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「蘇った父」~20年前に亡くなった父がある日…~掌の小説①

 母はショートケーキを食べていた。苺は皿の上に無造作に置かれ、クリームだけを何度も何度も口に運んでいた。能面のような顔に笑顔はなかった。   
 母が認知症と診断され、介護施設に入居したのは約三カ月前だった。

「おやつの時間はもう終わったのですが」
 職員はそう言いながら、私と一緒に食堂に入った。母の肩に手を置くと、「息子さんが来ましたよ」

 彼女は母に向かって、少し大きな声で呼びかけた。口元に付いたクリームを拭きもせず、母は私を怪訝そうに見つめていた。
「こんにちは。どなた様ですか?」 

 真顔で話しかける母に、私は言葉を失い、ただ茫然と立っていた。
 母の居室には、実家で使われていた桐の和箪笥が置かれていた。環境の急激な変化が、認知症の進行を早めてしまうために、なるべく以前と同じ住環境が良いのだという。 

 引き出しの一番上には母の着物があった。和服の間に、古びた茶色い封筒が隠すように挟まれていた。マジックで大きく「邦雄からの手紙」と書かれていた。邦雄は私の父の名前だった。父は二十年前に亡くなっていた。
「母さん、この手紙を読んでいい?」 

 居室は私と母の二人だけだった。母は私を施設の職員と思っているのだろうか。母はベットに腰かけながら曖昧な返事をした。
 父の手紙は母への愛情で溢れていた。最初は黙読していたが、母の症状が改善されるのかもしれないと思い、大きな声で読み上げていた。
 
 施設のゲストルームに一泊して、翌日には実家に戻るつもりだった。居室を出る時に、父の手紙を箪笥の中ではなく、母に直接手渡した。〈読んでほしい〉という思いがあった。 

 翌朝、私は母の居室に向かった。ドアをノックして入ると、母の満面の笑みで迎えられた。今度は他人ではなく、息子として理解してくれたのだろうか?「おはよう、邦雄さん」 父が蘇った朝だった。