました。アチヒコを見たワカ姫(和歌姫・下照姫神になられる前の名)は、一目でアチヒコを好きになってしまいます。アチヒコに恋い焦がれたワカ姫は、思い兼ね思い悩み、矢も盾もたまらず、その思いを歌にしたためて知恵を絞った和歌のラブレターをアチヒコに贈りました。

きしいこそ つまをみきわに ことのねの とこにわきみを まつぞこいしき

当時、結婚は仲人をたててするものでした。聡明で美しいワカ姫から仲人もとおさずに想いを伝えられ、アチヒコは驚き、どう返事をしたらよいのかと思い悩みます。返す言葉も見つからず、この歌身を持ち帰り、朝廷の神々に相談しました。 カナサキはこの歌を見て、「これは返す事のできない回り歌というものです。決して断ることはできません。ワカ姫の歌の雅も返してはいけません」といい、舟歌を詠みました。

長き夜の 遠の眠りの 皆目覚め 波乗り船の 音の良きかな

この歌も、上から詠んでも下から詠んでも同じという回り歌でした。
風は止み、船は無事に阿波につきました。天照大神の勅り(みことのり)を賜り、カナサキが仲人となって、二人は結ばることになりました。

アチヒコはその後、思金命(オモイカネノミコト)と名乗り、安河(滋賀県野須洲町)に宮を設けて末永く仲睦まじく暮らしました。この時、ワカ姫は下照姫(シタテルヒメ)という新しい名をもらいました。下照姫という名には、天照大神の下で世を照らす、という意味もあるのでしょう。
思金神社 四代目宮司・瀧森 好

神奈川県横浜市 思金神社 ホームページ 「由緒とご祭神」より引用

いかがでしょう。ワカ姫とはとても知的で聡明な女性だったようですね。
下照姫を名乗っていたころはオモイカネと一緒にオシホミミに帝王学を教えていました。いわゆる日嗣の御子を守り育てていたのです。
下照とはまさに「仕立てる」ですね。
また「稚日女・ワカヒルメ」という名も持っており、これは丹生都比売大神の別名です。丹生都比売神社のある和歌山という地名もワカ姫が由来という説が残っています。県名に「和歌」という字が使われていますしね。同様に和歌山の玉津島神社もワカ姫ゆかりの神社として名高いです。

余談になりますが和歌山といえば全国でも有数のみかんの産地です。そして意外なことに日本列島におけるみかん栽培の北限が茨城県なのです。しかも筑波山の近辺で栽培されているのです。
筑波でとれるみかんを「福来みかん」と言いますが、この種は数多ある柑橘類の中でも唯一、日本原産ミカン科の植物「橘」の一種だと考えられているようです。
筑波では古代から自生していました。
であるならもし古代、この橘の木を和歌山に植樹したのがワカ姫だとしたら。
なんだかロマンが広がりますね。

御年神という稲の神

このようにたくさんの尊称を持つワカ姫ですが、なかでも僕が注目したのは御歳神という神名です。

御歳神とは、この島に数多く存在する稲や穀物神の一柱です。
じつは「歳」や「年」という字は本来、稲や穀物の意味を持っています。
なぜなら古代の時間感覚というものが植物の成長によって定められていたからです。米をはじめとする穀物の収穫サイクルを「歳」と呼んでいました。
稲は1回の実りに1年かかりますね。だから御歳神とは稲の神様のことを指すのです。

古事記ではスサノオと神大市比売の系譜として描かれる御歳神ですが、ホツマツタエでは違います。イナザギ・イザナミの第一子、ワカ姫が神上がってから(崩御されてから)称されるようになった神名として歳徳神やこの御歳神が登場します。

「ワカ姫=御年神」を象徴するようにホツマツタエでは「イナムシ払い」という話が語られます。

アマテルの時代、現在の和歌山あたりでイナゴが大発生して民が苦しんでいるとの報告が朝廷に届きました。
しかしアマテルは行幸中で不在だったので、アマテルの妃セオリツヒメと姉のワカ姫が駆け付けます。
ワカヒメはイナゴが蝕んでいる田の東側に立ち、押草を貼り付けた扇であおぎながら歌を詠みました。
タネハタネ ウムスキサカメ マメスメラノ ソロハモハメソ ムシモミナシム
すると、稲を蝕んでいた虫たちは祓われるように去っていきました。
それを見たセオリツヒメは30人の侍女とともにその歌を360回くり返して
詠みました。あたり一面を埋め尽くしていたイナゴの大群は、いっせいに西へ去っていきました。やがて稲穂は生気を取り戻しその年の稲は大収穫となりました。

