miroirs
はじめに
小学生のとき、わたしはすでに、
どうも世の中には可愛い子(異性にもてはやされるという意味で)と
そうでない子がいるらしく、どうやら
私は後者なのだとわかっていた。
中学受験をして第一志望の学校は
冬服がセーラー服夏服はブレザーの学校だったけれど、その学校は弓道部に入りたくて志望していただけで、それ以外の学校は全部ブレザーだった。
小学生ながらに、
セーラー服は可愛い子しか着ちゃいけない、と思っていた。
そういうものがある。
ひらひらしたお姫様みたいな衣装は
可愛い子じゃないと、なんか言われるかもとか、スカートを普段履くような子じゃない子がスカートを履くとなんか言われたり。
いやもっとはっきりいうと、
男性がスカートやワンピースみたいな格好をすると、こそこそ何か言われたり、女性が好きな服を着てそれで勝手に性暴力などの被害に遭うと、着ていた服が誘っていたんだとか、
とにかく色々あるけど、
女性と言われる子が、女子の見た目で
女性らしい格好をしたところで、
可愛い子じゃないから似合わないとか、可愛い子が着てたら褒められるのに私は何も言われないとか。
そういうのを経験してゆく。
そうしてできた小学生が私で、
なんとなく私も可愛い服は似合わないだろうなと思ってセーラー服を忌避していた。まあ、THE正統派セーラー服!みたいな服が好みじゃないと思っていたし実際好みじゃなかったから、良かったのだけれど、好みじゃないと思っていたと書いたのは、好みもそれぞれの人の内側からできるものじゃなくて、親の趣味嗜好だとか、その人のこれまでの人生での経験が関わっていると思うから。
周りの子や男の子にちやほやされたり、お母さんたちの間であの子は美人ね、あの子は可愛いわねなんて言われる子がいることを幼い時から認識していて、親たちは私たちの時代の親は?、私の親だけなのかしら?大抵何かあると、自分の子どものことは卑下し、謙り、相手の他人のお子さんを褒めるのが礼儀?みたいなところがあったのか、
小さい頃から、
「この子はほんとなんもできなくて、それに比べて○○ちゃんは」
「○○ちゃんは、色白でお目目がくりくりしてて可愛くて、うちの娘なんか…」みたいな感じだったと思う。
だから、、私は、
自分は可愛くない部類の人間なのだと小学生になる前から認識していたし、実際男の子にチヤホヤされてこないことで、ぁあ、やはり私は可愛くないんだ、と思って生きてきた。25歳くらいまで。
それに、今はどうか分からないけど、私たちの時代は小学生の時から今でも、自分のことを卑下するのが良いことみたいな風習があって、かわいいねとかいうのは女子の挨拶みたいなもので、可愛いとか褒められたら「○○ちゃんの方が可愛いよ〜」とか「可愛い」とか褒められたら「そんなことない」とかなんとか否定することが正しいものだと生きてきて、認めると、え、否定しないの?否定しないの?みたいにひかれる部分があったと思う。
否定するのが良いというようなものは可愛いに限らず、頭いいね、にしてもすごいね、という褒め言葉にしても、なんでもだ。でも、私は否定するのを26歳から27歳のときにやめた。謝ってばかりなのも頑張ってやめはじめた。
頭いいねとか褒められたら
わぁうれしい!ありがとう、
って素直に喜べばいいやん。
可愛いねって言われたら
ほんと?すごく嬉しいって笑えばええやん。26歳になってそう思えるようになってきた。
それは26歳になって、ある程度
大人になってきて、褒められた時に
いやいや、って否定するのは面倒な人間だなとかそんなことを思ったり、褒めた側だって別に何かを期待して褒めたとかすごく考えて褒めたわけじゃないんだから、そう?ありがとう!嬉しい!って素直に喜んでおく方が可愛げがあると思えた。
