【和訳】『ローリング・ストーン』誌が選ぶ「史上最も偉大な500のアルバム」(2020年改訂版) TOP10 解説文
元記事→史上最高のアルバム500枚
10. Lauryn Hill “The Miseducation of Lauryn Hill”
「この業界は本当に性差別的だわ」と、ローリン・ヒルは1998年に『エッセンス』誌に語った。「彼らは決して、女性に『天才』という称号を与えたりしないでしょう」。 (アルバム発表以前から)フージーズの共同リーダーとして既にスターだった彼女は、ワイクリフ・ジョンと共に活躍しながらも、自分自身のビジョンを表現したいという渇望を抱いていた。「私は、自分が心から動かされるような歌詞を書きたかったの。そして、レゲエの誠実さ、ヒップホップのビート、クラシックなソウルの楽器編成を持つ曲を作りたかった」と、彼女はデビューアルバムについて語った。
彼女はレコーディングのプロセスを完全に掌握し、作詞、プロデュース、編曲を手掛け、セッションを指揮した。そのセッションには、大学生だった頃に呼ばれてニュージャージーでの録音に参加した、ピアニストのジョン・レジェンドや、オルタナティブR&Bの先駆者であるディアンジェロなどが含まれていた。彼らは、「Lost Ones」という金銭を忌み嫌うことを歌ったバンガーから、「Ex-Factor」(おそらくワイクリフ・ジョンについて書かれた)という、繊細で素晴らしく胸が張り裂けるような楽曲、そしてスウィングする説教的な「Doo Wop (That Thing)」といった楽曲を作り上げた。「I Used to Love Him」では、ヒルは彼女の先駆者である、ヒップホップ・ソウルの女王メアリー・J. ブライジとデュエットしている。それぞれの楽曲は、明確なビジョンと個人的な正直さを原動力とし、それらはまるで啓示のように感じられた。「To Zion」では、彼女のプロとしての野心と、新米ママとしての葛藤が詳細に描写されている。
『The Miseducation of Lauryn Hill』の音楽的遺産もまた深い。当時、ポップミュージックがますます洗練され、デジタル化されつつあった1990年代の中で、このアルバムはより生々しいサウンドの商業的魅力を示した。「私はあの厚みのある音が聴きたい」とヒルは言った。「コンピューターからはそれを得ることはできない。なぜならコンピューターは完璧すぎるから。その人間的な要素、それが私の首筋の毛を逆立てるの。それが大好きなの」。
9. Bob Dylan “Blood on the Tracks”
ボブ・ディランは、このアルバムの冒頭「Tangled Up in Blue」についてステージで、「これを生きるのに10年、書くのに2年かかった」と説明したことがある。これは、彼自身の個人的な危機、つまりサラ・ラウンズとの結婚生活の破綻を指しており、それはこのアルバムのインスピレーションの一部になった出来事だった。このアルバムは、1970年代のディランの作品の中で、最高のものとされている。
実際には、これらの、歌詞が鋭く慎重に作られたフォークポップの楽曲群は、1974年中頃のわずか2ヶ月で書き上げられた。ディランはこれらの曲に非常に満足しており、アルバム全体を、友人や同僚たちにプライベートで披露した。マイク・ブルームフィールド、デヴィッド・クロスビー、グラハム・ナッシュなどがそのリスナーだった。そして9月には、ブルーグラスバンドのデリヴァランスのメンバーと共に、わずか1週間で録音を終えた。
しかし12月に、ディランが兄のデヴィッドにそのレコードを聴かせたところ、兄は地元ミネアポリスのミュージシャンたちと、一部の楽曲を再録音することを提案した。最終的な『Blood on the Tracks』は、ニューヨークとミネアポリスで録音されたテイクが混在している。ニューヨーク版はゆったりとして内省的な雰囲気があり、一方でミネアポリス版は速くて荒々しい。この二つが組み合わさって、ディランのボーカルに宿る生々しい苦悩が際立っている。ディランはその中で、情熱的で告白的な楽曲を歌い上げている。大人の別れを描いたバラード「You’re a Big Girl Now」や「If You See Her, Say Hello」、そして「Idiot Wind」のような辛辣な批判を込めた曲がそれにあたる。「Idiot Wind」は、「Like a Rolling Stone」以来の、彼の最高の辛辣な楽曲とされている。