歌で虫を払うというなんとも不思議な話です。ワカ姫の和歌は人だけでなく虫にも響いたのです。なにか霊力のようなものが歌や声を通して伝わったのでしょう。
とにかく、まさに言霊の力を体現している女神ですね。現代においてもこの扇を使った虫払いの儀式は祭りとして現地に残っています。

この「イナムシ払い」の功績が示すように、ワカ姫は稲や作物を守る女神としても活躍したと思われます。その縁で彼女は崩御後に御年神や歳徳神の諡(おくりな)を奉りました。

縄文時代から栽培されていた稲

一昔前までは稲作が伝わったのは弥生時代からというのが通説でしたが、縄文時代から稲作は行われていました。

四国新聞社 Shikoku Newsより引用

僕が考えるに弥生時代から始まったのは水田稲作農耕だと思います。以前から行われていた稲作に合理性と効率化がもたらされ、食糧生産経済の時代が幕を開けたのです。ここが縄文と弥生を分けるのだと思います。そうして稲作が経済化されたことにより、生産性の高い土地を巡って争いが起きるようになりました。
現代でも日々繰り広げられている、熾烈な経済戦争です。
やがて勝者と敗者の間に貧富の差が生まれるようになりました。あの大規模な墳墓を造営した古墳時代の豪族とは、こうした争いの勝者側の人々でしょう。

この島の神話ではさまざまな穀物神が登場します。オオゲツヒメにトヨウケヒメ、ウケモチにウカノミタマ。たくさんいますね。共通するのはみな女神と考えられているところでしょうか?
人は食べなければ生きていけません。つまり食物を司る神というのはあらゆる民族、あらゆる人種から崇敬を集める対象です。であればその存在をめぐって歴史上、幾度も信仰の上書きがなされたことでしょう。
とくにこの島の、稲の神様となればなおさらです。
帰化氏族である秦氏が広めた稲荷神のはるか前に、この島土着の稲の神様が数多くいたはずです。そのなかでもこの御歳神という存在は、だいぶ古い稲の神なのではないかと僕は考えています。

御年神を祀る代表的な神社といえば奈良の式内名神大社「葛城御年神社」があります。この神社は相殿に高照姫を祀っています。境内摂社にはワカヒルメもいます。

そして葛城といえば土蜘蛛の聖地です。同じようにワカ姫が生まれた茨城も土蜘蛛の聖地なんです。常陸国風土記には国栖(くず)と都知久母(つちぐも)とは同じ意味であるということが記されてますが、僕はこの国栖(くず)とは葛(くず)のことではないかと考えています。
たぶん葛城と常陸には古来、同じ民族が住んでいたように思うのです。
つまり奈良の葛城という地域は筑波から西に向かった人々が住んだ土地なのではないかということです。
ではなぜ筑波の人々は葛城を居住地に選んだのか?
筑波山は男體山と女體山、二つの峰からなっていますが、じつはこれと似た山が葛城にもあるのです。
二上山(にじょうざん)と言います。

二上山 
wikipediaより引用
筑波山 
株式会社ラール・アワーホームページより引用

なんとなく形が似てませんか?僕は似てると思います。
筑波から西に移住した人々は、故郷と同じ景観をそこで目にしたから葛城に居住することを決めたのではないでしょうか?
そんな葛城という土蜘蛛の聖地にある、御年神という稲の神を祀る神社。
ここで前述したワカ姫と御年神を結びつける象徴的なエピソードを思い出してください。彼女が「イナムシ払い」に駆けつけたのは和歌山です。
和歌山とは葛城のすぐ下ですね。

葛城御年神社とワカ姫。繋がる気がするのは僕だけでしょうか?

