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(小説)ゆらぎ- あまりにもあいまいな - もうひとつの「三池争議」-前/後編全文
(小説)ゆらぎ
(前編)
- あまりにもあいまいな - もうひとつの「三池争議」-
-まえがき ・・・
戦後最大の労働争議、革命前夜とまで言われた「三井三池争議」、その敗北と、直後に起きた「戦後最悪の炭鉱事故・労災事故」と呼ばれた三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故・・それにより、死者458名、一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名を出しました。この大事故は、「三井三池争議」の帰結でした。
50~60年代に起きた、この一連のできごとは、その後の日本の基層を形作りました。
「総評」の解散→労働運動の御用化(「連合」)と政治の右傾化、石炭から石油・原子力(その而二不二としての「自然」エネルギー)へのエネルギの転換、世界的な「社会主義」の変質、そして、カオス・世界同時多発戦争の時代へ・・。
わたしたちは、どこに行こうとしているのでしょうか?
この歴史の陰で、労働争議、社会主義、そして、歴史に翻弄されたひとつの家族がいました。
その生き様は、
「近代化」とは何か?
「三井三池争議」とは何だったのか?
「労働運動」とは何か?
「社会主義」とは何か?
「三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故」とは何だったのか?
「50~60年代の日本」は何だったのか?
を問うのみならず、
「人間」とは何か?
「親子」とは何か?
「家族」とは何か?
「死」とは何か?
「生」とは何か?
「性」とは何か?
ほんとうの「愛」とは何か?
ほんとうの「誠実」とは何か?
「魂」とは何か?
・・・
を問い直すものでもあります。
前編では、「三井三池争議」前夜~三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故を一本の糸として、その糸の揺らぎに翻弄された、ある家族の姿を、「幼児~こども」の視点から表現してみたいと思いました。
2024.10.15
1. 花火
父は、珍しく酒に酔っていた。普段めったに飲まない人なのだが。
ゆったりと、父手作りの夕食を食べながら夏の花火を見た。
小さな町なので、自宅のデッキから海で上げる花火が見えた。地の利か、東京湾沿岸で上がる花火が、何カ所かで同時に見えた。横須賀、逗子、八景島、富津岬、上総湊、木更津、マザー牧場とかである。
私が生まれ育った浦安では、ディズニーランドの花火を毎日のように見ていて、花火そのものには特別な感情は湧かなかった。それと較べると規模は遙かに小さいのだが、田舎の漁師町風の風情があって味わい深かった。進行速度が違う。ゆっくりなのである。間が空きすぎていて、浦安だったらブーイングだろうけど、此処では、みんなノンビリ、次の花火が上がるのを待っている。
自分で建てた家の自慢のデッキの上で、夜の東京湾を眺めながら、娘と飲み交わすのは気分がよかったのだろう。ひょっとしたら初めてだったのかもしれない。父とお酒を飲むのは。
建築事務所の職場にも慣れてきて、父の別荘、いや父の家を訪問するのは久しぶりだった。美大の建築科を卒業して建築事務所に就職したのだった。やっと、休める余裕が出てきていた。
父は、私の母と離婚した後しばらくしてから、父の母、つまり、私の祖母の介護を理由に丸の内の職場を早期退職して、郊外に移り住んでいた。
ハーフビルドで、大工さんたちと一緒に家を建て、ギャラリー&カフェを営んでいた。都会ならともかく田舎町では、ギャラリーだけでは成り立っていかなくて、客にせがまれるままカフェも開始し、ランチまでも提供していた。
朝、未だ暗いうちから仕込みを始め、人気作家の展示の時など、閉店後も食器洗いなどで深夜迄立ちっぱなしで働くという生活だったようだった。
そんな中、私が訪ねるというので、臨時休業して付き合ってくれた。そんなオフの気分も手伝ってか、酔ったのだろう。
花火の後の満天の星空の下、遠くに漁火が瞬きしていた。
漁火のゆらぎを眺めながら、私の職場のことや、私の祖母のことなど話しているうち、父と祖父母三人の昔話になった。父は、ひとりっ子だった。
2. ひよこ
父、巧は、50年代はじめに、熊本県玉名郡の母の実家で生まれた。養鶏農家だった。
父の父、つまり、私の祖父健一は、もともと三井鉱山に就職していたが、赤紙が来て出征した。
台湾で終戦を迎えた後、帰郷して三井鉱山に復職していた。熊本県と福岡県の境目の熊本県荒尾市の獣医の長男だった。
獣医とはいえ、米も作る農家でもあった。「生めよ、増やせよ」の当時の常で、10人もの兄弟姉妹がいる家だった。そこの長男だった。
当時、馬は軍用だった。それで、獣医は戦地に行かず、内地で軍役に付けた。
父、巧の母、私の祖母、(旧姓大塚)俊子は、7人兄弟の末っ子だった。一番上のお兄さんは戦死し、二番目のお兄さんは、高校の先生で、油絵も描き、当時珍しかった写真機も持っていて、生徒からもたいへん人気があった。可愛いお嫁さんがいたが、なかなか子供に恵まれなかった。その若いお嫁さんも、俊子をとても可愛がっていた。歳が離れていたので、俊子を幼女に迎えるという話が進んでいたが、そのお兄さんも、結核で呆気なく亡くなった。葬儀には、生徒たちがたくさん集まったそうだ。
三番目のお兄さんが警察官(特高)を辞めて、農家を継いでいた。とても厳しい人で、当時牛で農耕していたが、牛を叩く鞭で子供達を叩いて叱っていた。俊子も、未だ幼い頃、その兄から叱られて、牛小屋に閉じ込められたことがあったそうである。「とても怖かった」と何度も話していた。よっぽど、怖かったのだろう。
一番上のお姉さんは、近くの養蚕農家に嫁いでいた。二番目のお姉さんは、やはり近くの牛農家に嫁ぐ寸前だった。俊子の直ぐ上の、三番目のお姉さんは、直ぐ近くの会社員、三井化学三池染料工業所の技術者のところに嫁いでいた。旦那さんは、バイクに乗って三井の城下町大牟田まで通勤していた。
