人体測定学の伝統からこれまで生じた中で最も大きな影響をおよぼした教義であるチェザーレ・ロンブローゾの『犯罪者』の理論においては、犯罪は遺伝的であり、人間の外見的特徴から犯罪を犯す傾向にある人かそうでない人かを区別できるといいます。スティーヴン・J・グールドによる『人間の測りまちがい』の[第四章 身体を測る]には、ロンブローゾの理論への反証や反論が書かれていて、その理論がいかに欠陥を含むものかを示しています。たとえば特定の民族に対して「野蛮人」と称し、生得的な犯罪者だと規定しています。そしてその民族の特徴に犯罪を犯す傾向を見出していますが、褒められるような特徴は無視したり、拷問により勇敢にも死んでいく白人の聖者は英雄中の英雄として扱う一方で同じような尊厳さで息を引き取る「野蛮人」については、それは単に痛みを感じないだけであると都合よく解釈を変えていると指摘します。
ロンブローゾの先祖返りの理論は大きな渦をまき起こし、十九世紀における最も熱のこもった科学論争の一つを惹起させました。ロンブローゾは集中砲火を浴びて、ゆっくりと後退しましたが、のちに生得的要因の範囲を広げた新たな理論を付け加えました。その要因とは先天的な病気や退行といったいくつかのカテゴリーでした。
ロンブローゾの影響は多大でした。犯罪人類学は単に学者の論争ではなく、何年もの間、法律や刑法にかかわる人々の議論の主題でもありました。犯罪人類学は多数の「改革」を駆り立て、第一次大戦までは科学者はもとより、裁判官、法律家、政府機関のために開かれる4年ごとの国際会議の議題でもありました。『人間の測りまちがい』を初めて読んだときに知りましたが、ロンブローゾの犯罪人類学は日本の昭和40年の犯罪白書にも登場していました。ロンブローゾとその支持者の理論は一部の過激な人のばかげた戯言ではなく、それほど真面目に取り扱われた理論だったのです。
ロンブローゾの理論は、犯罪実行者やその環境を考える上で、人間の知能や行動が遺伝子によって決定されているという「生物学的決定論」を重視させることに重大な影響を及ぼしました。
ロンブローゾや支持者のフェリは以下の文で死刑の正当性を論じています。
上記のフェリによる文章はダーウィン理論を引き合いに出していますが、(『人間の測りまちがい』によると)ダーウィンの進化論をこのような文脈で使うのは間違っています。ダーウィンは著書『ビーグル号航海記』の中で、烈しく奴隷制を非難するために生物学的決定論に対する厳しい異議申し立てをしています。また、「貧困の悲惨さが自然の法則ではなく、我々の社会制度によって引き起こされているとしたら、我々の罪は重大である。」という文章も記しています。
この[身体を測る]という章のエピローグでは、別の章で扱っている脳の物理的な計測は知能テストに道を譲ったのと同様に、生得的犯罪性の目印は大雑把な解剖学上の烙印から、二十世紀の基準である遺伝子と脳の微細な構造に求められることになった、と書かれています。しかし、前者もそうですが、後者も本質は同じで、脳の特定部位の働きが機能不全であることに犯罪的行為の原因を求めることもナンセンスなことです。1967年の夏、ユダヤ人街での大暴動の後、三人の医者が、スラム街の住民の一部が暴動に加わったことに関してその一部の住民の脳に何かしら原因があるのではないかと書いた文章に対して、グールドは反論を述べています。
ロンブローゾと同時代の作家、トルストイはロンブローゾの理論を肯定しませんでした。わたしも、ロンブローゾのこれまで書いてきた生物学的決定論や、そのほか、犯罪者を事前にスクリーニングするだとか排除するとかいうような理論はなんか嫌だけど、何が嫌かは自分でもわかりませんでしたが、トルストイの考えを見て何が嫌か納得できました。
トルストイの小説『復活』で、主人公ネフリュードフ公は、自分がかつてひどい扱いをした一人の女性を誤って有罪にした制度を突き止めようと試み、犯罪人類学の学術的研究を調べましたが、何の答えも見出せませんでした。
京都新聞2001年4月18日朝刊には、トルストイのこれらの考えが端的に説明されています。
支配的な階級の人が自分たちの恵まれた環境を維持するために、科学を支配の道具として利用して理論を構築し、漸進的な社会改良を端から排除することは、間違っているとわたしも思います。旧優生保護法に基づいて実施された強制不妊手術に関する国家賠償請求訴訟に関する報道も最近ありましたが、優生思想的な考えを持っている方は今もいます。色々な物事を知り、また自分とは異なる立場の人の気持ちになって考えてみてほしいです。