一般的にホツマツタエは偽書だとされています。しかし僕は筑波とワカ姫を記した伝承がとても嘘だとは思えないのです。
ワカ姫は筑波の地で生まれました。和歌の神であり、水銀朱の神であり、言霊の霊力を体現する女神でした。崩御後は御年神や歳徳神といった稲の神、正月の神の諡もたまわります。
僕はこの女神を縄文のシャーマンだと考えています。呪術力を持つ、巫女的な存在。わかりやすくいえば、卑弥呼のような姿を彼女に重ねてしまうのです。
そして太古の昔、この島の源流となる縄文の思想を構築したのは、彼女のような女神たちだったのだと思います。

「文明」と「文化」

「文明」と「文化」という言葉があります。
似ているようですが、大きな違いがあると思います。
文明とはある時代を限定とした、一過性のものに過ぎません。
隆盛を極めますが、いずれ滅びます。
エジプト文明、メソポタミア文明。みな滅びていきました。
それに対し文化とは各時代にわたって広範囲に影響します。
なぜなら文化とは精神活動に根差したものであり、人が集団的に伝承してきたさまざまな生活様式だからです。長い時を経ても変わらない、普遍性を持っています。
言い換えれば、
「文明=物質的」 「文化=精神的」
と言えそうです。物はいずれ朽ちていきますが、集団における精神性は子孫代々に渡って受け継がれていきます。

2021年、先史時代にケニア沿岸部の洞窟で、3歳に満たない幼児が埋葬されていたとする論文が発表されました。78000年前の遺体だそうです。
現代に生きる僕たちも人が亡くなれば弔いの感情が自然と湧いてくるものです。
これがまさしく文化と言える行為です。

僕は「文明」よりも「文化」が好きです。
より厳密に言えば、「この島の文化」が好きなのです。
なぜならこの島の文化はこの世のあらゆる対象、万物に対する「愛」をベースにしている気がするからです。
他者を思いやる気持ち、物を大切にする心、自然を慈しむ感性、おもてなしの精神。根底にあるのはすべて「愛」なのではないでしょうか?そしてそれは男性的なものではなく、女性的な愛だったように思います。

現在日本と呼ばれるこの島で、「文明」を構築したのは「男」かもしれませんが、
今日まで継承されてきた「文化」を生み出したのは「女」なのかもしれません。

歴代の古代女性祭祀王たちの価値観が日本文化の根底に流れている。男神ではなく、女神です。生命を産み、育むことのできる存在が表現する「愛のかたち」がこの島の文化を形成している。

太古の昔から極東のこの島国は、世界中のあらゆる民族とその文化を受け入れてきました。
太陽を目指し故郷を後にした者達は遠路はるばるこの地に集い、共存を図りました。中東から来る者、インドから来る者、中国や朝鮮半島から渡ってくる者。アフリカや地中海から船に乗ってやって来る者もいたでしょう。彼らは地母神の恵み溢れるこの土地で共同体を形成していきました。

いっぽう大陸の歴史は争いの歴史でした。さまざまな文明が起こっては、消えていきます。王国の栄枯盛衰が幾度となく繰り返されました。
大陸における地続きという国同士隣り合わせの環境が、過剰な防衛本能を人に促したのかもしれません。
しかしこの島は違ったのです。弥生以前のこの島は、長い長い平和な時代が10000年も続いていました。戦火の絶えない大陸を命からがら抜け出し、極東の日出る島にたどり着いた人々は、お互いに争わず、融和を目指したのです。
ではなぜ世界中でこの島だけ、平和が保たれていたのか?
それはこの島の文化が、母親の持つ包容力に溢れていたからではないでしょうか?

心理学者の河合隼雄は母性の定義を「善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向のこと」と説明しています。父親は善と悪を区別し子を指導しますが、母親は子のすべてを受け入れます。つまり母性とは受容という愛に満ちているのです。

縄文の頃からこの島で、人の人生観や価値観を定義付けてきた思想に精霊信仰、いわゆるアニミズムと呼ばれる理念があります。この島の人々は古代より、あらゆる自然を崇拝し、万物に神を見出し敬っていきました。その思想がのちの時代に発展し、神道になっていきます。
神道には善悪の区別がありません。あらゆる神を受け入れます。たとえ異民族が持ち込む神が自分たちの祀る神とは異なっても、それを受け入れる共存共栄の心、共生感があったのです。