4人もの年頃の若い娘がいる実家の農家だったので、近所では評判だった。夜、近所の男たちが忍び込もうとしたこともあってか、三番目のお兄さんは親以上に妹達に厳しかった。特に一番末っ子の俊子は、実の子供同然の年の差だったので、余計に厳しかった。
終戦末期、女学校に通っていた俊子には初恋の男性がいた。女学校近くの高校に通っていて、堂々とデートができる状況ではなく、手紙のやりとりで交際が続いた。
実は、二人は、大胆にも、こっそり敵性語「英語」を勉強していて、その英語が取り持つ縁だったのだが、覚えたての英語の短文を散りばめて手紙を書くのも、二人にとってはとても楽しいことだったのである。そんな手紙が、他の人に見つかったら大変なことになる。こっそりと、誰にも見つからないように手紙を渡す・・そんなスリリングな共同体験が二人の距離を縮めた。
しかし、その初恋の人にも赤紙が来て、特攻隊に出撃し、沖縄近くの海の藻屑となってしまった。戦争から帰ったら結婚しようと約束していたのに・・。
私の祖父、健一は、戦時中、三井鉱山に就職していたが、赤紙が来て、台湾に出征した。敗戦で、帰って来てから、三井鉱山に復職していた。
健一は、村の祭りがきっかけで、大塚家の二番目の娘に一目惚れした。しかし、既に牛農家の跡取り美男子と婚約していた。それで、未だ19歳の末っ子の俊子に猛烈にアプローチした。当初、健一が来ると、俊子は逃げ廻っていた。
三井鉱山の会社員と言えば、当時はエリートだった。しかも、炭鉱夫ではなく、炭鉱の掘削機械の技術者だったので余計である。
当時の農村地帯としては場違いと言っていい、真っ白な革靴を履き、真っ白なスーツに派手な色のネクタイを締め、やはり真っ白なパナマハットを被ってキザに煙草を吸う健一を、俊子は心底毛嫌いしていた。健一が来ると、農家を継いでいた三番目のお兄さんの子供達に菓子を配るのだけど、菓子だけ貰うと、みんな逃げていた。
・・・しかし、俊子は、息が詰まりそうな実家が嫌いだった。朝早くから夜遅く迄農家の仕事で働き尽くめの親の代わりに、兄の子どもたちの世話をさせられていた。厳し過ぎる三番目のお兄さんからも逃げたかった。
俊子は、高校を卒業すると、大牟田の文化服装学院に洋裁を学ぶために通っていた。農家から大牟田という街にバスに乗って出ることが、俊子にとっては自由を感じられる時間だった。そんなこともあって、農家そのものが余計に嫌いになった。
一つの救いは、家の土間で沢山の雛を孵して育てるのだが、その雛たちのかわいらしさだった。掌にそっと載せて遊ぶのが大好きだった。そんな可愛い雛も、家に棲み着いている大きな蛇に毎年何羽か食べられてしまうのだった。そんな時には、俊子は泣いて悲しんだ。養鶏農家故起こる、そんなことからも逃げたかった。
二番目の、美男子でモダンなお兄さんの養女になる話が来た時には直ぐに飛びついたのだった。農家ではなく、高校の教師で、油絵も描くという都会的でモダンな暮らしに憧れもあった。生徒たちからも慕われていた。その兄の影響もあって英語に興味が湧いたのだった。しかし、その兄の突然の死去で、その夢も潰えた。結核だった。
そんな虚無感の中、ふと、健一の申し入れに「いいかも・・」と、ふと、思ってしまった・・。
農家でない・・その一点が最大の魅力だった。
ただ、健一は、二番目のお姉さんに一目惚れしたのであり、自分は、その代わりでしかないということにずっと拘った。俊子のプライドを傷付け続けた・・。俊子の心は、錯綜していた。
19歳の少女には、無理もないことである。
3. 炭住
「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)
俊子は、出産のために実家に帰ってきていただけで、間もなくして、熊本県荒尾市にあった、三井鉱山の炭鉱住宅、所謂「炭住」である大平社宅の安普請長屋に戻った。俊子は、とても気が重かった。
1953年・・・戦後8年経ち、3年にも亘った朝鮮戦争の休戦を契機に、朝鮮戦争特需の反動で不況が日本に襲いかかり、吉田内閣は、スト規制法を強行すると同時に、日米相互防衛援助(MSA)協定を結んで、事実上の米国の「植民地」下での再軍備に突き進んだ激動の時代だった。三池炭坑にも労働組合が結成されたが、会社は、2回もの人員整理によりレッドパージを強行した。労働組合の側も組織を強化し、三池炭婦協(三池炭坑主婦会)も結成され、家族総出での闘争態勢を整えていた。
俊子と健一と、生まれたばかりの巧が棲む炭住、大平社宅も例外ではなく、三井鉱山が5738名もの首切りを発表した1953年8月7日以降、労働組合員のみならず家族も「首切り撤回」を掲げてピストンデモ、本社抗議デモ、総決起集会、公開団交、座り込み、ストライキ、減産闘争等、毎日、闘争に動員された。
労働組合の側も組織を強化し、三池炭婦協(三池炭坑主婦会)も結成され、家族総出での闘争態勢を整えていた。
母親俊子と父親健一と、生まれたばかりの巧が棲む炭住、大平社宅も例外ではなく、三井鉱山が5738名もの首切りを発表した1953年8月7日以降、労働組合員のみならず家族も「首切り撤回」を掲げてピストンデモ、本社抗議デモ、総決起集会、公開団交、座り込み、ストライキ、減産闘争等、毎日、闘争に動員された。
「炭住」故、会社の人間関係がそのまま反映されていた。
未だ、会社側が労働組合を切り崩して1960年に御用組合をでっち上げる前だったので、「炭住」つまり三池労働組合の「解放区」の様相だったのである。
三池炭婦協の主婦会も次第に戦闘化して、デモも集会も半ば半強制だった。
農家の、未だ19-20歳の少女には理解できない世界だった。
三池炭婦協の学習会に出さされても、内容以前に唯々、強制されることが嫌だった。
折角兄の厳しい躾から逃げ出したと思っていた憧れの「町のサラリーマンの奥さん生活」も、別の更なる厳しさに直面した。
それに反し、10歳年上の夫、巧の父親健一は、左翼思想にのめり込んでいた。