それに、Lくんに、「何もしてないのに謝られてばかりでこっちが気が悪くなる」と言われたし、ゆうこすや最近の影響力ある、可愛い子たちはみんな、自己肯定感を高く自分で保ち、可愛い、もっと可愛くなる、とキラキラしている。それがとても素敵だなと思ったし、
あの、自分のことや家族のことを卑下し、謙るのが良いみたいな日本の古き習慣のようなものは、どんないいことをもたらすのか正直昔からわかっていなかったから。だからやめた。
やめようと思って「可愛い」とか
「素敵ね」など、褒められたら必ず「ありがとう」を言う癖をつけた。
少しずつだけれど謝る癖がなくなって、自分で自分のことを可愛がれるようになった。そして友人や今の職場の子供たちに褒められたときに、「わあ、嬉しいありがとう」なんて笑顔で言うと、「私可愛いと言われたら、否定しないの」と断言すると、ええー…と引かれるが、周りの人に私を卑下されても、周りの人に悪口を言われても私は「ありがとう」をいう。
だって、自分のことを自分で否定してしまったら誰が肯定してくれるの?自分で否定した後のそのマイナスな感情や負のエネルギーは、自分自身で片付けなければならないのよ。
それに、25過ぎて私なんかとか、
私なんて、とか言ってる人の方が
みっともない気がしたの。
でも、そういう強さを身につけられるようになるのはね、人間関係にもまれはじめて20年くらいして、若くなくなってからなのよ。
よく、痴漢とかも”おばさんばかり、痴漢されたとかなんとか騒ぐ"とかいう輩がいるけど、若いうちは、痴漢されたときに痴漢されたって声を出すのが怖いの、嫌なの、知られたくないの。そういう人が多いの。きっと。もちろん、最近は、ちゃんと強く言えるようになってきた若い子たちが増えてきていいことだって思う。それに、昔の価値観が「可愛いと自分で言うなんて」とか「身体をちょっと触られるなんて昔はよくあった」とかなんとかね、そんなのを昔はそんなことで騒いだりしなかったとかなんとか言われたってね。それは昔のその価値観や常識が間違えてるのよ。もしくはもう昔じゃないんだから。時代が変われば価値観も常識もルールも変わるの。
痴漢もセクハラもみんな昔から嫌だったと思うわよ、ただ世の中の風潮が、そんなことくらいって勝手に軽く見ていただけなんじゃないかしら?
それと同じで、昔が、勝手に
「自分のことは下げてなんぼ」
「自分からできるだの可愛いだの言わないことよ」とかさ。
ぶりっ子なんてずっとはぶられてきたわけでしょ。現に男の子の前でもじもじしちゃったら私もぶりっ子とか言われたことあるし、逆にかわいこぶる子をぶりっ子〜なんて言ってからかっていた時代もあったけど。
ぶりっ子がやっと認められたじゃない。それも強さであり、したたかさという能力であり、しなやかだって、まあ、頭のいい、周りを貶さないぶりっ子に限るだろうけど。
でもね、長年の、それも20年かけて
構築された「あの子は世の中的にチヤホヤされる可愛い子だけど私はそういう見た目じゃないみたい」という心の奥に頭の奥に埋め込まれた価値観はちょっとやそっとで変わらないの。だから私も、愛されたくて、愛して欲しくて、可愛いと思って欲しくて、でも、怖くなる。相手がどう思っているのか、好きな人にどう思われているのか、怖くなる。
そういうものを、解き放ってくれた漫画が、原作者白井カイウ先生と作画家出水ぽすか先生、
約ネバの作者2人による
miroirsだった。
ミロワール
この作品は、ガブリエル・シャネル
(愛称:ココ・シャネル)の
人生やクリエイティビティにインスパイアされた描きおろしも出版されている。
世界を代表する
ラグジュアリーブランド、CHANEL
そして、その創業者
ガブリエル・シャネル