「多くの人がこのアルバムを楽しんだと言ってくれる」と、ディランは、このアルバムが商業的にも批評的にも即座に成功を収めた後に語った。「でも、僕にはそれを理解するのは難しい――つまり、人々がこの類の苦痛を楽しむということを」。しかしディランには、これほどの痛みをこれほどの音楽的な壮麗さに変えたことが、それまでになかったのだ。
8. Prince and the Revolution “Purple Rain”
「『Purple Rain』は、僕のこれまでの作品の中で、最もアヴァンギャルドで『パープル』なものだと思う」と、プリンスは1986年に『エボニー』誌に語った。当時、彼はヒット曲をいくつか持つだけの、まだ上り調子のスターに過ぎなかったが、自分の人生を基にした映画を作り、そのサウンドトラックとして次のアルバムを作るという、大胆なアイデアを思いついた。1984年にそれがリリースされると、彼は北米で、同時にシングル・アルバム・映画の3つでNo.1を獲得した初のアーティストとなった。
しかし『Purple Rain』は、単なる大ヒット映画のサウンドトラックに留まらなかった。それはプリンスの夢である「ユートピア的な(チャート)TOP40」の具現化であり、ファンク、サイケデリア、ヘヴィメタルのギターソロ、壮大なバラード、そして大胆な実験性が共存する場所だったのだ。「今『Purple Rain』を聴くと、それはビートルズのアルバムみたいだ」と、レヴォリューションのキーボーディストであったマット・フィンクは、2016年、プリンスの死後『ローリング・ストーン』誌に語っている。「どの曲もそれぞれの形であまりにも素晴らしく、ユニークで違うんだ」。
『Purple Rain』は、矛盾する衝動の中で驚くべきバランスを保っている――ポルノ的な「Darling Nikki」から、キラキラとした純粋さにあふれる「Take Me with U」まで。『Purple Rain』の監督アルバート・マグノリが、モンタージュシーンに合う曲を頼んだとき、プリンスは翌日、独特で風変わりな失恋ソング「When Doves Cry」を持ち込んだ。それは彼にとって初めてのNo.1シングルとなった。
表題曲「Purple Rain」は、彼の地元ミネアポリスにあるクラブ「ファースト・アベニュー」でライブ録音された曲の一つで(後にスタジオで弦楽器やオーバーダビングが追加された)、この曲は意外にも、ボブ・シーガーにインスパイアされている。1983年、アルバム『1999』のツアー中、シーガーが同じ中西部でコンサートを行っていることに気づいたプリンスは、彼の人気が理解できなかったが、シーガー風のバラードを作ってみることにした――その結果生まれたのが、おそらく史上最高のロックバラードとも言えるこの曲だ。
7. Fleetwood Mac “Rumours”
『Rumours』でフリートウッド・マックは、私的な混乱を、煌めくメロディックなパブリック・アートへと昇華させた。バンド内の2組のカップル――ベーシストのジョン・マクヴィーとシンガー兼キーボーディストのクリスティン・マクヴィー(夫婦)、ギタリストのリンジー・バッキンガムとシンガーのスティーヴィー・ニックス(未婚)――は、アルバムの長期にわたるセッション中に別れることになった。ジョンは後に『ローリング・ストーン』誌に、アルバム制作時の雰囲気について「家中でパーティーが繰り広げられていたんだ。信じられないくらいすごいけど、恐ろしかった。大量の違法なものがあって、それが延々と続く日々だった」と語っている。
この狂乱的で退廃的な雰囲気は、「Go Your Own Way」(バッキンガム作)、「Dreams」(ニックス作)、「Don’t Stop」(クリスティン作)、そしてメンバー全員で作曲した裏切りのアンセム「The Chain」などの楽曲に、非常に強い告白的なオーラを与えた。バンド内の「昼ドラ」のような人間関係は、そのまま複雑で創造的な対話を生み出したのだ。「You Make Loving Fun」では、クリスティンが新しい恋人であるバンドの照明デザイナーについて歌いながら、元夫のジョンが、その曲を陽気でファンキーなベースラインでしっかりと支えている。「Dreams」を書く際、ニックスはレコード・プラント(注:レコード・プラントのうち、ロサンゼルスにあった音楽スタジオ)の奥深くに隠された、小さな部屋にある黒いベルベットのベッドに座り、わずか10分で、彼女の最も心に残る曲の一つを作り上げた。「『Go Your Own Way』では、リンジーは『他の男と付き合って、駄目な人生を生きてみろ』と言っていて、私は『雨がすべてを洗い流す』と歌っていた」とニックスは語る。「お互い真逆の視点から話しているようで、実際にはまったく同じことを言っていたの」。