当時、組合は、九州大学の向坂逸郎教授を講師に招いて社会主義の学習会を開催していた。所謂「向坂学校」である。そこから戦闘的な新左翼活動家、三池労組の組合活動家をたくさん輩出していた。組合の理論武装の場だったのである。文字通り「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)だった。ましてや、大労働争議の真っ只中で、資本・国家権力から総攻撃を受けていた搾取の現場だったのだから、社会主義者にとっては、とてもいい学習の場だったのだろう。
29-30歳の健一も、熱心に学習会に参加し、戦後民主主義の中、革命思想に染まっていった。自称「向坂学校の優等生」と自慢する程だった。
「革命的高揚感」もあってか、毎晩母を求めた・・。
4. 病院の匂いとコスモス
・・・「男に女を差し向けて交わらせ、女に男を差し向けることによって」
パルメニデス(「アリストテレス「自然学」31,10)
普通、人間は何歳頃迄記憶を辿ることができるのだろうか。
巧は、戦後最大の労働争議であり、「革命前夜」とまで言われた「三井三池大争議」の極限状況下での大人たち、人間たちの余りにも特異な出来事のために、2-3歳の頃の記憶の痕跡があった。
巧の母親俊子は、巧を産んだ後、妊娠中絶をくり返していた。4回目、子宮外妊娠だった。
俊子は、実家の父親、巧の祖父に頼み込んで、入院費用を借金した。
それ程、父親健一は貧しかった。ただでさえ、安い月給をほんの一部しか母親俊子に渡していなかった。米が尽きる時もあったくらいだから、高い、いや、会社の保険もあるので、さほど高くはない入院費用すら出せる筈もない。
三井大牟田病院で大手術した。死線をさまよい、半年近くもの入院となった。
未だ幼かった巧は、牛農家に嫁いでいた二番目のお姉さんの所に預けられた。父親健一が一目惚れしたお姉さんの所である。
お姉さんの嫁ぎ先は、山の中の部落である。
巧には、鮮明な記憶が残っている。男尊女卑が根強い熊本では食事の時、お姑、お舅には絶対服従であり、甲斐甲斐しく卑屈にまで世話をするお姉さんの姿と、お姉さんの子どもたち・・みんな押し黙って正座して食事している。
お姑、お舅は、幼児の巧には愛想笑いどころか全く声も掛けず、同年代の子どもたちからも巧は全く無視された。それどころか、「町の子」巧の「町のことば」遣いをクスッと薄ら笑いするのを敏感に巧は感じ取った。
誰も遊んでくれず、孤独だった。お姉さんの目の届くとこに居たには居たが、お姉さんもひっきりなしにせわしなく家事やら家畜の世話やら畑仕事やらに手いっぱいだった。
九州の、熊本の蝉は、それらしい鳴き方をする。
ずっとずっと後、沖縄のジャングルの中で蝉の声を聴いた時、この時の蝉の声を想いだした。とてもよく似ているけど、琉球は琉球の蝉の声であり、熊本は熊本の蝉の声だった。九州の、熊本の夏は、それらしい「暑さ」がある。そのじっとりした、木々の葉の匂いと、激しい迄の蝉の鳴き声。九州の、熊本の「農家」は、それらしい匂いがある。
絵本を読んでくれるどころか貸してもくれず、子どもらしい遊びにも入れてくれず、巧は唯々、そんな「空気」をひとり吸っていた。毎日毎日、何をするでもなく・・。
暫くして、母のお姉さん(巧にとって、おばさん)が三井大牟田病院に見舞いに何度か連れて行ってくれた。
今の病院とは全く違った病院特有の消毒液の強い匂いがある。
木造建築の、小学校みたいな、病院の渡り廊下と、真っ白い看護婦さんたちの独特の形の白い帽子と白衣と、庭に咲くピンクのコスモスの花が鮮明に目に焼き付いている。病室では、林檎を擦って独特の形の硝子容器に入れて病人が飲むのだが、その硝子の、鶴のような形の容器も覚えている。
母親は泣いていた。唯々泣いていた。
子どもらしい感情を出すこと、わがままを言うこと、駄々をこねることすら知らない幼児は、母親の涙をじっと見つめることしか出来なかった。母親も、母親らしい愛情溢れる笑顔も見せず、ひさしぶりに会った我が子に嬉しいという感情も出さず、抱き抱えるでもなく(医師から禁止されていたのかもしれない)ただ、泣いていた。
巧は、訳もなく、唯ひたすら、かなしかった。言いようのないかなしさだった。何故かなしいのか、それすら、わからなかった。涙をいっぱい溜めても、大泣きするこどもではなかった。
ずっと後になって、母親がお茶飲み話で友人に話していたのだけど、自分が死んだら、こどもがひとりになり、継母に虐められるから絶対死ねないと頑張ったそうである。
かなり危なかったようである。その時の輸血で、その後一生、慢性C型肝炎の体となった。
しかし・・あの涙は・・違う・・気がする。
5. 蝉の鳴き声と
「さておみな
おのことともに
「愛」の芽(たね)を
ともに混ぜ合う」
パルメニデス 断片18
夏の暑い日、母のお姉さん(巧の叔母)の農家で、強烈な印象に残る体験を「初めて」した。
たぶん、それが、「初めて」の「事件」なのだろう。
この事件のために、巧は「時」が止まった。
ずっと、この「時」に居続けている。
巧の基層・深層の記憶となり、後で話す、その後の「事件」とともに、その後の生に、体内被曝のように「放射線」を出し続けている。
無意識の基底・心底から。
その最初の「事件」だった。
「事件」と言う程でもない、ありふれたことなのかもしれないけど、巧にとっては、『世界』と触れ合う「初体験」だった。
せわしなく働くお姉さん(巧の叔母)に言いつけられた遊び場所から、ふと離れたのだろう。この辺の事情は記憶にない。
・・・気が付くと、裏山の森の中にひとりで迷い込んでいた。
蝉の鳴き声が滝のようだった。
南国特有の強烈な湿気と夏の暑さと森林特有の匂いと果実の甘酸っぱい匂いと、蝉の滝・・・。
ひとりで彷徨った。
「寂しさ」というのも未だわからない。
「怖さ」というのも未だわからない。
ただ、ひとりで歩いた。
歩き続けた。
未だ、歩き初めて間もない幼児は。
ふと、時が止まった。
ずっと続く蝉の鳴き声の滝・・・世界は、それだけになった。
「永遠」という言葉も概念も未だ知らないけど、この蝉の滝の中に永遠に居続ける・・そう感じた。
「永遠」という概念も未だ持ってなかったが。
其れ以前に「時間」も未だなかったし。
強烈な太陽。
強烈な日射し。
木漏れ日。
強烈な蝉の叫び。
汗で、ぴっしょりになった。
咽(む)せるような森林の匂い。
果実の甘酸っぱい匂い・・。
時は、止まっていた。
止まり続けていた・・。
・・・ふと、思った。
なぜ、ここにいるの?