週刊少年ジャンプを代表する気鋭の漫画家白井カイウ・出水ぽすか(「約束のネバーランド」)がその人生と哲学に触れて描く珠玉の短編集
本の裏表紙にはそう説明されていた。
シャネルの生き方を、現代の東京を舞台に、3名の登場人物の短編で描かれる。
miroirs
miroir(ミロワ)は、
フランス語で「鏡」。
その複数形miroirs
(正確な発音では「ル」ではないが
「ミロワール」)
白井先生は、
ガブリエル・シャネル自身の多面性を
何枚もの鏡に見立ててこのタイトルにしたそう。
N°1 Sorcières -魔女-
物語の世界が好きな少女ココ。
本の中には様々な世界が詰まっていて、扉を開くと何でもあってなんでもできて、そして何にでもなれる。遠い場所にでも昔にも行けるし、お姫様にもなれる。そんな風に本を楽しむ少女、ココの母は夜遅くまで働いていて、ココは外で親子3人で楽しそうにする子をみて家の中で1人で過ごしていた。
ー 私はキラキラじゃない 無敵じゃない でも 想像の中でなら私以外の誰かになれる 物語の中でなら ー
(pp.12-15)
そんな少女は夢の中でドレスアップして社交界にいて、そこで"ハサミの魔女"と出会う。ハサミの魔女が口紅を取り出しココに塗り魔法をかけるとココは大人に変身する。すると、ココと共に裾が長くなって大きくなったドレスをみて魔女はこういう。
ー 裾が長い 袖が邪魔 襟がダメね
そのドレスはあなたには古すぎる ー
(p23)
そう言ってハサミの魔法でノースリーブでミニスカートでVカットのドレスに変身し、最後に魔女はN°5を振りかける。
ー これはあなたの物語よ ー
(p.32)
夢から覚めたココの部屋にはCHANELのN°5の香水があり、彼女は振りかける。
ー ゆめじゃない 私は無敵
これは 私の人生 ー
(p.34)
ワクワクした。私は香水は
もっぱら、イヴ・サンローランの
MON PARIS派だし、まだ、
N°5は使っていないけれど、
香水はとても好きだし、自分の好きな香りを纏うとか、憧れのものを、大人のものを身につけ、纏い、それに見合った人間になろうとするその感覚やワクワクする感覚はとてもよくわかる。
N°5を纏った少女は間違いなく
無敵だ。
N°2 Menteuse -嘘つき-
人は見たいものを見る
(p.40)
主人公は大学生のミユ。
合コンのたびに化粧と服装とカラコンで全くの別人になる。
2章の最初に描かれる男性たちはこう言っている。
好きな女性のタイプ?
A:強くてロックな子
B:古風な子
C:前衛的な子
D:守ってあげたくなる感じの子
E:嘘がない子
A・B・C・D・Eはそれらの後に
「君みたいな」という。
しかしそれは、すべてミユが毎回設定を作ってお化粧と衣装でつくりあげたもの。
人は、自分の見たいものしか見えていないのがよくわかる。それらが全てミユが作り上げた設定など知っている友人は彼女に「大嘘つき♡」と笑う
ミユは、場面場面で毎日異なるメイクと服装で自分を着飾って作り上げ、毎度男性に好意を持たれる。
あらゆる人に告白されるが、トキめかないのよねと思っているミユ。そしてある日の合コンでタイプの男性を見つけるが、
「ねえ!私のどこをいいっておもってくれたの?」ときくと、
男性は、「話しててすごく楽しいしでも一番は…女の子らしくて可愛いところかな」という。
結局この人、本当の私を見抜けないのだと思うと冷めた。
ー カレシなんてつくっても
重たいだけ 私は自由でいたい
気まぐれでいたい ー
(pp.56-57)
そう言い聞かせて、彼女はライダースに黒パンツで(おそらく彼女の好きな格好でメイク)でシャネルのN°5をふりかけてバイクに乗って街を走る。