カリフォルニアの陽光を浴びたような洗練されたプロデュースで仕上げられた、フリートウッド・マックのキャッチーな「暴露」は、多くの人々の共感を呼んだ。その結果、『Rumours』は史上6番目に売れたアルバムとなったのだ。
6. Nirvana “Nevermind”
1990年代に、一夜にして成功を収めたニルヴァーナのセカンドアルバムと、その象徴的な最初のシングル「Smells Like Teen Spirit」は、シアトルで芽生えたグランジシーンという、北西部のアンダーグラウンドから飛び出し、マイケル・ジャクソンの『Dangerous』をビルボードのトップチャートから追い落とし、ヘアメタルを地図から吹き飛ばした。これほど様々な世代に圧倒的な影響を与え、同時に、その中心的な創作者に壊滅的な影響を及ぼしたアルバムはほとんどない。成功の重圧は、既に問題を抱えていたシンガー兼ギタリストのカート・コバーンが、1994年、自ら命を絶つまでに彼を追い詰めた。
しかし、彼の鋭いリフ、侵食するような歌声、そして巧妙に曖昧な作詞は、ベーシストのクリス・ノヴォセリックとドラマーのデイヴ・グロールによる、レッド・ツェッペリンを経由したピクシーズ風のパワーに支えられ、ロックンロールに戦士の純粋さを取り戻した。歌詞において、コバーンは暗号のような言葉で怒りをぶつけ、内なる混乱や自己嫌悪を端的に爆弾のように表現した。しかし「Lithium」「Breed」「Smells Like Teen Spirit」のような曲で彼が示した天才性は、サビとバースの間で、抑制と爆発というソフトとラウドの緊張感を生み出したことにあった。
コバーンは本質的にポップス好きであり、ビートルズの大ファンでもあった。共同プロデューサーのブッチ・ヴィグは、セッション中にコバーンが、ジョン・レノンの「Julia」を演奏するのを聴いたことを思い出している。一方でコバーンは、「Territorial Pissings」という激しいパンク調の曲などで、アンダーグラウンドの名誉を守ろうともした。
最終的にはその戦いに敗れることになったが、それがこのアルバムの持続的な力の一部となっている。ヴィグは「Smells Like Teen Spirit」のギターイントロをコバーンが完璧に弾けず、オーバーダビングを強いられたときのことを振り返る。「それが彼をひどく苛立たせた。彼はその曲を最初から最後まで生で演奏したかったんだ」。
5. The Beatles “Abbey Road”
「とても幸せなアルバムだった」と、プロデューサーのジョージ・マーティンは『The Beatles Anthology』でこのアルバムについて語っている。「おそらくみんな、これが最後のアルバムになると思っていたから幸せだったんだろうね」。実際、1969年の夏に2ヶ月間で録音された『Abbey Road』は、そもそも制作されることすら危うい状態だった。その年の1月、ビートルズは『Get Back』のセッションが失敗に終わり(後に『Let It Be』として救済された)、疲れ果てて、互いに怒りをぶつけ合う中で解散寸前だったが、1960年代初頭に世界を魅了したあの栄光と同じ姿で幕を下ろすことを決意した彼らは、再びEMIのアビー・ロード・スタジオに集まり、最も洗練されたアルバムを制作した。それは、細部にまでこだわって仕上げられた優れた楽曲を集めたもので、特にB面では、コンセプト性を持たせて曲をつなぎ合わせている。
このアルバムには、ビートルズ独自の天才性を除けば、特にテーマ的なつながりはない。ジョン・レノンは嵐のようなメタル調の「I Want You (She’s So Heavy)」から、美しいボーカルで日の出を思わせる「Because」へと変化する。ポール・マッカートニーは、挑発的な「Oh! Darling」、コミカルな「Maxwell’s Silver Hammer」、そして見事な皮肉を込めた「You Never Give Me Your Money」を披露した。ジョージ・ハリスンは「Something」(後にフランク・シナトラがカバー)や、フォークポップの宝石「Here Comes the Sun」で、作曲家としての隠れた才能を証明。「Here Comes the Sun」は、友人エリック・クラプトンの庭で、重苦しいビジネスミーティングをした後に書かれたものだ。レノン、マッカートニー、ハリスンの3人は、このアルバムでこれまでのどのビートルズのアルバムよりも多くの三部ハーモニーを歌ったと言われている。この温かい雰囲気――分裂が進むバンドが、友情の中で温かく一つになる感覚――が、『Abbey Road』が史上最も愛されるビートルズのアルバムとなった理由の一つかもしれない。