そんなこと一瞬思ったかもしれないが、ただ時が流れた。
いや、確かにそう思った・・。
その感覚は、表現し難いけど、まるで上の方から別の視点から自分を見下ろしているような。。
・・・・・不思議なものを見た。
ひと・・である。
ひとと・・ひとが、草叢(くさむら)の中で横たわって蠢(うごめ)いていた。
おんなのひとがしたになり、おとこのひとがうえになり・・はげしくうごいていた。
じっと見た。
なんの感情もなく、ただ、見た。
あいかわらず、強烈な蝉の滝と、強烈な太陽と、草叢の咽せるような青臭い匂いと・・。
草が擦れる音と・・・喘ぎ・・おとこと、おんなの・・。
誰もぼくにきづかない・・。
まるで、ぼくは、いないみたいに。
・・この世に。
・・・・・ひとは、何時(いつ)頃まで、記憶を遡れるのだろう。
幼児の頃、強烈な事件が立て続けにあったせいか、2-3歳頃の記憶が痕跡として残っている。全てのことが連続してではなく、ところどころ断片として。
しかし、強烈に記憶している。
まるで、数十年経っても、目の前に見える・・手に取るように。
空気感も臨場感も湿気も温度も光も微風も匂いも草の感触も・・・。
時間が止まっている。
時間がずっと止まり続けている。
今でも、あの蝉の森の中にいる。
・・おとこと、おんなが「行為」する前で。
ひょっとして、
ほんとうは、
ぼくは、
このよにいないのかもしれない・・。
・・・・・あれから、ひとの一生ほどの時間が経った。
『性』こそ、『実在』なのではないだろうか。
パルメニデスを読みながら、ふと、その思いが過(よぎ)った。
『性』=『実在』 との遭遇・・だった・・のかも。
6. 死線を彷徨う
「わたしは 誰でもない。また、ないでしょう。
存在するには あまりに 小さく、
未来とて やっぱり そうでしょう。」
リルケ「孤児の歌」
炭住の共同長屋生活は、母と子にとっては苦痛そのものだった。
相変わらず、三池争議のさなか、三池炭婦協の『闘争』は激しく続いていた。半強制のデモ、集会に母俊子はほとほと嫌気がさしていた。
長屋では、隣の部屋との境は、ベニヤ一枚で仕切られただけであった。三交代の炭鉱夫の息子と母親が住んでいた。炭鉱夫の息子は、昼間眠ることもあった。
巧が遊んだり、昼寝したり、人間が生活すれば音は出る。しかし、母俊子は、神経質に隣の母子に気を遣い、ストレスは極限に達していた。
隣の息子は、実際はパチンコに行っていたにもかかわらず、母親が帰って来ると、「隣のこどもがうるさくて寝られなかった。」と愚痴をこぼしているのを、母俊子は聞いていた。母俊子は過敏に反応し、時には、ヒステリックに巧を叱った。夜泣きしたり、昼寝から目覚めて泣き出した巧に布団を掛けて、泣き声が隣に聞こえないようにしたこともあった。
そんな環境で、巧は酷い肺炎を患った。
原因は、それだけではないのかもしれない。唯でさえ、炭鉱コンビナートの直ぐ近くの炭住なので、いつも悪臭がしていた。煙突からは、昼夜休みなく煙が出ていた。黒い煙なら、まだかわいいが、黄色や赤色の煙も出ていた。常に、独特の悪臭がしていた。そんな炭住の環境も悪い影響を与えたのだろう。
巧は、高熱を出して、炭鉱の病院に緊急入院した。
・・死線を彷徨ったそうだ。たまたま、抗生物質の新薬がサンプルとして来ていて、それで助かったと母が言っていた。この時の病院での記憶は、巧にはない。
ただ、退院してから炭住の部屋で寝ていた時、何故か、無性に自分自身がこのまま死んでしまうような気がした。その時は、怖くはなかった。その感情だけは何故か、今もずっと記憶に残っている。
実際、母に「ぼく、おとなになるまで生きられるの?」と尋ねたとのことである。母は、へんなこと言うこどもだね、と思ったとのことである。
それはあくまでも自分自身の死のことである。
病院で「死」と隣り合わせだったのだろうし、他者の「死」と出遭うことがあったのかもしれないが、巧の記憶には残っていない。
7. 紙ヒコーキ
「今もなお われらの記憶にのこる。このすべてのことは
いつかまた ふたたび めぐり来たらん。」
リルケ「新詩集」
炭住は、会社の縮図だった。
労働者を分断するために、会社側は、御用組合である第2組合をでっち上げていくのであるが、それ以前から労働者の間に分裂の兆しはあった。
人間なのだから、「労働」に対する考え方もいろいろあって当然である。しかし、社会主義思想は、そんな柔な人間性といったものは、情け容赦なく切り捨て、断罪していく。
会社内での、そんな分裂の兆しは、炭住内にも反映されてきていた。次第に大きくなっていった、会社内での対立は、そのまま、炭住での対立となった。
「あそこんちは、会社側げな!」といったことが主婦たちの間で話題となり、当然、三池炭婦協の主婦たちは、会社側とみられた労働者の主婦たちと絶交するだけでなく、積極的に攻撃すらしていた。「村八分」以上の徹底した攻撃ですらあった。炭住内は、緊張でピリピリしていた。
三井鉱山が、合理化のために希望退職を募ったのに端を発した「英雄なき113日間の闘い」を経て、労組が指名解雇を撤回させた。
労組は全面勝利宣言をしたが、実際には、6割もの指名解雇者が、自主退職していたのである。ストライキ中は、賃金は支払われない。よっぽどの「活動家」でないかぎり、普通の生活者は「兵糧攻め」には耐えられない。
労組は、この事実をもっとしっかり「総括」すべであった。表面的な「全面勝利」に酔い痴れ、「社会主義思想の勝利!」と錯覚して、いっそう、頑なに「戦闘化」していくのである。
職場では、炭鉱現場労働者が事務労働者を吊るし上げ、炭住は、労組の解放区の様相を呈していた。「英雄なき113日間の闘い」の労組側の「全面勝利」は、実は、更なる大闘争の前哨戦に過ぎなかった。
会社側は、苦肉の策として、セスナ機で「退職届」の用紙をビラにして投下した。
巧たち幼児は、面白がって拾って遊んだ。大きい子が退職届のビラで紙ヒコーキを作ってくれた。