すると街ですれ違った男性に声をかけられる。その男性は、合コンであまり目立ってはおらず冴えないと思っていた人。しかし彼は、合コンの時とは全く異なる顔格好の彼女に気づく。
「すごいなぁ ぱっと見こないだとまるで別人だぁ」(p.64)と笑った彼は香水が一緒だったから分かったという。
「服も化粧も違うけど全部八千代さんだ こないだのも似合ってたけど今日のもカッコよくてすごくいいよね!」(p.66)
その言葉に、彼女はひた隠しにしてきた本音が心の中に溢れる。
ー 自由でいたい
自分らしくいたい
枠にはめられるのは嫌
「○○な子」なんて一言で言えるようなわたしはそんな整然単純じゃない
みんな見たいものを見る
目の前の私じゃなくて
知ってる何か見たい何か
私に何かを映してくる
姿を変えるのはそれが好きで楽しいから
でももしかしたらそれだけじゃない
私は私を見てほしかったのかも
自分の見たいものを映した誰かじゃない本当の私を ー
(pp.66-68)
姿が変わっても見つけ出した彼に、
本当の彼女を知ってくれるんじゃないかと思えた彼にミユは本名を伝えバイクの後ろに乗せて走り出した。
ミユは、ただ好きで自分の思い描いた誰かになれる”おしゃれ"を楽しんでいただけがいつからか、その外見の自分に勝手にイメージが先行して、見ている彼らの理想やイメージが自分に押し付けられていくことに苦しさを感じていたのだろう。しかし、それはもともとは彼女が楽しさから演じていたものなのに、いつのまにそこに、見た目に、つくりあげたキャラクターに勝手に付随してゆく彼女への理想の押し付けに息苦しくなって、素のままを見つけて欲しいというおもいがあったのだろう。
いつもの香水、N°5を身に纏った彼女は、作り上げている自分とは全く違う好きな格好をしても、自分を見つけ出してくれた彼と街を走り出す。
N°3 Corneille noir -カラス-
N°2もとても好きだけど、私は
N°3のストーリーが、約ネバ作者の白井先生の真髄で、設定も主人公も台詞も琴線に触れて好きだった。
ー 気に入らない この顔 この体
だって僕は男だから ー
(p.75)
主人公の男の子・黒岩麦は、
高3になっても身長も伸びず筋肉もつかない。そのことにひどくコンプレだクスを抱えていた。
「かわいー 女の子?」と言われるたび、苦しくなっていた。
似合わない学ラン 制服 流行の服
クラスで僕だけが中学生みたいだ
いくら牛乳を飲んでも伸びない身長
いくら筋トレを重ねてもつかない筋肉(p.76)
彼はコンプレックスだらけで、
同級生の背が高く、筋肉があり、
足も速く、スポーツもできる自信のありそうな同級生をみては、劣等感を募らせる。
ーキライだ 貧弱な自分
見たくない 見られたくない
聞きたくない 聞こえたくない ー
(p.79)
他の同級生と比較しては落ち込んで
息苦しくなる。
ー 息苦しい この世界は
僕一人色がない ー
(pp.80-81)
学校をサボった彼は街で絵を描いていると転入生の白鳥に「え めちゃくちゃうまいじゃん 黒岩くん」「すっげえ やっべえ 超かっけえ」と声をかけられる。
彼は、黒岩の絵をみてくれた。身体ではなく、見た目ではなく才能をほめてくれた。素直に。
白鳥くんは頭も顔も性格も良くてクラスの人気者で、周りに「好き」が溢れているような子。どんな服を着ても似合うような男の子。そんな彼と自分を比較して再び卑屈な気持ちになる。
「俺は俺だから似合う服を着たいし俺にしか着られない服を着たい」(p.88)
「生まれ変わりたいのに」(p89)
そう笑った白鳥くん。
身体が細い黒岩はメンズサイズの服を着られない自分が悔しくおもう。
「女の人っていいよな 女の人の方が服の種類は圧倒的に多いじゃんカッコイイ服 カワイイ服 キレイめの服 スカートも穿けるしパンツも穿ける 女性服自体の種類がまず多い その上女性はメンズの服も普通に着られるじゃん」(p.92)
