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どんな権利があって人が人を裁くのか

 人体測定学の伝統からこれまで生じた中で最も大きな影響をおよぼした教義であるチェザーレ・ロンブローゾの『犯罪者』の理論においては、犯罪は遺伝的であり、人間の外見的特徴から犯罪を犯す傾向にある人かそうでない人かを区別できるといいます。スティーヴン・J・グールドによる『人間の測りまちがい』の[第四章 身体を測る]には、ロンブローゾの理論への反証や反論が書かれていて、その理論がいかに欠陥を含むものかを示しています。たとえば特定の民族に対して「野蛮人」と称し、生得的な犯罪者だと規定しています。そしてその民族の特徴に犯罪を犯す傾向を見出していますが、褒められるような特徴は無視したり、拷問により勇敢にも死んでいく白人の聖者は英雄中の英雄として扱う一方で同じような尊厳さで息を引き取る「野蛮人」については、それは単に痛みを感じないだけであると都合よく解釈を変えていると指摘します。

 ロンブローゾの先祖返りの理論は大きな渦をまき起こし、十九世紀における最も熱のこもった科学論争の一つを惹起させました。ロンブローゾは集中砲火を浴びて、ゆっくりと後退しましたが、のちに生得的要因の範囲を広げた新たな理論を付け加えました。その要因とは先天的な病気や退行といったいくつかのカテゴリーでした。

「我々は犯罪者の中に野蛮人を、また同時に病人を見出す」と書いている(1886年、651ページ)。ロンブローゾはのちに犯罪者の目印としててんかんに特別な重要性を与えている。最後には、ほとんどの「生得的な犯罪者」はある程度てんかん症にかかっていると主張した。ロンブローゾの理論によって何千人というてんかん患者に付け加えられた苦しみは計り知れないものである。てんかん患者たちは、ロンブローゾがこの病気を道徳的退廃の目安として詳しく説明したことも原因となって、優生計画の主要な標的となった。

スティーヴン・J・グールド『人間の測りまちがい 上 差別の科学史』鈴木善次/森脇靖子訳、河出書房新社、2008年、253-254頁。


 ロンブローゾの影響は多大でした。犯罪人類学は単に学者の論争ではなく、何年もの間、法律や刑法にかかわる人々の議論の主題でもありました。犯罪人類学は多数の「改革」を駆り立て、第一次大戦までは科学者はもとより、裁判官、法律家、政府機関のために開かれる4年ごとの国際会議の議題でもありました。『人間の測りまちがい』を初めて読んだときに知りましたが、ロンブローゾの犯罪人類学は日本の昭和40年の犯罪白書にも登場していました。ロンブローゾとその支持者の理論は一部の過激な人のばかげた戯言ではなく、それほど真面目に取り扱われた理論だったのです。


 ロンブローゾの理論は、犯罪実行者やその環境を考える上で、人間の知能や行動が遺伝子によって決定されているという「生物学的決定論」を重視させることに重大な影響を及ぼしました。

犯罪者は生まれつきのものであり、犯罪を理解するためには犯罪者を研究すべきなのであり、その人の育ちや教育、あるいは盗みや強奪を犯すようになった苦境を研究しても意味はない。「犯罪人類学」は犯罪者をその本性のレベルで研究することである。言いかえれば生物学や病理学の分野での研究である(ロンブローゾの弟子セルキ、チンメルンからの引用、1898年、744ページ)。これは保守的な政治的主張としていつでも勝利をうる。邪悪であったり、堕落したりするのは、それらの人々がそう生まれついているからである。社会的な制度は自然の反映である。とがめられるべき(研究されるべき)はこれらの犠牲者であり、彼らの環境ではない。
 例をあげよう。イタリアの陸軍はかつて、上官を殺傷したミスデアという名の兵士にちなんでつけられたミスデイスモ、すなわち我々が「上官殺傷」と呼ぶ現象で悩まされた。ロンブローゾはこの兵士を調べ「神経症のてんかん症状であり……、悪性遺伝の影響を強く受けている」と述べた(フェリ、1912年)。ロンブローゾは、陸軍からてんかん症は排除されなければならないと忠告した。フェリによれば、これによってミスデイスモがなくなったという(イタリアの陸軍において、第二次世界大戦中、てんかん症でない人によって一度も上官殺傷が起こらなかったと私には思えない)。いずれにせよ、新兵の権利や待遇を考慮しようとは誰も思わなかったようだ。