楽しそうに遊んでいる巧たちの手から、凄い剣幕で三池炭婦協の主婦たちが奪い取って行った。泣き叫ぶ子どもたちにも容赦なく、「こげなもん、汚らわしか!あそぶんじゃなか!」と言って叱った。
巧は、晴れ渡った青空、空高く飛んで来るセスナ機の姿と音と、空を舞う白いビラのイメージが強烈に記憶に残っている。
8. 炭住にひびく労働歌・革命歌
「万国の労働者よ、団結せよ!」
マルクス・エンゲルス『共産党宣言』
炭住の子どもたちは、大人がしていることを見ながら育つ。
赤ん坊の頃から、赤い鉢巻きをした母親に背負われて、赤旗の波の中の集会やらデモやらに動員されていたのだろうから、母親の自覚・意識とは全く関係ないところで、いや、時には正反対のところで、いわば、インターナショナルや、労働組合歌を子守歌代わりにして育ったことになる。炭住のこどもたちにとって、原風景なのである。
ヨチヨチ歩きの幼児たちも、必然的に、そんな歌を口ずさんだり、デモごっこしたりしてあそんだ。
巧の耳にも、いまだに残っている。
「燃やせ、燃やせ・・♪」
「立て、飢えたるものよ・・♪」
それと「あんぽはんたい、あんぽはんたい」
「ピッーピーワッショイ、ピッーピーワッショイ」
・・と、わけも知らずに、「ごっこ」遊びしていた。
集会やデモに参加した人なら分かるだろうが、言葉に言い表せないフィーリングと言うかパトスと言うか、ある種の集団興奮状態の熱気がある。
幼児だと、それがストレートに入り込む。
善し悪しの判断を超えた超感覚的な場所で、「赤旗」の意味する「本質的な何か」が、スポンジに吸い込まれる水のように、幼児の中に、巧の中に、すーっと、はいっていった。
それは、あたかも、放射性物質の体内被爆のように、炭住のこどもたちの一生に作用を及ぼし続ける。
親の感情や意思とはまったく別のところで。
9. 炭住の共同浴場
「われわれはただそこに自由な開かれた世界の反映を見るだけなのだ、
しかもわれわれ自身の影でうすぐらくなってゑる反映を。」
リルケ「第八の悲歌」
巧は、ある「事件」(巧の「実存」を根本的に揺らがしたPTSD)故「早熟」でもあった。
炭住では共同浴場/ 銭湯だった。
入れ墨の男も少なからず目にした。
多分1-3歳頃だったので、母親に連れられて女風呂に入った。
普通なら、何の不思議もない光景なのだろうが、巧は少し違った。森の中で見た光景のせいもあるのかもしれないが、「性」に敏感だった。
母親に連れられて入った女風呂で見たシーンが目に焼き付いている。
未だ二十歳そこそこの母親の白い肌・・豊かな乳房・・
近所の女学生たちの白い裸体・・湯に濡れた艶やかな肌と、そんな肌に張り付いた髪の毛・えり足と、うぶ毛と、膨らみかけた胸・乳首・・・
勿論、大人の男が持つであろう、欲情に満ちた感情とは全く違った「何か」・・である。かと言って、同世代の幼児の男の子が持つかもしれない感情とも全く違っていた。
しかし、確実に『女』性という、自分とは全く違った『性』故の感情である。
*************
ある日、遊んでいると、大人たちが走って共同浴場に向かった。
巧も走って行った。
中年の、どす黒い顔のおじさんが横たわっていた。
銭湯の高い煙突掃除中に落ちたとのこと。
人混みをかき分けて、そのおじさんの直ぐ横に立った。
担架に乗せられたおじさんの顔が少し動いた気がした、巧の方に。
その瞬間・・「時間」が止まった。
世界が、そのおじさんと巧のふたりきりになった。
おじさんが、じーっと巧を見つめている。
もう既に、生きた「人間」ではなかったのだろう。かといって死者の目でもなかった、確実に。
しっかり瞼を開けて、独特の、どんよりした目で自分を、巧をしっかり見つめている。
恐ろしさも驚きも(未だ)ない。「死」すら未だ理解していないのだから当然である。
ただ、ひとりのおじさんと、ひとりの自分が無言で、みつめ合っている。
そんな時間が、ずーっと続いている。
時間がずーっと止まり続けている。今でも、あのおじさんとみつめ合っている。
10. 血塗れの少年
「母たちよ、父たちよ、
わたしを あわれと思って下さい。」
リルケ『形象詩集』
幼児から少し大きくなった頃、こどもたちの世界にも大人の世界が反映されて「遊びともだち」「仲間」といった「構造」が生まれて来る。
この頃の巧の写真を見ると分かるのだが、どれも決して楽しそうではない。
同じ年齢か、少し年上の子どもたちと遊ぶのが苦手だった。
巧は、まったく楽しくなかった。むしろ、虐められていた。背が高かったことも災いして、時には暴力も受けて、泣かされていた。いつも鼻水垂らしたガキ大将が居て、お下がりの学生服の袖で鼻水を拭いているので、袖がテカテカになっていた。そのヨレヨレ・テカテカの学生服姿の悪ガキを今でもよく覚えている。
子どもだけで、何処かに遊びに行く時も半強制だった。一度「行かん」と言ったら酷く殴られ、泣かされた。それ以来、いやいや、ついて行かされた。
近くの小さな洞窟に入った記憶が鮮明に残っている。蝙蝠がたくさんいて、子どもたちが入って行くと、キーッと鳴きながらさっと飛び立った。洞窟というか、防空壕跡だったのだろう。巧には、なんとも言えないヘンな感じがあった。
ひとり遊びの方がずっと楽しかった。
「錬金術ごっこ」の記憶がいまだに残っている。
勿論当時は、そんな名前は付けていなかったが、今考えると本気で「錬金術」をやろうとしていた。
煉瓦の欠片のようなものや金属片を集めてきて、水の中で擦ったりして、ドロドロになったものを型に入れて固めた。何か別の物(物質)を作ろうといていた。何故できないんだろう?と本気で考えていたことは記憶に残っている。何処かで、大人がやっている何かの作業を見て思いついたのかもしれない。