うーん確かにわかる。
「スカートなんて穿いてみろ 即不審者か女装扱いだ」(p.92)
黒岩くんの言葉で、兄のことを思い出した。私の兄は175cmくらいあって、筋肉があるがすらっと細い。アパレルで4年間アルバイトをしていたのもあってなんでも着こなすけれど、昔から特に女性ものの服を着ていたし、着こなしていたと思う。兄はスカートみたいなのも穿いていたし女性ものも着こなしていた。私はそれを見て中学生から「おしゃれだなあ」と思っていたが、ある日、私が19歳かそのくらいの時に兄がいない時に、父が洗濯物を畳んでいて、私の服の中に兄のものが混ざっていたから私が「これはお兄ちゃんのだよ」と返すと兄の服装についてこう言った。
「え?これ女物でしょ?あいつおんなものなんか着てんの?オカマにでもなるんか」
困惑が混じったような感じではあったがふざけて笑ったような感じだった。その時私が真っ先に感じたのは、不快感だった。当時はまだ2010〜2013年とかそのくらい。ジェンダーレスなんて言葉はまだなかったし、ジェンダーについての理解もこんなに進んでいなかった。だから私も、そういう「社会学的な怒り」を感じたのではなかった。いや、まだ理解できていなかったから言語化されなかっただけかもしれないけど、その時の不快感は幼稚園や小学生の時から少なくとも感じていた、、
小さい頃から「女の子なんだから」「女のくせに」と言われてきたのはずっと不快に思っていたし。今まで自分自身に向けられたそうした言葉を、それを初めてはっきりと、他人に向けられたことで怒りや悲しみや窮屈さを感じたのはこの時だった。ジェンダーがどうとか、そんなこと考えなかったけどただただ、
なぜ、男性が女性モノを着るのがそんなにおかしいのだろう?お兄ちゃんは細身だし、脚長いしすごい着こなしてて素敵じゃん。別に私もジーンズやショーパン履いてるし、スカート履いたって女物着たって、その人が好きならよくない?お兄ちゃんには似合ってるし。それに、別にスカート履いたってワンピース着たって誰に迷惑かけるわけじゃないし。
それが最初に浮かんだ言葉だった。
今もこの気持ちは変わらない。
誰かに直接迷惑をかけているとか、
危害を及ぼすとかそんなことじゃないなら、別に好きな服を着て好きにオシャレしたりメイクして何が悪いんだろう?
あれから10〜12年ほど経って、世界はずいぶんジェンダーにも、着る服にも許容が生まれてきた。けれど、依然として私たちの世界は、まだ少しそれまでの自分の経験から基づく偏見や、違和感から抜け出せていない。
小さい頃、専業主婦の母の姿を見て
息苦しそうで嫌でバリキャリに憧れていた。スカートよりパンツが好きだった。兄と弟に挟まれて女の子、娘、孫娘の役割を押し付けられてる感じが嫌だった時がたくさんある。
「女の子なんだから」
「女の子なのに」
「女のくせに」
幼稚園児の時からその言葉がキライだった。言われるたびに、怒った、、
そして社会の中の女性という役割から解き放たれるために中高は女子校を選んで中学受験をした。女子校に行くために勉強をして中学受験をした。
女子大は個人的感覚としては
中高女子校とは全く異なるものだと思っているのでここでは女子校とは、
中高だと思って欲しい。(正確に言えば、女子校も学校によって随分と異なる人間が形成されるが、少なくとも高校まで共学で大学が女子大の人と中高が女子校の人はまるで違う人間が形成されていると感じるから、中高を女子校で過ごした人を"女子校"として欲しい。また、男子校については行ったことがないため男性については省く)
女子校は「人」がつくられ
共学は「女」がつくられる。