同書、257-258頁。

 ロンブローゾや支持者のフェリは以下の文で死刑の正当性を論じています。

「悪事をするために生まれてきた犯罪者が存在することは事実だ。彼らにどんな社会的治療をほどこしても、ちょうど岩に立ち向かうようなもので効果がない。この事実こそが、死によってでも彼らを完全に排除するよう我々を強要するのである。」(ロンブローゾ)

同書、263頁。

「私には、死刑は自然によって定められており、宇宙の生命のあらゆる瞬間に働いているように思われる。進化という普遍的法則は、あらゆる種類の生命の進歩が、生存闘争に最も適していないものの死による絶え間ない淘汰によっていることを我々に示している。さて、この淘汰には下等な動物の場合と同様、人間の場合でも自然的なものもあれば人為的なものもあるだろう。したがって、人間社会でも人為淘汰によって反社会的な、調和しえない人々を排除すべきであるということは自然法に一致する」(フェリ)

同書、264頁。

 上記のフェリによる文章はダーウィン理論を引き合いに出していますが、(『人間の測りまちがい』によると)ダーウィンの進化論をこのような文脈で使うのは間違っています。ダーウィンは著書『ビーグル号航海記』の中で、烈しく奴隷制を非難するために生物学的決定論に対する厳しい異議申し立てをしています。また、「貧困の悲惨さが自然の法則ではなく、我々の社会制度によって引き起こされているとしたら、我々の罪は重大である。」という文章も記しています。

 この[身体を測る]という章のエピローグでは、別の章で扱っている脳の物理的な計測は知能テストに道を譲ったのと同様に、生得的犯罪性の目印は大雑把な解剖学上の烙印から、二十世紀の基準である遺伝子と脳の微細な構造に求められることになった、と書かれています。しかし、前者もそうですが、後者も本質は同じで、脳の特定部位の働きが機能不全であることに犯罪的行為の原因を求めることもナンセンスなことです。1967年の夏、ユダヤ人街での大暴動の後、三人の医者が、スラム街の住民の一部が暴動に加わったことに関してその一部の住民の脳に何かしら原因があるのではないかと書いた文章に対して、グールドは反論を述べています。

我々は自分の専門分野から物事を一般化する傾向がある。この三人の医者たちは精神外科医である。しかし、絶望的になり、落胆しきった人々の暴力行為をどんな根拠で彼らの脳の機能障害に結びつけるのだろうか。いっぽうで、国会議員や大統領の汚職や暴力については同じような考え方をしようとしないではないか。人間集団は、いろいろな行為に対してはかなり変化に富んだ対応をするものである。ある人はするが、ある人はしないというこの単純な事実こそが、行為者の脳の特定の場所に位置づけられる特別な病理的異常が存在する証拠などないことを示している。

同書、274頁。


 ロンブローゾと同時代の作家、トルストイはロンブローゾの理論を肯定しませんでした。わたしも、ロンブローゾのこれまで書いてきた生物学的決定論や、そのほか、犯罪者を事前にスクリーニングするだとか排除するとかいうような理論はなんか嫌だけど、何が嫌かは自分でもわかりませんでしたが、トルストイの考えを見て何が嫌か納得できました。

トルストイがロンブローゾ主義者に落胆したのは、一つの可能な解決策として社会改革を必要とした、より深刻な問題を回避するために、彼らが科学に救いを求めたことに対してである。トルストイは、科学がしばしば既存の制度と強固に結びついて機能することを悟った。

同書、269頁。

 トルストイの小説『復活』で、主人公ネフリュードフ公は、自分がかつてひどい扱いをした一人の女性を誤って有罪にした制度を突き止めようと試み、犯罪人類学の学術的研究を調べましたが、何の答えも見出せませんでした。

