デュシャンと決意
マルセル・デュシャンは、1956年のジュアンマイユーヘの手紙の中で、作品はそれを眺め、読み、喝采によって、あるいは逃避によって、長生きさせる人々によって、「全面的に」作られる。と述べている。思想もそうであろう。結局のところ私が意図したものは横へと逸れていき、私が意図しなかったものが伝わっていくのだろう。デュシャンはそうした状況を嘆いてか喜んでか、芸術の成立にまだ芸術家は必要か、と言ったそうである。
芸術は3つの物によって成り立つ。芸術家・作品・鑑賞者がそれである。傲慢な芸術家は自分の意図を作品を通して鑑賞者に伝えようと躍起になる。私のイメージ、思想、意見。だがそれが伝わることはない。いつもそれらは逸れていき、思いもよらないものが伝わって「しまう」。多少謙虚な芸術家は自分の意思を作品に反映させようと真剣になるかもしれない。自分が思い描く色、線、削り跡。だがそれも完全に伝わることはない。私が思い描くような色は調色できないし、私が振り下ろしたのみは逸れていく。そうして思いもよらない作品ができて「しまう」。私の意図などというものは、鑑賞者はおろか作品にさえ伝わることはないし、私が空想した作品はいつまでたっても目の前に現れることはない。他者との対話。作品との対話。その対話のキャッチボールは永遠に逸れ続ける。思えば芸術の歴史などというものは、そうした対話との挌闘の過程ではなかったか。儀式画、肖像画、宗教画。目の前の人物はいつまでたっても肖像画の中に立ち現れることはないし、鑑賞者にモチーフを伝えることはない。どんなに素晴らしい宗教画であっても描かれた奇跡的瞬間が他者の前に再現されることはない。それどころか、作品は鑑賞者によって恣意的に解釈されていく。いや、そうなるともはや芸術家や作品などいらないのかもしれない。空があり、風景がある。それを見て心動かされる人がいる。それで十分ではないか。美術館に署名入りのトイレでも置いておけば、鑑賞者がかってに解釈してくれるだろう。それが芸術ではないか。ほら、やはり芸術に芸術家は必要ないのだ。
私はライオンである。檻の中にいるライオンである。私にとっての肉は、目の前に差し出された加工された薄赤色の塊でしかない。それを檻の外のライオンに伝えることなど不可能に違いない。彼らにとっての肉は、草原を飛び回る兎であり、鹿なのだろう。檻の外のライオンと理解しあおうなど、土台無理な話だ。それぞれの象徴が違うのだ。私たちは分かり合えない。だが、私たちは人間である。人間は、自分の経験と共に言語を学ぶ。自分にとっての車は父親が乗っていたライトバンかもしれないが、それと同時に母親が指差しでそこを走る鉄の塊もブーブーだと教えてくれる。私たちは見知らぬ人と出会ってもそれを肌色の塊だなどとは思わない。素晴らしい私の脳みそが、経験からそれを「人間」だと判断してくれる。
人間は過剰である。生まれたとき、多くの場合明確な意識はなかった。それがいつの間にか意識を持つようになっている。最初は肌色の塊に対して脳神経が反応しているにすぎなかったものが、人の顔として認識され、その顔に対する好みが生まれている。言語体系や社会的慣習の中に巻き込まれて、質が、どこからともなくやってきている。生まれたまま、動物的なまま生きていければよかったのに、何も考えることなく生きていければよかったのに、なぜか意識を持ってしまっている。過剰で余分な意識というものを、いつの間にか抱えてしまっている。
子供は表現できぬ「この痛み」という空虚を埋めるために叫び、まさしくその叫びは言語となる。どこが痛いのかという他者からの呼びかけに応じる形で、息を吐いてしまうという自然な反応が、身体性が、その言語体系に同調し、順応され、取り込まれていく。言葉以前の感覚的な実存を、ただ口の中の空虚を埋めるために発せられた叫びを、すでに生まれていた他者は、親は、言葉という法でつながれた世界へと縛り付ける。頼んでもいないのに、言語体系の中に巻き込まれ、いつの間にか意識は後からやってきている。いまや白紙の身体は汚されてしまった。言語以前の感覚を、言葉をもって再誕させようとする試みは失敗する。意識は、言語は、常に後からやってくる。環境が、実存的感覚が過ぎ去った後で、その空虚を埋めようと無限に反復している。脳神経に電流が走った後で、その残響だけが言語としてむなしく響いている。
だから言語なんてたかが知れていると笑うだろうか。世界から私たちは疎外されて、どんなに言葉を積み重ねてもそのもののわきへとそれて、物自体へは到達しないのだろうか。誰とも分かり合えず、世界からは疎外される一方で、芸術などやらないでおいしいごはんを食べて笑っているほうが幸せなのか。