4. Stevie Wonder “Songs in the Key of Life”
スティーヴィー・ワンダーのアルバム『Songs in the Key of Life』のレコーディングセッションが終わる数ヶ月前、彼のバンドのミュージシャンたちは「We’re almost finished(もう少しで完成)」と書かれたTシャツを作った。この言葉は、偶然会ったファンやモータウンの幹部、そして『Talking Book』(1972年)、『Innervisions』(1973年)、『Fulfillingness’ First Finale』(1974年)といった初期の名作に魅了され、次の作品を2年間待ち望んでいた人々に対する決まり文句だった。「まだ語るべきことがたくさんあると思っていた」とワンダーは語っている。実際、それは2枚組のアルバムだけでは収まりきらないほどで、セッションからの楽曲を4曲収録したボーナスEP(7インチシングル)も追加された。
1976年にリリースされた『Songs in the Key of Life』は、驚くべき範囲の人生経験を網羅している。赤ちゃんが浴槽で遊ぶ喜びにあふれた「Isn’t She Lovely」(ワンダーの幼い娘アイシャ・モリスの泣き声や笑い声が収録されている)、音楽界の英雄たちへの賛辞である「Sir Duke」、そして富裕層の無関心への嘆き「Village Ghetto Land」など、幅広いテーマが取り上げられている。「Sir Duke」は、デューク・エリントンやエラ・フィッツジェラルドを讃える楽曲であり、「As」では、ハービー・ハンコックがフェンダー・ローズを演奏している。
ワンダーは盲目のため、歌詞を暗記することで録音を早く進めることができたが、一部の曲には、4~5つの複雑なバースが含まれていたため、誰かが歌う直前に歌詞を伝える必要があった。その役を担ったのはエンジニアのジョン・フィッシュバックで、録音中、(ワンダーのつけた)ヘッドホン越しに歌詞を読み上げていた。「彼がペースを崩すことは決してなかった」と、フィッシュバックは後年『ローリング・ストーン』誌に語っている。「彼のボーカルには信じられないほどの力があった」。
このアルバムの多彩なスタイルのマスタリーは今なお驚嘆に値するが、もしワンダーが、同時に情熱的な政治的アートを届けていなかったなら、その偉業はこれほどの意味を持たなかったかもしれない。自伝的な「I Wish」、裕福な人々の怠慢を批判する「Village Ghetto Land」、そして最も感動的な「Black Man」では、グローバルなアフリカ系ディアスポラの希望や英雄を、ファンキーなリストにまとめ列挙している。『Songs in the Key of Life』は、こうしたテーマをすべて結びつけ、ワンダーの包括的な「インナービジョン」の中で表現している。
3. Joni Mitchell “Blue”
1971年、ジョニ・ミッチェルは、西海岸の女性の理想像を体現する存在として広く認識されていた。レッド・ツェッペリンの「Going to California」でロバート・プラントが、「愛に満ちた目と髪に花を飾った女の子」と歌ったように。しかし、それはミッチェルが望んだものではなく、受け入れたいものでもなかった。「『何てことなの、こんなに多くの人が私の話を聞いているのね』と思ったわ」と、彼女は2013年に振り返っている。「『みんな誰を崇拝しているのか知るべきよ。それに耐えられるかどうか見てみましょう。本当のことを話しましょう』と思ったの。それで私は『Blue』を書いたのよ」。