笑えるのが、土を掘って、掘った土で小さな「山」を作って、掘った溝に水を入れて「池」を作った。「池」の中に泥鰌のような小魚を入れて、ドングリを小さな「山」の上から転がした。「池」にポチャンと入るけど、「泥鰌」は決して出て来て「こんにちは」とは言わなかった・・。なぜだろ?本気で悩んだ! (これ、ホントのはなし)
ある日、近所で大騒ぎがあった。いつも巧を虐めていた、鼻水垂らした悪ガキが、ふざけ過ぎて、透明のガラス戸に飛び込んだそうだ。ガラス破片が体中に刺さって、頭も顔も真っ赤になって、ヨレヨレ・テカテカの学生服から血が滴り落ちていた。人間とは思えないように真っ赤になって、その少年はぐったりしていた。
何の感情もなく、ただ見ていた。何処かに運ばれて行ったきり、少年の姿は見なくなった。
「これで・・虐められない」とも思わなかった。
ただ、ガラス破片が体に刺さる瞬間に感情移入して身がすくんだ。ガラスは怖いというイメージが残り続けた。尖ったガラス破片が体に刺さる夢にうなされた。今でも、時々、夢に出て来る。
11. カンディンスキー、クレーまたは河原温の絵
「その絵が私の心をとらえ、しかも記憶に消しがたい印象をとどめて、いつもまったく思いがけぬときに、その細部にいたるまでありありと眼の前にうかんでくるのに気づいたとき、私は驚きもし、また当惑もした。」
カンディンスキー『芸術における精神的なもの』
河原温という画家がいる。
初めて河原温の「浴室」シリーズを見た時、「あっ!これ見たことある!」と思った。絵ではなく、その描かれた「もの」をである。実際には、それも単にイメージだけ、と言うか、想像の中だけではあるが。
巧が実際に見て、描いたのは、カンディンスキーまたはクレーの、ある種の絵を思わせるものだ。当然、当時、カンディンスキーもクレーも知らないし、カンディンスキーやクレーとは違うが、あんな雰囲気の、当然もっとずっとシンプルで拙い絵を幼児の頃描いた記憶が鮮明に残っている。
たぶん、生まれて初めて描いた絵だと思う。その初めての絵の細部にいたるまで、しっかり記憶に残っている。だから、カンディンスキーやクレーの、ある種の絵を見た時、デジャブというか、懐かしい感じがした。
それは・・描かれているものを、実際に見たのである。
炭住の裏通りの方の家の近くでである。湿った、暗い雰囲気の場所を通っていたら何か不思議なものが落ちていた。それを描いただけである。
魚の骨なのか、内蔵なのか、とにかく、奇妙な、不思議なカタチのものだった。
だから、幼児は、絵に描いた・・。
ただ、それが落ちていた場所がとても湿った、ジメジメした感じと、暗い感じがした。
炭住の一角である。ひとりで歩いていたのか、誰か同じくらいの幼児と一緒だったのか思い出せないのだけれど、多分、ひとりで歩いていたのだと思う。
後に、大人たちの話で、ひとりの炭鉱労働者が解雇されて、家にずっと閉じこもっていたけど、奥さんを殺して食べたというのを聞いた。
労働運動に参加していたわけではなかったので、三池炭婦協もまったく接触していなかったのだろう。
その時、何故か、ふと、あの絵を思い出した。
そして、河原温の「浴室」に描かれたような光景が眼に浮かんで、戦慄した。
こども、幼児というのは、大人が思う程、なにも聞いていないわけではない。むしろ、しっかり大人の話を聞いているのである。そして、時には、その話をずっと、数十年~一生、記憶に残していることもある。
そして、その話がこどもの一生を少しずつ蝕むこともあるのである。
巧の場合がそうであった。
「浴室」シリーズを描いた河原温も、心の奥底に何か得体の知れない闇を抱えていたのかもしれない。
そう思える程、あの 「浴室」シリーズは、リアルだ。少なくとも、巧にとっては。しかも、不思議なのは、時期がほぼ同じである点である。河原温と巧は、同じ光景を眼にしたかの如く。いや、同じ光景を眼にしたのだ。
* 河原温という美術家は、よく知らない。
「浴室」シリーズのせいで、河原温に強い関心を持った。
"On Kawara - Erfahrung und Dokumentation" Matthias Haase という論文を見つけた。
ますます、ひきこまれた。「コンセプチュアル・アート」のなんたるかも知らないが、河原温のお陰で、現代美術に関心を深めた。
現在、何処迄インパクトがあるのか知らないが、アーチストのあり方として、とても新鮮に思えた。共感するところもある。
***********
* 河原温(1932年- 2014年)コンセプチュアル・アートの第一人者として国際的にきわめて高い評価を受けており、日本出身の現代美術家のなかで世界的にもっとも著名な1人。1950年代には日本で活躍した。河原が注目を集めたのは、1953年の第1回ニッポン展(東京都美術館)に出品した鉛筆素描のグロテスクな『浴室』シリーズ(連作)(1953 - 1954)であった。タイル貼りの閉鎖的な空間(浴室)に妊婦を含む人物が立ち、断片化した人間(あるいは人形?)の胴体、手足、首などが重力を無視して浮遊するという不気味な光景が描かれているが、人物が半ば戯画化されているため、凄惨さは抑えられている。)「浴室」シリーズ(東京国立近代美術館) (ウィキペディア)
12. 煙草を吸う曾お婆さん
「メフィストフェレス
それは少しばかりの真理を申したのです。
人間は、気まぐれの小天地をなしていて、
大抵自分を全体だと思っていますが、
わたしなんぞは部分のまた部分です。
最初一切であって、後に部分になった暗黒の一部分です。」
ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳
父方の実家には曾お婆さんが存命だった。
お爺さんは、次男だったのだが、長男は東大法科を首席卒業し東京で弁護士として出世していたので、曾お婆さんを引き取って面倒を見ていた。
ひとりっ子の巧は、その曾お婆さんの直ぐ横にチョコンと座らされていた。時々、貰い物のお菓子をくれた。まるで、ペットの犬に投げ与えるように、黙って。