そんなことはない。そんなことは認めたくはない。別に言語などなくたってかまわない。誰かに伝えようとしなくたって構わない。芸術は何も意図を伝えるために存在しているわけではない。たとえ思い通りにならなくても、いや、思い通りにならないからこそ、粘土をこね、キャンバスに向かうことが楽しいのではないか。自分にとってのライトバンを思いきり描けばいい。思い通りにならなくたって気にすることはない。一生懸命描いたその作品が後で他人の「車」観を揺さぶることがあるかどうかなんて知ったことではない。いまここにおいて、全力で制作すること。それもまた芸術であろう。デュシャンが言うような作品と鑑賞者の間に成り立つ芸術関係など、後の話ではないか。確かに、作品ができたら、その瞬間に作品は自分の手を離れ、鑑賞者が芸術を「全面的に」掌握するかもしれない。でもそんなのは後の話だ。後から鑑賞者がどんなにその作品解釈を修正していったってかまうことはない。いまここ、製作を行うこの場において、私と作品の間に芸術はあるのだ。
最初に洞窟に絵画を描いた私たちの偉大な祖先ははたして誰かに伝えるためにそれを描いたのだろうか。何かの儀式のためにそれを描いたのだろうか。目的があってそれを描いたのだろうか。きっと違うだろう。背後で燃え上がる火の光が落とす自分の影に動物たちの躍動を見たのではないか。それを楽しんで描いたに違いない。勿論、完成した後は二度と動物がその絵に立ち現れることはなかっただろう。自分が空想する通りにその絵の鑑賞者が動物を空想することもなかっただろう。だが、自分にとって、それを描いているその瞬間において、確かにそこには動物の力強い運動が見えていたに違いない。
私にとって芸術も哲学も同じである。哲学も、それに熱中しているときは非常に楽しいものだが、後から眺めるとその時の熱は色あせる。私は何に熱を出していたんだと冷ややかな気持ちになる。また、自分の思いがその通りに他者に伝わることもない。どんなに言葉を選んで書いても話しても、必ず逸れていく。つまらないといわれることもあるし、何を馬鹿なこと言っているんだといわれることもある。非常に熱心に聞いてくれていると思ったら全く違う理解をされていて驚きあきれることがある。だが、描くのを止めてはならない。考えるのをやめてはならない。人は離れていくかもしれない。後で無駄なことをしたと思うかもしれない。でもそんなことは関係ないのだ。私は、両親にも、多くの友達にも、先生にも、なんで美術などやるのか、なんで美大にいって哲学書など読むのかとさんざん言われてきた。そして多くの人が私のもとを去っていった。もしかしたら自分は危ないことをやっているんじゃないかとそのたびに不安になった。何を言われても自分を貫いていくやつを見ると憧れと悔しさで胸がいっぱいになった。今こうして書いている文章も、後で振り返って恥ずかしい気持ちになるんじゃないか、みんなに伝わっているのかと不安が尽きることはない。でもここで放り出してはいけないのだ。今私はここに書ききれなかったことがたくさんある。私が考えられていないことがあまりにも多くある。私が経験していないことが、私の思い「以外」が、世界にあふれている。でもそんなことはいまは忘れよう。あとでいっぱい思い出して、恥ずかしい思いをすればいいのだ。
私は以前、非凡な発想をしようともがいていた。哲学は私に、非凡な発想をしようとすることほど平凡なものはないと教えた。その過程で、いくつかの思想に興味を持った。一時は夢中になって本を読み、またそれがいかにものの見方を変えうるかと躍起になったものだ。ばかげた話である。なかでも私が好んだのは、神秘主義であり、ウィトゲンシュタインであり、プラグマティズムであり、エラン・ヴィタールであり、西田幾多郎であり、器官なき身体であり、分子革命であり、ヘルダーリンであり、ゲーテであり、差異であり、反復であり、コナトゥスであり、四肢構造であり、統合失調症であり、自閉症であり、発達障害であった。その時々でときめいた思想の半分は記憶もあやふやで、今やその輝きは失われている。今思えば、私が自分の進路を決めたとき、他人と分かり合うことはできないとおもいながらも、心のどこかで分かり合えるのではないかという期待があったのかもしれない。今のところ、分かり合えている気はしない。いや、そもそも私は他人に興味がないのかもしれないし、興味がありすぎるのかもしれない。ただ終わりのない、壮大な自分探しをしているだけかもしれない。だがそれでも、私の心が躍動し続ける限りにおいて、私は描き、書き、話し続けるだろう。掘り進めていった井戸の先で、他者と出会うこともあるだろう。最後になってこんなことをいうのもあれだが、この文章は何ら哲学的深みを持たないように見えるだろうし、厳密じゃないという批判もあるだろうし、もはや勢いだけのものに見えるかもしれない。実際そうである。私は別に何か精神病ではないし、なにか資格や地位を持っているわけではないし、特別知識があるわけでも、神秘体験をしたわけでもない。ただ、これはどうしてそんな私がそもそも伝わりようがないものをを息せき切って描いていかなければならないのかということに対して、私自身を納得させるための、そして、どうしてお前はそんなに顔を真っ赤にして話すのだと冷笑される方々に対しての、私なりの、幼稚で稚拙な、反論なのである。