煙のように静かな内省的なジャケットから、まったく無防備な作詞アプローチに至るまで、『Blue』は、主要なロックやポップアーティストがここまで心を開いた初めての作品だった。ミッチェルは究極の失恋アルバムを生み出し、現在に至る、ポップミュージックにおける告白的な詞の基準を打ち立てた。アコースティックの楽器と彼女のオクターブを跳ねる声を使い、ミッチェルは孤独な画家として、自らの胸の痛む失恋を理解しようとする姿を描いたのだ。曲の中で、彼女は過去の恋愛や出会いを振り返っている。クレタ島の料理人(「Carey」)、そしてグラハム・ナッシュ(「My Old Man」)、レナード・コーエン(「A Case of You」)、ジェームス・テイラー(「This Flight Tonight」)といったロック界の著名人たちについてだ。テイラーは数曲で手を貸している。ロマンチックな悲哀に加え、『Blue』は、それまでロック界では男性にしか許されていなかった恋愛や性的自由を、女性が解放していく音楽でもあった。
このアルバムの曲は非常に露骨で、感情的な強さを持っていたため、彼女の周囲の男性たちを驚かせた。「クリス・クリストファーソンは私に『ジョニ、何かは自分のために取っておけよ』と言ったの」とミッチェルは語る。「そのもろさに彼らは怖気づいたのよ」。例えば「Little Green」では、養子に出した子供について語り、圧倒的なピアノ曲「River」では、失敗に終わった恋愛の責任を自分に帰している。この曲は愛の歌の範囲を永遠に変えた。「私は扱いにくいわ。自己中心的で、悲しいの」と彼女は嘆く。「そして今、私が持っていた中で最高の恋人を失ってしまった」。
ミッチェルは1970年代を通じて素晴らしいレコードを作り続けたが、『Blue』は彼女の代表作として残り続けている。「『Blue』には、ボーカルにほとんど偽りの音がない」と、彼女は1979年に『ローリング・ストーン』誌に語っている。「その時期、私は全く防御を持っていなかった。まるでタバコの箱を包むセロファンみたいに感じていたわ。世界に対してまったく秘密がなくて、自分を強く見せたり、幸せだと装うこともできなかった。でも、音楽においてはそれが強みだったの。音楽にも防御が一切なかったから」。
2. The Beach Boys “Pet Sounds”
「こんなの誰が聴くんだ?」と、ビーチ・ボーイズのシンガーであるマイク・ラヴは、1966年、バンドの天才ブライアン・ウィルソンに問いかけた。ウィルソンが新しく作った曲を彼に聴かせたときのことだ。「イヌの耳か?」と。バンド仲間の軽蔑に直面したウィルソンは、それを逆手に取った。「皮肉なことに」とウィルソンは言う。「マイクのその一言が、このアルバムのタイトルのヒントになったんだ」。
実際このアルバムには、ウィルソンの飼い犬バナナを含むイヌの鳴き声が取り入れられている。この「ファウンド・サウンド」たちは、アルバムの中で目立つ役割を果たしており、ビートルズは『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』でそれを意識的に模倣した。これは『Pet Sounds』がビートルズの傑作に与えた影響を認めるものになる。そしてそのジェスチャーは影響の輪を完成させた。というのも、ウィルソンは当初、『Pet Sounds』をビートルズの『Rubber Soul』を超える試みとして構想していたからだ。その鮮やかなオーケストレーション、詩的な野心、優雅な構成、そしてテーマの一貫性を持つ『Pet Sounds』は、アルバムが単なる曲の集まり以上のものになり得るというその概念を発明し、ある意味では完璧にした。
アルバムの壮大なオープニング「Wouldn't It Be Nice」でウィルソンが、「僕たちがもっと大人だったらいいのに」と歌ったとき、彼はただ高校時代を超えた愛を想像していただけではなく、ロックンロールという音楽自体の、新しい大人のアイデンティティを提案していたのだ。
ウィルソンは『Pet Sounds』を、他のメンバー抜きで制作し、彼らをボーカルアレンジの補強にのみ起用した。彼はこのアルバムをソロプロジェクトとして発表することも考えており、最初のシングル「Caroline, No」は、自身の名義でリリースされた。この曲の個人的な性質は、主に作詞家のトニー・アッシャーと共同で作られたもので、ビーチ・ボーイズの以前のヒット曲とは一線を画している。その贅沢な音作りは、1960年代初頭の純真な世界に別れを告げるかのように、胸が張り裂けるような切なさを伝えている。「I Just Wasn’t Made for These Times」や「I’m Waiting for the Day」といった曲がその例だ。
