ブルデューの『ディスタンクシオン』の中間階級の章を読みました。今の日本でも存在するような人のことが適確に記述されていて感動しました。わたしは言語化することが苦手で、映画などを見ても良かったなあとは思うけどどこが、とはすぐにはわからず、感想を調べて同じようなことを感じた人が書いたものを見てやっとわかります。言語化できると(社会問題など大きいことであっても)問題を明確にして解決に向かうことができる気がするので、やはり言葉を知りたいなと思います。
ディスタンクシオンでは、支配階級と中間階級と庶民階級に分けて特徴が論じられています。これから書く「勾配と傾向」という章では、中間階級の特徴が端的にまとめられています。中間階級は、階級の上昇を目標にして生きていると言われています。今の日本では当てはまりませんが、子供の数は低収入で多く、中間的収入層に対応する部分で最低となり、高収入層で再び増えることが知られている、と書かれています。その理由は、中間階級が上昇したいという望みを子供にも託すからだと書かれています。
少し違う話ですが、ディスタンクシオンの100分de名著版では、教育社会学における文化的再生産論という、出身階層に傾向づけられる性向が階層を再生産するという見方について書かれていました。成績が良ければ奨学金を得るなどして進学することが可能になるなど、学校教育には階級をシャッフルする側面があるように見えますが、実際は逆で、学校で勉強することをよしとする態度や性向は就学以前に獲得される文化資本であるため、それの資本の多さによって学校での序列、ひいては社会での位置も再生産される、といいます。イギリスの社会学者ポール・ウィリスの研究では、労働者階級のいわゆる不良の男の子たちは、自分から進んでグレてドロップアウトし、親と同じブルーカラーの労働者になっていくのは、彼らが育ったマッチョな労働者文化ではじっとしているのが苦痛でしかなく、おとなしく勉強するのが難しいという側面があり、さらに、身近な大人も一様に学歴が低くロールモデルとなる学歴の高い大人がいないので勉強する意味がわからないからだといいます。反対に、東大生の親の年収は約6割が950万円以上であり、全世帯のうち所得が1000万円以上のものはわずか12%なので東大生の出身階層はかなり偏っています。
中間階級の話に戻りますが、中間階級(プチブル)の人々は、経済・文化資本に加えて、「精神的」資力を持っていて、自分の過去であるプロレタリアの身分から何とか脱出し、自分の未来であるブルジョワジーの身分に到達しようともくろんでいるといいます。
こういう人、たまにいるなと思いました。常に努力し続けて、向上しようとする。「上昇プチブルは資本主義の起源の歴史を無限に繰り返す。」資本主義の体現者がよ…。
「必要なときに助力を与えてくれたり金を貸してくれたり職を提供してくれたりする援助と保護のネットワーク」「人脈」というワードが出ていますが、上昇を目指す人々の間でよく聞く言葉です。そういう人と接したことがありますが、1日の間で、わたしと会う前も会った後も別の予定が入っていて、人間をネットワークとして見ている感じがしました。
この節の最後に、ブルデューは辛辣な言葉で中間階級のことを批判的に論じています。
昔読んだトロツキーの『レーニン』にも誰かのことを称して「なんというプチブル!」と軽蔑的なニュアンスで書かれていたのを覚えています。上昇するために様々なものを犠牲にして、小心に生きている姿はたしかにおかしみがあるのかもしれません。まあでも、いいと思います。仕方ないことだとわたしは思います。その気持ちもよく理解できます。わたしの両親はめちゃくちゃ性格がよくて大卒でしたが明らかに社会構造の欠陥?のせいで年収が低くて、中学の頃から社会の制度には疑問を抱いていましたがそれでも、わたしも大学まで公立の学校に行っていて(大学も公立だったけど)、中学などは田舎でとくに治安が悪くて、絶対こういう環境やこういう人たちがいるところから抜け出したいと思って勉強を頑張ってきたのでよくわかります。もし子供がいたら劣悪な環境の公立ではなく私立に行かせたいとも思っていたので、子供に託す気持ちもわからなくもないです。勉強しかやってこなかったのは友達がいなかったというのもありますが…。