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前世の記憶、ありますか?

「1000年前の記憶がよみがえった日本人男性。
最近は「自殺未遂をきっかけに1000年前の記憶がよみがえった日本人男性」が大きな話題となっているが、(以下略)」

どうやらこの世には、1000年前の記憶を持つ人がいるらしい。

1000年前と言えば平安時代。源氏物語の絵巻物の時代。
平安時代と現代の日本語は、同じ日本語でもかなりかけ離れているはず。前世のままならほぼ解読不可能だと思うのだが、そこは如何なのだろう・・・。
と、頭が少々「科学的」な私は前世ロマンをぶち壊しにするようなことを考えてしまうのですが、そこは「どうにかなっている」のでしょう!?

閑話休題。
日本人200人に、
「あなたは前世の記憶がありますか?」
というアンケートを取った、面白い組織があるそうです。
半分ネタで聞いたのかもしれませんが、結果は予想外なこと(?)に。

あなたに前世の記憶がありますか?回答者:200名
記憶ない 81%
記憶ある 19%

日本人の2割に、前世の記憶が残っているという結果が出ました。

「前世からの因縁かな・・・」
「僕達、来世で一緒になりましょう」
など、我々は「前世」「来世」などという言葉を多用し、日常会話で応用します。

これは、もうご存知の通り「輪廻転生」という考え方にもとづいています。
輪廻転生とは、死によって霊魂が身体から抜けてあの世へ還っても、何度でもこの世に生まれ変わってくることを言います。
これは生けるものすべてにおいて永遠に繰り返されるものとされるのですが、仏教においてそれから抜け出せる方法があります。
それが、一時はオウム真理教事件で使われた「解脱」です。
生きること自体それ苦しみ。輪廻転生している限りその苦しみは永遠に続き尽きることはない。しかし、悟りを開き解脱すると輪廻転生の輪から離れ、本当の自由となる。仏陀はそう説きました。
「解脱」の「解」は俗世間の汚れから「解」かれること、「脱」は輪廻転生の輪から「脱」けることです。

日本人が目口鼻のように持っている輪廻転生の考えですが、当然仏教からの思想です。なので、この考え自体インドが発祥と…
ところが、輪廻転生の思想はもっと西、世界四大文明のメソポタミア文明にさかのぼります。イスラム教や、それ以前のマニ教、ゾロアスター教のもっと前、中東の原始的な宗教には、輪廻転生の考えがあったと言われます。
現在のキリスト教・ユダヤ教・イスラム教に輪廻転生の考えは全くありませんが、中東に根付く原始キリスト教にはこれを信じる一派があるし、小説なのでフィクションではありますが、輪廻転生を強く信じるユダヤ教徒の一派が出てきます。
もっと現実的には、シリアに多いイスラム教の一派、「アラウィー派」が輪廻転生を信じるイスラム教徒の集団で、シリアのアサド大統領もアラウィー派の一人です。

最近、世界中で面白い光景が発生しています。
日本の漫画・アニメには転生ものネタがよく出現しますが、それを見た外国人がやれ前世だやれ来世だと言い始めているのだとか。
今でも輪廻転生が息づいている仏教文化圏、例えばアジア圏なら何の問題もないけれども、そもそも教義にそれがないキリスト教徒やユダヤ教徒、大多数のイスラム教徒まで言い出すと、その人のアイデンティティを形成する土台から崩れていきます。
まあ、ヨーロッパは我々が思う以上に無神論者がいるし、そもそも自分たちにはない考えとしてのファッションかもしれない。そこは若い人の豊かで柔軟な感性におまかせしましょう。

私の前世!?

では、こうして書いている著者の私はどうなのか。
私は、いちおう昭和史をライフワークにしています。昭和と言っても実質63年と長いスパンなのですが、その中でも昭和20年までの「戦前」が研究対象と言っていいと思います。また、大正時代も入っていると言えば入っている。

ここで、自分でも不思議に感じることがあります。
同じ「昭和」なのに、昭和20年以降のいわゆる「戦後」には全く興味が沸かないのです。明治時代も、「戦後」ほどではないけれどそれほど興味なし。

昭和史をライフワークにしているからと言って、昭和30年代がモチーフの「三丁目の夕日」には全然興味が沸かず、興味の対象に昭和20年~40年代がすっぽり抜けているのです。

もっとも近頃は、「己がリアルタイムに生きていた」昭和50年代以降にも興味のベクトルが伸びてきましたが、これは単に年を取り、その時代へのノスタルジーを感じるようになったからだと、自分自身では処理しています。

それが著しく顕著だったのは、少し前に放送していた連続テレビ小説「とと姉ちゃん」
主演の高畑充希さんがかわいくて目の保養…というわけではないのですが、久しぶりにハマった連続テレビ小説でした。戦前編・戦中編はほぼ一度も見逃しませんでした。

しかし、戦争が終わった戦後編になると、途端に見なくなってしまったのです。
別に話の展開が面白くなったのではありません。プチンと糸が切れたかのように、その後の時代に興味を失ってしまうのです。
昭和20年を境にくっきりと、見えない線が引かれているかの如し。理由は自分でもわかりません。

「何故こんなに『戦前』に惹かれるのか」

懐かしささえ感じるこの惹かれ方。これが私の中に潜む最大のミステリーです。

これは昔から、前世の何かと因縁があるのでは?と漠然と思っていました。
が、考えが比較的「科学的」な故に、そんなアホなでそれ以上追求はしていません。しかし、気になると言えば気になる。

そんな私の前世とやらの仮説を立ててみると…

私の前世はおそらく、明治晩期あるいは大正前期生まれ。場所は、場所的には大阪に惹かれることが多いので、たぶん大阪市内。
昭和一桁に青春期を過ごし、昭和20年前後、20代後半か30代前半の年齢で死亡したのではないかと。
死因は、時代が時代だけに、召集された末の戦死か空襲で死亡というのがいちばんソフトランディング死因ですが、あるいは結核などの病死かもしれません。

私にはある苦手なものがあります。それは破裂音。具体的には爆竹や鉄砲の発射音、クラッカー、ポン菓子(古っ)の破裂音、そして列車の空気警笛などが生理的にダメです。理由はありません、とにかく身の毛がよだつほどの生理的嫌悪感を催すのです。

こも前世からの因縁と強引に仮定すると、やはり戦争か、爆弾の直撃で亡くなったと考えられる。

そしてその29年後、私として再びこの世に転生したと。

もちろん、これは頭の中の理屈だけです。証拠出せと言われても、そんな無茶言いなさんなとしか言えません。
だが、こういう人生を「前世」が歩んだならば、若さ真っ盛りのピークである昭和初期の写真を見て、

「懐かしいな〜😇」

と思うのは無理もない。
私の歴史・昭和史への興味は、何者か知らない「My前世」が誘っているのかもしれない。「前世」がなし得なかった事を「来世」である私に託したい。自分の昭和史の旅は、「前世」にとっての自分探しの旅なのではないか。
当然ロマンティックな妄想ですが、妄想乙と片付けるには何か捨てがたいものがあります。

しかし、このどこに根拠があるのかわからないアンケートを見て、「前世説」もまんざらではないなと思ってしまいます。
前世が何者なのかはわからない。しかし、私の「前の人」はもしかして存在しているのかもしれない。意識はしていないけれど、私も「2割」に入っているかもしれない。
催眠術かなにかで潜在意識を浮き上がらせると、何かとんでもない過去の記憶が出てくるかもしれない。
しかし、わざわざパンドラの箱かもしれないブラックボックスを開ける必要もあるまい。しかし見たい気もする。うーん、なかなか難しい。


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