 なお彼は、その愚鈍さと残忍さとで人におもてをそむけさせるような、一人の浮浪漢と一人の女とを見たが、しかし、彼らの上にも、イタリア学派のいうような犯罪者の典型を見いだすことは、 どうしてもできなくて、ただ、監獄外で燕尾服を着たり、肩章をつけたり、レースを飾ったりしている人々の中にも見いだすのと同じような個人的にいやな人間を見いだしたにすぎなかった......。
 はじめネフリュードフは、この問題にたいする解答は書物のなかに見いだせるだろうと思って、それに関する著書を手あたり次第買いこんだ。彼はロンブローゾ、ガロファロ、フェリ、リスト、モーズレイ、タルドなどの著書を買いこんで、それらの書物を熱心に読んだ。ところが、そうした書物を読めば読むほど、彼はますます幻滅を感ずるばかりだった。……科学は彼のまえに、刑法にあるきわめて複雑な、困難な諸種の問題にたいしては、数かぎりない解答をあたえてくれたけれども、彼が解答を求めている事柄にたいしてだけは、なんの解答をもあたえてくれなかった。彼は、きわめて簡単なこと ――いったいどういう理由で、またどんな権利があって、ある人間が他の人間を監禁したり、苦しめたり、追放したり、笞打ったり、殺したりできるのだろう。しかも彼ら自身、自分たちを苦しめたり、笞打ったり、殺したりしている人間と全く同じ人間でありながら?こういうことをたずねているのであった。しかるに、彼にあたえられた解答は、人は意志の自由をもつものなりやいなや?とか、頭蓋骨その他の計量によって、 犯罪性あるものかいなかを知ることができるかどうか?とか、遺伝は犯罪のなかでいかなる役割を演じているか?とか、 先天的の不道徳というものがあるかどうか?とか。」(『復活』一八九九年 翻訳は河出書房新社版より)

同書、270-271頁。

 京都新聞2001年4月18日朝刊には、トルストイのこれらの考えが端的に説明されています。

イタリアの精神科医であるロンブローゾの名は、犯罪人類学の創始者としてよく知られている。彼の主張するところでは、犯罪者は生まれつき特殊な人間類型であって、野蛮な原始時代の人間形質を隔世遺伝により受け継いだ人々である。そのような類型に属するかどうかは、頭蓋骨の左右不均衡、削り取られたような前額、突き出した上顎下部、眉弓の顕著な発達などに示される身体的な特異性と、道徳感情の欠如や衝動性、残忍性、痛覚の鈍磨といった精神的な特徴によって、判定可能だとされた。一九世紀末のヨーロッパ諸国は激増する犯罪に悩んでおり、「科学的」な犯罪原因論としてロンブローゾの考えは期待をもって迎えられ、彼は一躍全ヨーロッパの有名人となっていた。

 モスクワで開かれた医師の国際会議に出席したロンブローゾがどのような理由で文豪トルストイに会おうと思い立ったのかは、わからない。あるいは、このキリスト教人道主義に凝り固まった老人を教化しようと考えたのであろうか。当時すでに『復活』を執筆中であったトルストイは彼を迎え、その滞在中の数日、彼と激しく論争した。
 ここでトルストイの刑法思想を詳しくたどる余裕はないが、彼が犯罪者を、絶えざる虐待と誘惑の下に放置され、愚鈍化された人たち、むしろ社会の犠牲者と見ていたことは明らかである。結局、我慢できなくなったトルストイはロンブローゾを屋敷から追い出した。
 犯罪は今日も重大な社会的関心の対象である。凶悪犯罪が起きる度に社会は衝撃を受け、異常な残忍さや理解できぬ動機に、多くの人が、なぜこんなことができるのか、犯人はいったいどのような人間なのかという思いにとらわれることは当然である。そのような中で、近年、犯罪者、とくに凶悪な犯罪を実行した少年の脳に対する関心が高まっている。その形状の異状や「攻撃関与物質」の分泌が犯罪の「原因」として指摘される。

 私はそのような研究をすべて否定するものではない。それによって、犯罪と犯罪者への正しい認識を助け、治療と教育、予防に役立つ何らかの発見があるかも知れない。しかし、わかりやすい原因論に飛びつき、すでに犯罪者と決まった人に普通とは違う身体と精神の異常を見つけて安心していることの危険も、同時に確認しておくべきだと思うのである。

https://www.ritsumei.ac.jp/~uedakan/in_the_HD/lombroso.html

  支配的な階級の人が自分たちの恵まれた環境を維持するために、科学を支配の道具として利用して理論を構築し、漸進的な社会改良を端から排除することは、間違っているとわたしも思います。旧優生保護法に基づいて実施された強制不妊手術に関する国家賠償請求訴訟に関する報道も最近ありましたが、優生思想的な考えを持っている方は今もいます。色々な物事を知り、また自分とは異なる立場の人の気持ちになって考えてみてほしいです。

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