これが、共学中高出身の友人と
女子校出身者を見ていた感じる一番の違いを表す言葉だと思う。
女子校において、男性教諭などの職員以外には、特に私たちの時代にはまだ基本的には「女性」だけしかいない世界だった。この世界においては、全員が同じ性別なのだから、先輩後輩を含めた同世代との学校生活だけに限れば、女性しかいないから、「自分は女性で」も認識する機会がほとんどなかった。誰と話していても基本的に「人間と人間」になるのだ。
私はこれを大学に入って共学に行き、また共学で生きてきた人たちの、「男性性」「女性らしさ」「女性だから」という言動行動を見て気づいた。同じ性別しかいない女子校生活において、性別役割分担を経験する機会はなかった。共学出身だというある友人が
「中高のとき、男の子と一緒に帰ってて」だとかバレンタインの時に赤い糸がどうとかのイベントがあってとか話しているのを聞いて、この人たちは男性という存在があって認識できる“女"として扱われ、“女"として育ってきたんだ、と思った。小学校までと大学以降を共学または女性以外の人と生きている私は、中高という多感な時期に「女子校」という社会で「女」ではなく「人、人間」として育ってよかったと思っている。女子校社会の中では、女らしいも男っぽいもあまり言われないことが多いと思う(学校にもよるけど)、だって分ける必要もないし比較する相手もいないし。みんな人だった。
多分小さい頃からそういう感覚を欲していた。だから、「女の子なんだから」と言われることにずっと嫌悪感を抱いていたし女子校に進学してよかったといまでも人生の最も良い選択だと思っているし、親に「女の子なのに」「女だから」と言われることに小さい頃から息苦しさ、生き苦しさを感じていた。
そんな私は、この漫画の
ー 「息苦しい 僕が”男らしい"体格で“男らしい”顔で生まれて来られてたらそんなこと何も気にならないのかもしれない ーだけど僕は息苦しい」
誰も口にしない 強いてはいない
でも感じる無言の圧力 “男らしくあれ"紋切型の“男らしさ" 反吐が出る クソ食らえだ
「自由なはずなのに 世界はもっと広いはずなのに 見えない壁があるみたいで」 息苦しい
「生き苦しい」ー
(pp.94-95)
この場面のこの、
「息苦しい 生き苦しい」という言葉遣いをみたとき、小学生の頃、中高生の頃、日記に「息苦しい。生き苦しい」と書いた自分の言葉と全く同じで共鳴して、嬉しかった。
この漫画をとても気に入ったのは、
この「息苦しい 生き苦しい」の二言に限るといっても過言ではない。
小さい頃から「女の子なんだから」
と祖父母に、親に言われるたびに感じていたこの言葉の感覚を、兄の服装について父が言葉を吐いた時の憤怒とも悔しさとも悲しさともつかないあの感情に、「生き苦しい」という言葉を用いてもがいて、だから私は長年active suicidにしろ、 passive suicidにしろ考え続けていたんだと思った。
けれど、世界は私が幼稚園児だった時、小中学生だった時よりずっとずっと進んだ。やっと、球はあるけれど、世界の人々の許容は少しだけ広がった。
この漫画では生き苦しい、ヘドが出ると吐いた黒岩麦に、白鳥くんが
「よし じゃ俺たち二人で
スカートを穿こう」(p.96)
「見えない壁をブチ破るんだよ
世界がヘドなら変えないと 男が男としてスカート穿いてカッコイイ
それを俺たちでやってやるんだ」
(pp.96-97)
という。
こんな考えできる黒岩くんは、まだ柔らかくて脆くても間違いなく強くなれると感じた。
彼は自分も息苦しいからブチ壊したい、"自由"を勝ち取りに行こうと。二人は学校をサボって、ただ楽しいと感じながら女性服だとか自分は男だとかそんなものにまとわりつく偏見か何かを、いや偏見なのかもわからないけど何かを壊したくてただ楽しく服を選んだ。