僕は神道の根幹をなす価値基準とは母性的であると思います。
善悪を定義付け、特定の対象に神を絞っていく父性的な一神教とは全く逆の、母性的な多神教の理念によって神道は形成されているのでしょう。
多神教とはその名の通り、さまざまな神を認めます。
つまり全ての存在がみな平等に神なのです。
同様に母性も子供に優劣をつけません。母親にとって全ての子供はみな平等に愛すべき存在なのです。
多神教と母性。ともに共通する価値観が根底に流れていると思いませんか?
アニミズムから神道へ受け継がれたこの島の思想、その中で培われてきた文化。
これらはまさしく母性的であり、そうした発想はやはりこの島の女神たちから生まれたものだと思います。

長年古代史を調べてきましたが、最近ようやくわかったことがあります。
それは「この島は女神の島」だということです。

女神の愛がこの島の文化を育て、思想を創った。僕はそう思います。
そして人々は縄文の時代からその文化や思想を大事にしてきた。
きっとワカ姫もこの島の価値観の源流となる「女神の愛」に溢れた存在だったことでしょう。歴代の女性祭祀王たちが表現した「愛のかたち」を継承し、後世に残した女神だったに違いない。

筑波の人々が信仰した山の女神

筑波の講で使われた掛け軸 1763以降の作

この画像は筑波の講で使用されていた掛け軸です。講とは地域の氏神、産土、民俗宗教を学ぶ会合のような催しです。
掛け軸には筑波山に祀られている神々が記載されています。男體山はイザナギ、女體山はイザナギ。その子供たちであるアマテルやツキヨミは稲村神社や安座常社など筑波山神社の摂社として祀られています。しかしその中で一人だけ、長女のワカヒルメ(ワカ姫)だけが「女體峰に立つ」と母親と同格で女體山に祀られているのです。地元の人がそう認識しているように、筑波山という霊山は本来ワカ姫の山なのでしょう。

古代の筑波山では嬥歌かがいと呼ばれる歌垣が行われていました。嬥歌かがいとは、特定の日時と場所に老若男女が集まり、飲み食いしながら歌を掛け合う行事です。互いに求愛歌を掛け合いながら、意気投合すれば恋愛関係が成立するという、なんともロマンティックな祭りです。

筑波山は、古代から大規模な歌垣が行われている場所として万葉集にも記されています。急峻な男體山ではなく、女體山の泉が流れる場所で行われていたようです。
毎年毎年、春と秋の農閑期に、遠く離れた箱根からも人が集ったといいます。
嬥歌かがいの際は老若男女が身分を問わず、それぞれ思い思いの恋歌を歌いながら求愛行為に勤しみます。結婚相手も自由に選べなかった時代において、まさに治外封建的な、自由恋愛の場でした。しかもたとえそれが人妻への恋だとしても山の神は禁止しないとされていました。

僕はこのおおらかな祭りに縄文の息吹を感じるのです。身分制度や結婚制度の縛りを超え、感情の赴くまま自分の想いを歌にする。そんな人間の本能に根差した嬥歌の趣旨に、律令以前、古代の魂を感じるのです。

ワカ姫とオモイカネの馴れ初めのエピソードを思い出してください。彼女は本来仲人を立てるべきところを立てずに、直接自分の想いを歌にしてオモイカネに届けました。当時の結婚制度を無視して、自分の感情を直接相手に伝えたのです。
まさに嬥歌の原点となるようなエピソードではないでしょうか。

彼女が祀られる筑波山で嬥歌かがいが開催されていたということが、僕はとても腑に落ちるのです。
和歌を確立した神は縄文のシャーマン的資質を持つ女神でした。彼女は自分の感情を大切にし、想いを情緒的に表現する特殊な術を持っていました。そんな彼女の霊力を人々は篤く信仰し、筑波山の神として崇めました。だからこそ、のちの時代の律令化された社会においてもなお、嬥歌という治外法権的行為が筑波山では許されたのではないでしょうか。
人が人を縛らなかった古の時代を、人間本来の姿を思い出そうとワカ姫の元に、各地から人々が集い、互いに恋歌を奏で合ったのです。