面白かったのは、巧の母親が、この曾お婆さんの前では、正座して頭が畳に着くくらいお辞儀をするのである。それが、まるで、自分に対してしているようで、おかしかった。いつもは、怖い母親なのに。
巧の父方の親族には、独特の性格というか、雰囲気があるのだが、この曾お婆さんは、典型的だった。
その曾お婆さんは、いつも煙草を吸っていた。キセルに煙草を詰めてマッチで火を点けて、煙を出す・・その仕草をしっかり観察していた。囲炉裏の隅にトーンと灰を落とすのをしっかり観ていた。
かなりの高齢なのだが、地味な色の和服をしっかり着付けていて、白髪もまったく乱れがなく、頭はしっかりしていた。キツい顔つきからも、それははっきりしていた。常に凜としていた。田舎の農家の老人にしては、カッコよかった。カッコよすぎた。
笑顔を見たことがない。たまに、客の眼をじっと見すえて、薄ら笑いをするくらいである。
特に可愛がってくれた訳でも話かけてくれるわけでもないが、巧はひとりっ子だから、横に座っている以外になす術がなかった。だから、いつも大人の中に居た。
多分3-4歳の頃だと思う。普通なら記憶は残っていないのだろう。後述するPTSDクラスの某事件のために、3-4歳の頃の、この記憶は鮮明に残っている。感受性が人一倍強かったのかもしれない。
熊本という地域的な性格形成なのか、父方の実家特有の性格形成なのか、あるいは、両者の混合かもしれないが、少し極端な性格から来る、はっきりした、キツいもの言いに増幅されていたので余計に、幼児にも見破れたのかもしれない。
具体的なやり取りまでは記憶していないが、要するに、皮肉、嫉妬、憎悪、嫌悪、優越感、その裏返しとしての卑下、命令、自己中、見下し、軽蔑・・心理学、いや、異常心理学のサンプル場みたいなものだった。
煙草を吹かしながら、じっと相手の目を見つめて、攻撃したり、やり返したりするのを幼児はじっと眺めていた。その相手も、親戚か、近所の人なのだろうから熊本のひとが多かったのだろう。だから、バトルになるのである。穏やかな顔でのバトルである。質(たち)の悪い大人同士の言葉の応酬の場に、幼児は、じっと座って「観戦」していた。
いつしか、両者の心の中が手に取るように見えるようになった。
相手の、この皮肉に応戦したとか、相手の自慢話に嫉妬してやり返したとか、相手の自慢話に、自分の更なる高みの自慢話で競争したとか、相手の度重なる皮肉に、更なる大きな皮肉で応酬したとか、今、優越感を感じているとか、何時しか、心の中の力学の変化を楽しむようになっていた。
はっきり言えるのは、曾お婆さんは、常に、自分が相手よりも高い位置に立とうとしていた。そのことに対する執着とエネルギは凄まじいものだった。どんな小さなことでも許さない。自分が如何に相手よりも上なのか、徹底的に相手をムキになって、しかし、穏やかに、やり込めた。そのことが、生きる目的のすべてであるかのごとく。「これが、『おとな』なんだ!」と思った。
煙草の煙と臭いと一緒に、そんな記憶が残っている。
13. 墓移し
「神は人間を生きた自然の中へ
造り込んで置いてくれたのに、
お前は烟と腐敗した物との中で、
人や鳥獣《とりけだもの》の骸骨に
取り巻かれているのだ。」
ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳
煙草を吸う曾お婆さんが亡くなった。
お葬式は、参列したのかもしれないが、殆ど記憶にない。ただ、部落の奥さんたちが沢山家に来て、料理をしていたのを微かに記憶している。当時は、家で葬式を地域総出で行っていた。
巧が、油揚げと、寒天が大好きだったことは明らかである。夜遅く、母の実家から父の実家に行く道、巧が油揚げ食べたいと何度も言うので、母が気味悪がって、咎められたのをハッキリ記憶しているからだ。自分でも、何故油揚げだったのか、はっきり分からない。
しばらく経ってから、お爺さんと一緒に居た。
「巧ば、見とらんね。」
とお爺さんに言い残して、お婆さんが何処かに出掛けた。
しばらくすると突然、お爺さんが「しもたー!」と叫びながら跳び立った。
当時、未だ土葬だったようで、どういう理由かは知らないが、地区の人達と一緒に、曾お婆さんの墓を仮埋葬しておいて、しばらく経ってから本埋葬し直すのである。葬式後初めての墓掘りである。その仕事をコロッと忘れていたのだった。
お爺さんは、獣医だったので、こういう類いの仕事は地域のひとから、よく頼まれていた。汚れ仕事を気安く引き受ける、ひとの良さもあった。
お爺さんと一緒に、坂道を登った。小岱山の麓にある草茫々の墓場に行った。墓場近くに着くと直ぐにお爺さんは、
「見たら、でけんたい。ここにおらんね。」
と言い残して墓掘りに行った。いつもになく、厳しい顔で、きつい声だった。
ずっと後に火葬になり、納骨堂が建てられたが、当時は未だ土葬で、墓石の墓が草茫々の山の中にあった。
藪の隅っこに、幼児はじっとしていた。藪特有の匂いや、木漏れ日や虫の声を感じていた。小さな虻が、目の前を飛んだ。それが、余計に巧の退屈感を増長した。
この山独特の匂いがある。何の変化もない山の景色をじっと見ていた。雲だけがゆっくり流れていった。
さすがに、手持ちぶさたになり、お爺さんの様子を覗いに行った。
少し離れた藪の少し高い所に隠れて見ていた。
数人の男たちで、ちょうど墓を掘り上げて、棺桶の蓋を開けるところだった。
蓋が開いた・・。
・・巧は、見てはいけないものを見てしまった。
心臓がバクバクした。
・・・・・あの気性の激しい曾お婆さんがこんな姿に・・・・
・・・・・常に凜として、カッコよかった和服の曾お婆さんが・・・・・
あの、皮肉、嫉妬、憎悪、嫌悪、優越感、その裏返しとしての卑下、命令、自己中、見下し、軽蔑・・あのやりとりはなんだったんだろ?
自分が他者よりも高い位置に立とうとする凄まじいほどの執着とエネルギは、いったいなんだったんだろ?
・・・こんな姿になるため?!