アルバムの中心となるのは「God Only Knows」で、チェンバロ、ホーン、鈴の音、弦楽器が使われ、ウィルソンが後に「盲目であることのようだけど、その中でより多くを見ることができる。目を閉じているからこそ、その場所や、何かが起こっているのを見ることができる」と語ったような、スピリチュアルな感覚を作り上げている。後の時代、多くのアーティストたちがこのビジョンの中に生きることになっただろう。
1. Marvin Gaye “What’s Going On”
マーヴィン・ゲイの傑作『What’s Going On』は、警察の暴力に対する反発から始まった。1969年5月、フォー・トップスのベースシンガーであるレナルド・“オビー”・ベンソンは、バークレーの抗議の中心地「ピープルズ・パーク」で、警棒を持った警官が数百人で暴動を鎮圧する様子をテレビで目撃した。その光景に衝撃を受けたベンソンは、モータウンの作詞家アル・クリーブランドと共に、その時代の混乱と痛みを捉えようとする曲を書き始めた。彼は未完成の「What’s Going On」に大きな可能性を感じていたが、フォー・トップスの他のメンバーは興味を示さず、ジョーン・バエズに録音してもらおうという試みも失敗した。
しかし、モータウンの最大のスターであり、最高の声を持つ一人であるマーヴィン・ゲイが、この曲に関心を示す。当時のゲイは、デュエットパートナーであったタミー・テレルの死に傷つき、より繊細で内容のある曲を歌いたいと願い、さらに兄フランキーが、最近ベトナムで経験した恐ろしい話に心を痛めていた。彼はオリジナルズというグループのために曲を書き、プロデュースをして忙しく過ごしながら、自分の次の一歩を模索していたのだ。「何かアイデアを探して彷徨っていた」と、彼は伝記作家デヴィッド・リッツに語っている。「自分の中にはもっと何かがあるとわかっていた。でも、それはどんなレコード会社の重役にもプロデューサーにも見えなかった。でも僕にはわかっていた。これを形にしなければならないと」。
少し躊躇した後、ゲイは「What’s Going On」を受け入れ、アレンジャーのデヴィッド・ヴァン・デ・ピッテの助けを借りて、これまでのモータウンの録音とは異なる、よりジャズ的で洗練されたバージョンを作り上げた。シネマティックなストリングスを、ジェームス・ジェマーソンのしなやかなベースラインやポリリズミックなグルーヴに重ね、ゲイはスキャットや即興でメロディを補完し、彼のキャリアの中で最も壮観なボーカルパフォーマンスを披露した。
モータウンの創設者であるベリー・ゴーディは当初、「What’s Going On」のリリースに抵抗し、「スキャットは時代遅れだし、抗議的な歌詞は商業的にリスクが高い」とゲイに伝えた。しかし、曲が即座にヒットすると、ゴーディはゲイに、1ヶ月以内にアルバム全体を制作するよう求めた。そして、ゲイはその要求に見事に応える。「僕はプレッシャーがあるとき、そして落ち込んでいるときに最もいい仕事ができる」と、彼は当時『デトロイト・フリー・プレス』誌に語っている。「今ほど世界が憂鬱な時代はなかった。僕たちは地球を壊し、若者たちを街で殺し、世界中で戦争をしている。人権……それがテーマだ」。
こうして誕生したのが、ソウルミュージック初のコンセプトアルバムであり、音楽史上最も重要かつ影響力のあるLPの一つだ。ジョン・レジェンドは近年、このアルバムを「ブラック・アメリカが語る声。誰もが笑顔を作って見せるわけにはいかないという声」と表現した。完成した一曲「What’s Going On」を中心に構築されたこのアルバムは、音楽的・テーマ的な統一感を持っている。「What’s Happening Brother」では、ゲイの兄のようなベトナム帰還兵の視点で、変わりゆくアメリカへの戸惑いや職探しの苦労を歌い、「Mercy Mercy Me (The Ecology)」では環境への哀歌を、「Flyin’ High (In the Friendly Sky)」では薬物依存をテーマにしている。
『What’s Going On』以降、モータウンやその他のレーベルで、黒人ミュージシャンたちは、音楽と政治の境界を押し広げる新たな自由を感じるようになった。「僕が、モータウンのアーティストが自分を表現する権利のために闘っていたとき、スティーヴィー・ワンダーは、僕が彼のためにも闘っていると分かっていた」とゲイは語っている。
アルバムの最後の曲「Inner City Blues (Make Me Wanna Holler)」では、音楽がジャズ的な表題曲のリプライズへと移行する。そしてアルバムがフェードアウトしていく中、グルーヴは続いていく。50年後の今でも、そのグルーヴは止んでいない。