「祀り」と「祭り」

そもそも祭りの起源とは縄文時代にあると言われています。
縄文前期の人々は自然災害や病気、悪霊などを避けるため集団で神や精霊を祀る儀礼を行いました。自分たちを生かしてくれる神への感謝を行動で示したのです。これが「祀り」というものの始まりです。
まだ土器が発明される前の時代です。当時はそれでも飢えの恐怖に日々悩まされていました。そうしたストレスを解放するため人々は「祀り」の際に歩行から派生した踊りを踊るようになりました。これが今日まで続く「祭り」の原型です。
踊りによってトランス状態になった男女は精神的開放のために身体を重ね合いました。
「祀り」も「祭り」もおそらく当初は単一のムラ内部で執り行われた数十人規模程度の催しだったでしょう。

やがて縄文時代中期になると温暖化が進み、食料確保も容易になり人口が増加していきます。単一のムラだった小集団の規模はどんどん拡大していきます。生活に余裕ができた人々は、近隣のムラと交流を図っていきます。
その際にも「祭り」が執り行われました。ここで一族を超えた男女の交わりが起きます。つまり別集団との血を介した繋がりが生まれたのです。
当初は単一集団内での子孫繁栄と精神的解放が目的だった性の営みが、別々の民族を結合させる儀式へとその性質を変えたのです。
異民族たちは同じ場所に集い、ともに踊り、ともに歌い、お互いに身体を重ね合いました。そうして連合体が生まれていきます。
そのうちこの島の各地域は横のつながりを持つようになり、活発な交流がなされるようになりました。
縄文時代、東日本に広がった交易ルート、同じ信仰形態。そのネットワークはこうした「祭り」によって形成されたと僕は考えています。

嬥歌かがいとはそうした古代の民族的な横の繋がりを築いた古の儀式を、のちの時代まで継承した催しだったのではないでしょうか?
遠く離れた地域と地域、時にははるばる海を越えてやってきた出自の異なる民族たちは、男女の愛によって結ばれていきました。
先に来た者、後に来た者。
太陽という同じ神を求めて人々は東に集いやがて結合し、この島に、あるいは海を越えた大陸に、巨大なネットワークが張り巡らされていったのです。
祭りにはこの島が誇る長い長い歴史が凝縮されている。別々の民族同士が血を交えた家族になるセレモニー。
人々は祭りによって結ばれ、コミニュティを拡大し、子孫を繁栄させていきました。僕たちが世界中の混血民族たる所以は、こうした儀式によってもたらされた結果です。
そんな原初の祭礼を後世まで残し続けた筑波山に、僕は遺伝子の記憶を見るのです。

筑波山の原住民

さて、僕は生まれが茨城です。ちょうど東国三社に囲まれた地域で育ちました。そして僕の祖父は、孫を連れて出かけるのが趣味でした。祖父に連れられて行ったさまざまな場所を、僕は今でもよく覚えています。
行き先といえばまあ、地元が地元なだけに鹿島・香取両神宮はしょっちゅうで、他にも成田山新勝寺、常陸国総社宮。思い出してみると、古代の史跡ばっかりです。
だから僕にとって、神社や仏閣は幼い頃からとても身近な存在でした。
それに加え今回長々と書いてきた筑波山も、祖父とよく行った場所のひとつです。

やがて大人になり僕はこの島の古代史に興味を持つようになりました。
たぶん古い土地が好きだった、祖父の影響もあるでしょう。
あるいは幼い頃に刷り込まれたこの島の記憶に触れる感覚と、それに対する興味が、大人になって再燃したのでしょう。

5年ほど前、僕は幼少期に祖父と登った筑波山に久しぶりに訪れました。じつに30年ぶりの登頂でした。

筑波山は低い山です。頂上まで歩いて2時間強の道のりです。
地図でルートを確認し、麓の景色に懐かしさを感じながら登り始めました。
遠い昔、祖父と手を繋いで登った山道。あの厚くて硬い大きな手の感触が今でも忘れられません。

