中間階級と再生産(ブルデュー『ディスタンクシオン』)

 ブルデューの『ディスタンクシオン』の中間階級の章を読みました。今の日本でも存在するような人のことが適確に記述されていて感動しました。わたしは言語化することが苦手で、映画などを見ても良かったなあとは思うけどどこが、とはすぐにはわからず、感想を調べて同じようなことを感じた人が書いたものを見てやっとわかります。言語化できると(社会問題など大きいことであっても)問題を明確にして解決に向かうことができる気がするので、やはり言葉を知りたいなと思います。

 ディスタンクシオンでは、支配階級と中間階級と庶民階級に分けて特徴が論じられています。これから書く「勾配と傾向」という章では、中間階級の特徴が端的にまとめられています。中間階級は、階級の上昇を目標にして生きていると言われています。今の日本では当てはまりませんが、子供の数は低収入で多く、中間的収入層に対応する部分で最低となり、高収入層で再び増えることが知られている、と書かれています。その理由は、中間階級が上昇したいという望みを子供にも託すからだと書かれています。

 子供にかかる相対的コストが、子供にたいして自分自身の現在の姿と異なる未来を見込むことができないためにきわめてわずかな教育投資しかしない低収入層の家庭では低く、また高収入層の家庭でも、投資額が増えても収入がこれと平行して高くなるのでやはり低くなるのにたいし、中間的収入層すなわち中間階級の家庭では、社会的上昇をめざそうとする野心のせいで自分の資力と相対的につりあわない教育投資をせざるをえず、その結果それが最高となるからである。

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン――社会的判断力批判〈普及版〉 2』石井洋二郎訳、2020年、藤原書店、647頁。

 少し違う話ですが、ディスタンクシオンの100分de名著版では、教育社会学における文化的再生産論という、出身階層に傾向づけられる性向が階層を再生産するという見方について書かれていました。成績が良ければ奨学金を得るなどして進学することが可能になるなど、学校教育には階級をシャッフルする側面があるように見えますが、実際は逆で、学校で勉強することをよしとする態度や性向は就学以前に獲得される文化資本であるため、それの資本の多さによって学校での序列、ひいては社会での位置も再生産される、といいます。イギリスの社会学者ポール・ウィリスの研究では、労働者階級のいわゆる不良の男の子たちは、自分から進んでグレてドロップアウトし、親と同じブルーカラーの労働者になっていくのは、彼らが育ったマッチョな労働者文化ではじっとしているのが苦痛でしかなく、おとなしく勉強するのが難しいという側面があり、さらに、身近な大人も一様に学歴が低くロールモデルとなる学歴の高い大人がいないので勉強する意味がわからないからだといいます。反対に、東大生の親の年収は約6割が950万円以上であり、全世帯のうち所得が1000万円以上のものはわずか12%なので東大生の出身階層はかなり偏っています。


 中間階級の話に戻りますが、中間階級(プチブル)の人々は、経済・文化資本に加えて、「精神的」資力を持っていて、自分の過去であるプロレタリアの身分から何とか脱出し、自分の未来であるブルジョワジーの身分に到達しようともくろんでいるといいます。

上昇プチブルはあたかも自分が今ある姿より上位の(あるいは少なくとも、上位であると信じていなければ実際に彼らが陥ってしまうであろう姿よりは上位の可能性をもっているかのように振舞い、そうやってこれらの可能性を増大させることができるのだが、それは彼らの性向が、それらを生みだす母胎となったある一定時点における位置を再生産するからではなく、個人的・集団的軌道のその時点における勾配を再生するからなのだ。プチブルのハピトゥスとは、個人あるいは集団の社会的軌道の勾配が一つの傾向となったものであり、それを通してこの上昇が延長されたり達成されたりするのである。過去の軌道がその延長である未来へ向かう指向という形でそこに保存されるという意味で、ライプニッツが言うところの一種のたゆまぬ上昇努力nisus perseverandi にほかならないこのハビトゥスは、「当然抱いてしかるべき」野心を制限し、それによってこの現実的な上昇志向を実現するために払わねばならない代価を低く抑える。上昇プチブルは資本主義の起源の歴史を無限に繰り返す。そしてそのために、彼らはピューリタンと同様、自分の禁欲主義しかあてにすることができない。金銭や文化や人間関係にたいし、他の人々が現実的保証を提示できるような社会的交換の局面において、彼らは精神的保証しか与えることができないのである。経済・文化・社会関係の各資本が(相対的に)貧しいために、彼らはよく言われるように「自分の上昇志向を正当化する」ことができず、したがって犠牲、欠乏、放棄、善意、承認、要するに美徳という形で代償を払わないかぎり、自分の上昇志向を実現する可能性を手にいれることができないのだ。

同書、654−655頁。

prétention 〔上昇志向〕はまた、pré-tention 〔先在指向〕と書くこともできる。これはおのれを生みだした過去の上昇運動を永続化しようとする傾向と化した上昇勾配であり、倹約精神と、プチブル的な美徳に結びついたあらゆる卑小さを、その反対物としてもっている。この先在指向のおかげでプチブルが対立する上昇志向どうしの競争に無理やり参加させられ、いつ攻撃性という形をとって爆発するかもしれない絶えざる緊張を強いられながら、つねに分不相応な生活をするようしむけられてゆくのは事実であるが、しかしこれはまた、特に禁欲主義やマルサス主義などあらゆる形での自己搾取によって、上昇を実現するには不可欠の経済的・文化的資力を自分自身から天引きしておくために必要な力をプチブルに与えてくれるものでもある。