ー でも楽しかった 今はここには壁も息苦しさもない 世界は広い もっと自由だ 手に入れろ 変えろ
ブチ壊せ ー
(pp.99-100)
スカートを履いて街中を歩いた二人は。今までと違うことをした、何かを壊したその快感とともに
「壊せる 勝ち取れるんだ」と感じる。
制服を捨てて
「俺一生忘れない 今日二人で選んだ服大切にするよ」(p.107)という白鳥くん。
翌日、白鳥の家は一家で夜逃げしたと騒ぐ同級生。やっと得た友人を失って困惑する黒岩に同級生が、昨日二人がスカート穿いて歩いてたと言いざわめく。黒岩は再び息苦しさを感じる。その時透明な壁に囲まれて苦しんでいる白鳥の姿が浮かぶと、黒岩は白鳥のことを想像して、頭の中の白鳥に、そして自分に
ー 自分ではどうにもならないことで人生が決められる 嫌だよね
壁は何度でも生まれるし現れる
なら僕は壊すよ 何度でも 大丈夫 変えられる 勝ち取れるから どこにいたって 何してたって僕たちは
自由だ ー(pp.114-116)
そう唱えて堂々と答える。
するとなんと同級生たちは
「カッコよかった」という。
生き苦しいと壁を感じていた彼は、自分で作り出していた見えない壁を壊したら、周りの人笑っていた。
多分、もちろん生き苦しさは間違いなくあったし、偏見もあったけれど、それによって壁を作って必要以上に、他人にも言われていない何かを想像して息苦しさを彼自身も作り出していたのだろう。
自分の手で壁を壊した黒岩は、
人と違っててイイと思えたことで世界への生き苦しさから自分の力で脱したし、他者から押し付けられていると感じていた、いや確かに押し付けられていた“偏見"に、だから何?と言える強さを身につけた。彼は強くなったのだと私もわかった。
物語の最後、自信に満ち溢れている彼は、電子機器で絵を描きながらこの学生時代のことを思い返して、
ー ”気に入らない" 世界は“キライ"で溢れてた でも今は違う 案外キライじゃない 人生は楽しい 人と違っていい カラスはその「黒」がカッコイイ ー (pp.118-119)
その言葉の意味が26〜27歳の間に、人と距離を取り、自己と他者を分けて世界を見つめ直し続けた私にはずっと溶けた。
これまでて読んだ漫画の中でも
突出してこの作品のコンセプトが好きだった。
さまざまな方に是非読んでいただきたくて随分多めに紹介しました。大人になって少し強くなって、女だからとか、そんなことに悩んでいた私はさまざまな自己の葛藤や周りとの摩擦に悩みながら、今は私は私と切り離して思える年齢まで成長した。
白井カイウ先生、出水ぽすか先生、素敵な作品を産んでくださって本当にありがとうございました。たぶん、漫画の中でこれからもかなり好きな作品になります。
最後に
miroirs(鏡)について少し書きたい。
人は、自分の顔だけは決して見ることができない。鏡に写した、写真に撮った鏡像でしか認識できない。以前に、桜の記事でも書きたが
「他者」という存在無くしては
「自己」を確立できない。
今回漫画を読みながら、それぞれの登場人物が、自問自答している「私」と他者から見えている「私」、鏡で映る「私」が印象的に描かれていて、けれどその、ソシュール的にいう「I (他者の存在は不要な、固定されたシニフィエを持たない概念:発話する話者によってその言葉が示す対象は異なる)」、
「me(他者がいる時にしか使えない、他者や客体の存在を前提とした目的語としての私、先程の例えで言うなら鏡に映って見える「私」)」を
強く、明確に描き出した作品だったように思えた。
白井カイウ, 出水ぽすか. (2021).
『miroirs』. 東京:集英社