ちょうど中腹まで登ってきた頃でしょうか。僕は体の異変に気づきました。
視界がぼやけ、眉間が熱くなるのを感じました。 
次の瞬間、突然瞳から涙が溢れてきたのです。  
堰を切ったとはまさにこのことで、それから頂上までの道中、なぜだか涙が止まりませんでした。
悲しいような、嬉しいような、これは楽しいのか辛いのか?
よくわからない感情で、ただただ僕は泣きながら必死に山を登っていました。
祖父を思い出していたわけではありません。もっと遠い過去のような、あるいは遠い未来のような、心の奥の奥の方で何かに対し反応している、そんな不思議な気持ちになりました。
いろんな感情が一挙に胸に押し寄せてくるなか、巨石が転がる山の斜面を、一心不乱に頂上を目指しました。
とにかく人生で初めての感覚でした。

それ以来、僕は毎年夏になると筑波山に登るようになりました。

祭りや花火、海水浴。蝉の鳴く季節の恒例行事。そこに付け足された筑波山登頂。
今年もつい先日、登ってきました。

毎年期待はしているものの、5年前の感覚はじつはあの時一度きりの体験で、それ以降、毎回僕は普通の登山を楽しんでいます。

9月に入ったとはいえ30°を超える気温のせいか、人もまばらな登山道。目に写る巨木と巨石に囲まれた風景に太古の記憶が想起され、懐かしいような、それでいてどこか落ち着く感覚。
でこぼこした山道は、日頃アスファルトになれた足首に負荷をかけ、勾配の変化に富む斜面が身体中のあらゆる筋肉を刺激する。
登山に行くと、都心部に住む人間が日常で身体の機能をいかに制御して生活しているか、その事実に気付きます。

やがて2時間強の山道を登り切り、今年もあの感覚はなかったなと、ちょっと寂しいような、名残惜しい気持ちで頂上付近を散策していると、山の原住民がひょっこりと僕を出迎えました。
彼は出船入船と呼ばれる奇岩の隙間からずっとこちらを見ていました。

遠い昔からこの山に住む原住民、ガマガエル。
僕は毎年山に来るたびに彼を見かけ、そのたびに登頂のご挨拶をするのです。

言い忘れましたが、筑波山はガマガエルで有名な山なのです。
江戸時代に「ガマの油売り」という大道芸がありました。ガマの油を薬として露店販売していたんです。その売り文句となる口上が、筑波山にあるガマ石という巨石の上で考案されたものなのです。
のちにこの「ガマの油売り」という大道芸は地域の伝統芸能となり、今日まで筑波で継承されています。

そんなガマの油の原産地ですから、ガマの山と呼ばるくらい、筑波山にはガマガエルがたくさんいます。
ガマガエルとはアズマヒキガエルの別名で東日本に広く分布しています。
比較的人間の身近に棲息する存在なので、筑波の住人にとっても昔から馴染み深い生き物でした。

ところでなぜガマガエルと言うのでしょう?
ガマガエルのガマという名前の由来は、「とおく隔たったところに逃しても、元の場所をしたって帰って来る」というところから蝦蟇がまとなったんだそうです。別名であるヒキガエルも「引き帰る」、なんだか「引き返す」に似てますね。
「カエルは帰る」と言うくらいですから、元来カエルという生物には帰巣本能があるのでしょう。
江戸時代の薬学者、貝原益軒も『大和本草』に、カエルの名は他の土地に移しても必ず元の所に帰るという性質に由来すると書いています。
とくにガマガエルは蝦蟇という名を持つくらいですから、カエルのなかでもとりわけその習性が強いのでしょう。

そういえば昨年、つくば市は人工増加率が全国トップになったと聞きました。
少子高齢化により過疎化が進む地方都市において、こうした人口の流入は全国でも異例のことではないでしょうか。

天地開闢。始まりの地と言われる筑波山。
イザナギとイザナミはこの山の麓から船を出し、西日本を開拓していきました。
二人の娘、ワカ姫もこの山の麓で生まれ、のちに西日本で活躍します。
そして神々の子孫たちはその後各地で繁栄し、この島の歴史を築いていきました。

長い長い歴史の中で遠くに散らばっていった子孫たち。
彼らが、始まりの地を慕ってまた戻って来たのでしょうか?
筑波山にたくさん生息する、あのガマガエルのように。
ワカ姫を祀る、あの女神の山に。

ほうぼうに出かけた子孫たちは時代を越えて、また山に戻って来ましたとさ。

めでたしめでたし

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