補論「大ガラスについて」
補論としてマルセル・デュシャンの作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』(通称「大ガラス」)を取り上げる。
私はこの作品が「他者の問題」に取り組んだものであり、そこに本作の最大の魅力があると考え、論を展 開する。さっそくこの「他者の問題」とはいかなるものか、その詳細を説明したいところであるが、なぜ 私がデュシャンはこの問題に取り組んでいると考えたかを説明することが、翻ってこの問題についての理解を容易にするとも思われるので、まずはその話から始め、その後問題の詳細の説明へと接続しようと思 う。さて、デュシャンは 1956 年 3 月 8 日にジュアンマイユーに宛てた手紙の中で「作品はそれを眺め、読み、 喝采によってあるいは逃避によって長生きさせる人々によって、全面的に作られる」と述べている。一般 に、作品は作者が制作し、そこには作者の意図が反映されていると考えられていることを踏まえると、作品の鑑賞者が「全面的に」作品を作ると述べるこのデュシャンの発言はなかなか強い主張であるように思える。もちろん「大ガラス」の制作が 1915-1923 年であることを考えると、この言葉に現れている主張が「大 ガラス」制作当時のデュシャンの頭にあったと断言することはできない。しかし、この言葉に限らず、 1934 年に出版された本作の制作メモである通称「グリーン・ボックス」や『マルセル・デュシャン書簡集』(2009 白水社)を読んでいると、いたるところにこの主張に近いことがかいてあるように私には思われた。 たとえ制作当時に彼の頭の中にこのような考えが全くなかったとしても、少なくとも後年に彼がこのような問題意識のもとに自作を振り返ったことは確かなようである。他にこのような考えを簡明に示す彼の言葉として、例えば 1957 年にアメリカの芸術連盟会議にて『創造過程』という題のもと発言された、彼自 身の概念である「芸術係数」に関する次のような発言がある。
「「芸術係数」は「表現されなかったが計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」との「算術的関 係」である。」
ここでいわれていることは先の「鑑賞者が全面的に作品を作る」という問題を分かりやすく言い換えてい ると思う。つまり、作品というものは制作者の意図だけでなく、「制作者が作品を通して伝えたかったが、 伝わらなかったもの」、逆に「鑑賞者が勝手に想像して伝わったと錯覚してしまったもの」によっても成 り立っており、そのことを踏まえるとむしろ作品というものは制作者よりも鑑賞者に帰属するのではない かというのが、デュシャンがここで伝えたかったことなのではないか。ここでしかし、制作者が作品と向 き合い、制作している段階、すなわち、作品がいまだ世に出ておらず、「今ここで、制作しているこの時」 では、そうしたデュシャンのような作品の定義は成立しないのではないかという反論が容易に想像される。 しかし、制作者というものは作品を永遠に作りつづけることができないものである限り、そして作品というものが制作者の頭の中の観念としてだけでなく何らかの形で物体として外部に形を持つものであり、他者の目に触れる可能性を完全には排除できない限りにおいては、確かにデュシャンの主張は正しく、作品とは「後世に」「他者によって」「全面的に」作られるのである。彼は『泉』という作品を 提出しているが、まさにこれこそ、伝えたいことのある制作者などいなくても、工業製品であっても、作 品は勝手に鑑賞者によって意味づけされ、解釈されていくのであるということの端的な証明である。工業製品のトイレ、道端の花、青い空、どれも制作者に意図などないであろう。しかしそれが「美しい」「感動した」などといわれ、鑑賞者によって切り取られ、解釈されるのだ。今日のインスタグラムに上がる無数の空の写真を見よ。制作者などいらない。芸術家など不要である。美しさとは、芸術とは、全て鑑賞者によって全面的に、「後世に」「他者によって」「全面的に」作られるのである。