同書、655頁。

 こういう人、たまにいるなと思いました。常に努力し続けて、向上しようとする。「上昇プチブルは資本主義の起源の歴史を無限に繰り返す。」資本主義の体現者がよ…。

プチブルが最も明白とは言わないまでも最も大きな犠牲を実際に払うのは、社交関係およびこれと相関的に得られるはずの種々の満足に関してである。自分の位置はもっぱら自分の力によって得られたものであると確信している彼らは、自分を救うには自分自身しかあてにできないと信じている。各人が自分のために、各人が自分の家に、というわけだ。努力を一点に集中しコストを切り詰めようとするあまり、個人的上昇の障害となるような人間関係はたとえ家族関係であっても断ち切るよう、彼らは導かれてゆく。
(中略)
したがって多人数家族から少人数家族や一人っ子の家庭へと転換すること、それは家族関係とか家庭という単位の機能に関する的な考えかたをあきらめることであり、また大家族特有の楽しさや、贈物の交換、パーティ、 いさかいなども含めた伝統的様式を放棄するばかりでなく、家庭の不安定さや経済的・社会的不安につきまとわれた世界で暮らす老後の心配にたいし、特に母親たちにとっては子の数が多いことがほぼ確実な唯一の頼りとなるはずなのだが、そうした保証をもまた放棄してしまうことなのである。 家族関係や友人関係はプチブルにとって、もはや不幸や災難、孤独や貧窮などから自分を守ってくれる保険でも、必要なときに助力を与えてくれたり金を貸してくれたり職を提供してくれたりする援助と保護のネットワークでもありえない。 しかし一方それらの関係はまだあのいわゆる「人脈」、すなわち経済資本・文化資本から最大の収益をあげるのに不可欠の社会関係資本にもなっていない。むしろそれらは何としでも断ち切らねばならぬ桎梏でしかないのである。 なぜなら感謝や助け合いや連帯、そしてそれらがもたらすさまざまな物質的・象徴的満足は、長期的なものであれ短期的なものであれ、いずれも彼らには禁じられた贅沢に属するものなのだから。

同書655-656頁。

「必要なときに助力を与えてくれたり金を貸してくれたり職を提供してくれたりする援助と保護のネットワーク」「人脈」というワードが出ていますが、上昇を目指す人々の間でよく聞く言葉です。そういう人と接したことがありますが、1日の間で、わたしと会う前も会った後も別の予定が入っていて、人間をネットワークとして見ている感じがしました。

この節の最後に、ブルデューは辛辣な言葉で中間階級のことを批判的に論じています。

今あるがままの姿で大量に自らを再生産してゆくプロレタリアのような繁殖力をあきらめて、プチブルは制限的・選択的再生産を「選択」するのであり、それはしばしば輸入階級であるブルジョワ階級の厳密に選択的な期待に応じて構想され作りだされた唯一の生産物〔一人息子〕というところにまで限定される。 プチブルは、厳密に結びつけられてはいるが偏狭でいささか息苦しい家庭のうちに閉じこもるのだ。「小さい(プチ)」という形容詞やその類義語がいずれも常に多かれ少なかれ軽蔑的ニュアンスをもっており、プチブルが言ったり考えたりしたりすること、プチブルがもっているものやそのありかたのすべて、さらにはそのモラル(これはプチブルとしては強みの部分なのだが)にたいしてまで貼りつけられかねないのは、けっして偶然ではない。というのもプチブルのモラルは厳格かつ厳密で、形式主義と細心さに凝り固まるあまりどこか偏狭で堅苦しく、硬直していて傷つきやすく、窮屈でこわばったところがあるからである。細かい(プチ)配慮にとらわれ、こまごました(プチ)必要に追われるプチブルは、小さく生きるブルジョワである。社会界にたいする客観的関係がそっくり現われてくるその身体的ヘクシスさえもが、ブルジョワ階級につながる狭き門を通るために自分を小さくしなければならなかった者のそれになっている。服装においてもしゃべりかた過度の警戒心と慎重さによって過剰なまでに正確を期するあの言葉遣いにおいても、また仕草においても立ち居振舞い全体においても、厳格で質素、控え目で厳しくあろうとするあまり、彼らは常に自由闊達さや余裕、幅の広さや鷹揚さをいささか欠いているのである。

同書、658頁。

 昔読んだトロツキーの『レーニン』にも誰かのことを称して「なんというプチブル!」と軽蔑的なニュアンスで書かれていたのを覚えています。上昇するために様々なものを犠牲にして、小心に生きている姿はたしかにおかしみがあるのかもしれません。まあでも、いいと思います。仕方ないことだとわたしは思います。その気持ちもよく理解できます。わたしの両親はめちゃくちゃ性格がよくて大卒でしたが明らかに社会構造の欠陥?のせいで年収が低くて、中学の頃から社会の制度には疑問を抱いていましたがそれでも、わたしも大学まで公立の学校に行っていて(大学も公立だったけど)、中学などは田舎でとくに治安が悪くて、絶対こういう環境やこういう人たちがいるところから抜け出したいと思って勉強を頑張ってきたのでよくわかります。もし子供がいたら劣悪な環境の公立ではなく私立に行かせたいとも思っていたので、子供に託す気持ちもわからなくもないです。勉強しかやってこなかったのは友達がいなかったというのもありますが…。





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