そして、もう少し踏み込むのならば、この「後世の他者」というものは自分の中にも存在しているのでは ないか。程度の差こそあれ、基本的に全ての制作者は作品制作に没頭しつづけることはできない。先に述べた「制作者というものは作品を永遠に作りつづけることができない」というのも、なにも制作者には寿命があり、必ず死ぬから永遠でないというのだけではない。ここでいう永遠の不可能性というのは、制作者は「いまここ」において制作に永遠に没頭・集中することはできないということでもあるのだ。私も普 段は作品制作を行っているのだが、この考えは感覚的にも非常に納得できる。いわゆるゾーンに入り、制作に没頭しつづけることは稀に起こる。しかし、それを永遠に持続することは、私たちが身体を持ち集中 に限度があることによって不可能である。私たちは常に既にメタ認知をし、過去の自分を客体化している。 たとえ一時は制作に没頭しようとも、すぐに思考は「今ここ」から遊離して、未来や過去の客観視に入ってしまう。そうして直前の過去の自分を客観視するようになった時、すなわちゾーンが終わったとき、その時の私たちはある意味で「後世の他者」といえるのではないか。哲学者のデリダは死んでしまった他者 すなわち「死後の他者」を「幽霊」として哲学的主題にしたが、それだけでなく「後世の他者」すなわち「身体を持たない他者」=「生前の他者」を考えたとき、そこでは未だ現実に身体を持ったことのない他者 と向き合うことになるのではないか。あるいはそれはレヴィナスの「子供」というものなのかもしれない。 ここで慣用句的に自分の作品を「子供」と呼ぶ人々がいるということを思い出してほしい。「死後の他者」 と「生前の他者」の間、死の後、生の前、そこには何があるのだろうか。まだ現実に形をとらない、空想 上の「さくひん」と、完全に全面的に他者の物になってしまった「さくひん」の間、そこに最も身近な、 しかし物理的に形となり身体を持った最初の他者である、「子供のような」「作品」はあるのではないか。 整理しよう。没頭することと、未だ実体=身体を持たない自分の中の他者(「さくひん」)と向き合うこと(「メタ認知」)がある。そうした「今ここ」の没頭とメタ認知してしまったゾーン明けの状態を行き来し ながら初めて実体=身体を持った初めての「他者」である作品は生まれる。しかしそれは産み落とされた 瞬間から全面的に鑑賞者の物である。これが、自分の思考の内→具体的な形を持った作品→他者の全面的 な所有という、「後世の他者」の身体性の獲得過程である。このとき、鑑賞者の視点から見ると「作品」とは「死 後の他者=作者」の作品として受け止められるのである。その意味で、作品とは死後から生前そして生前から死後へと受け渡されるものなのだ。
さて、非常に抽象的かつ実際の作品から遊離した議論をしてしまったので、ここで今回取り上げる作品で ある「大ガラス」に目を向けよう。まず目に入るのは言うまでもなく大きなガラスである。ここでデュシャ ンはこのガラスという語を用いて印象的なことを「グリーンボックス」の中で言っている。
「[画枠に入った作品]あるいはパンチュール[絵画一般]という代わりに「遅延」という語を使うこと。 (・・・)意味の未決定な集合において。「<遅延>」──ガラス製の遅延」
ここで「大ガラス」は遅延なのである。意味の遅延である。意味を未決定のままとどめること、未完成の ままあること、「生の前、死の後」、制作者と鑑賞者の間に踏みとどまる作品であること。それが「大ガラ ス」なのである。しかしこれは具体的にどういうことか。すなわちガラスとは透明であり、常にその背後 を透過するものである。鑑賞者が作品を見るとき、常にすでに作品はガラスの透過により外界をそのうち に取り込んでいる。言うまでもなく、この外界は作品が置かれる場所・時間・時代によって変化し、鑑賞 者の視点によっても変化しうる。これが作品の意味を未決定のまま「遅延」させるということの具体的な内実なのではないか。もちろんあえてガラスにするまでもなく、作品は時間の中で劣化し、その時その時によって変化する。作品は本質的に未決定なのである。しかしここでデュシャンが行っているのは、その 作品の未決定性を極限まで表面化することである。なので、当然ガラスの方が採用されるわけであろう。 しかしとすると時間の中で劣化という観点はガラスでは表現しきれない。確かにガラスは作品が置かれる 場所・時間・時代によって変化する外部を取り込む作用を持つが、そこで表面化するのは主に作品が置か れる場所であって、時間というのはあまり意識されづらいのではないか。もちろんデュシャンはここにも手を打ってある。大ガラスは何も大ガラスだけではない。どうして「大ガラス」は大ガラスだけではいけなかったのか。10 年もの製作期間をかけて洗練されたからには、なにがしかの必要性があったから大ガラスの中に何かあるのだ。そこにあるのはまず、落下によって偶然できた亀裂であり、水の落下である。 落下とは、作為と無作為のはざまの状態をまさに時間的に表しているのではないか。時間的未決定性を表 すもの、作者の意図が攪乱されるもの、それが落下である。なお、デュシャンの落下への着目を示す作品として、『三つの停止原基』を上げることもできると思われる。
私は今のところこのように、『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』を考える。