巧は、未だ「死」を理解していなかった。
これが初めてのリアルな、物質的な、具体的な「死」との対面だったのかもしれない。巧は、曾お婆さんの横でいつもしていたように、感情移入した・・「死」体に。
数人の男たちは、なにか作業をして埋め戻したのか、別の場所に埋めたのかは、巧には分からない。
なにか悪いことをしているようで、お爺さんにここにいるように言われた場所にそっと戻った。
「どげんしたっ?」
「元気ん、なかね!」
お爺さんは、帰り道、しょんぼりしている巧に聞いたが、幼児は頭を振るばかりだった。
・・・・・巧のなかで、なにかが大きく変わった・・・・。
14. 島原城と雲仙
島原城
島原に、親子三人で家族旅行に行ったのをよく覚えている。
九十九(つくも)ホテルに泊まった。
ホテル裏の松林と白波の様子と波の音が今でも脳裏に焼き付いている。三人で、砂浜を歩いた。波打ち際の海水に手を浸けた。その感触を、未だ手が記憶している。
父と母との三人の旅行・・・初めてかもしれない。家族の幸せの風景は・・。
島原城跡に行った。何故か、家族旅行の「観光地」として・・。
何処をどう歩いたのかまったく記憶してないのだが、わさわさした、妙な胸騒ぎを感じたのを覚えている。心臓がバクバクした・・。あの曾お婆さんの墓移しの時のように・・。
その時には、「島原の乱」の片鱗すら知る由もなく、その理由はまったく分からなかったが、後になって「島原の乱」を知るにつけて、ずーっとずーっと後に、その理由が分かった。
天気がよかった。海も静かだった。過ごしやすい時期だったのだろう。
輝く海の水平線の向こう、遠くに島陰が見えた。
とても静かすぎて、穏やかすぎて・・そんな理由で理由(わけ)もなく、泣いた。
父と母が
「どげんしたっ?」
と、戸惑っていた。
「おかっさー、こん子は。」
ぽかんとした晴天で、平和すぎて、風もなく静かすぎて、変化がなさすぎて、海の輝きが美しすぎて・・泣きたくなる・・そんな気分は、多分この時が初めてだったのだろう。
その後、ずっと、こんな晴天の昼間に無性に胸騒ぎがして居心地が悪い気分になることがいまだに続いている。
実は、晴天の昼間は弱いのである。いまだに。
**********************
* 島原の乱・・37,000人もの浪人武士・「邪教を盲信する」百姓・老若の男女・こどもも多数含む一揆勢が島原の原の古城に立てこもり、幕府軍120,000人が当時の近代兵器の総力を掛けて全滅させた。
江戸幕府は、女子供といえども一人残らず撫で切りにせよと命じた。
殺した後も、徹底的に粉々に粉砕した。いまだに原城に遺骨がたくさん埋まっている。天草の人口は半減した。
そこまでするほど、江戸幕藩体制にとっては巨大な『脅威』だったのである。
何故ならば、37,000人の一揆勢のバックには、植民地主義に邁進する巨大な「西洋文明」が佇立していたのだから。
歴史の歯車がひとつ違っていたら、「江戸の平和」はなかったかもしれない。
江戸幕藩体制の「平和」は、彼ら彼女ら、こどもたちの犠牲の上に築かれたのである。
「江戸」時代は嫌いだ。
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雲仙
母方の祖母と母と一緒に三人で、雲仙に一泊旅行に行った。
断片的にしか記憶にないが、あいにく天気が良くなくて、濃霧の中、山の坂道をバスに揺られたのを何故か鮮明に覚えている。それと、ボンタンアメの味が浮かんでくる。買ってもらったのだろう。
それと、旅館の温泉の風呂場で、滑って転んだのをしっかり覚えている。その光景に至るまでしっかり記憶している。
不思議なのは、転んだからではなくて、泣かなくてはいけないと思って泣いたことである。その感覚がいまだにしっかり残っている。
雨の中、雲仙の「地獄巡り」を三人でした時も、島原の時と同じような、わさわさした、妙な胸騒ぎを感じた。と言うか、居ても立ってもいられないというような、居心地の悪さを感じたのをしっかり覚えている。
もちろん、その時は、それが何故なのか、まったく分かる術もなかったが。
当然、雲仙での切支丹弾圧を知る術もなかった・・。
文字通り「地獄」が此の世に実現した時代があった・・。
15.白川社宅 =「転向」
「社会の進歩は女性の社会的地位によって測ることができる。」
マルクス
この辺の事情は、当時、幼児には分かる術もなかったのだが、荒尾の炭住から大牟田の一軒家の共同社宅に引っ越した。ただの引っ越しではなかった・・
白川社宅は、一軒家を会社が借り上げて、4家族で住んでいた。
ずっと後になって分かったのだが、巧の父親は、第1組合(原則的本来の労組)から、会社が組合潰しのためにでっち上げた第2組合(御用「労組」)に「転向」した、いや、母に「転向」させられていたのだった。あるいは、第2組合設立、つまり、第1組合分裂過程の渦中だったのかもしれない。たぶん、後者だと思う。
第1組合員を管理職が飲み屋に誘ったりして、時に暗に、時に露骨に、第1組合を脱退するように、文字通り「飴と鞭」で脅しすかし、あらゆる手段を使って資本は労働者を骨抜きにしようとする(不当労働行為=労組法違反)。時には、家族を使ってでも・・。
母親俊子にとって、会社の人間関係の延長上にある「炭住」生活に、嫌悪感が極限に達していた。
自分の妊娠中絶の繰返しと、子宮外妊娠の大手術、ひとりっ子巧の肺炎ということも大きな理由だった。
そんな個人的な事情も許容されない程の労働運動、三池炭婦協からの、デモ、集会への強制動員は、叫び出したい程、拒否反応を示していた。母親俊子にとって限界ギリギリだった。
三池炭婦協は、解放区と化した炭住を闊歩していた。
それに反して、父親健一は、相変わらず第1組合の「活動家」気取りがエスカレートしていた。
正義感が人一倍強かったのでないことだけは確かだが、「炭住」からの引っ越し、即、第2組合(御用労組=会社側)への「転向」に強く反撥した。
父親健一は、「活動家」として、「社会主義者」として確信を持っていたわけではなかった。ただ、周囲の雰囲気に巻き込まれやすかった。自分が「活動家」であることは、当時多数派であった第1組合の中では、ある種のステータスでもあり、ファッションでもあった。
「向坂学校」(社会主義の学習会)での学習もあり、「社会主義」理論から見ても、「転向」は自分に許せない最後の一線だったのだろう。なによりも、かっこ悪かった。
夫婦の会話と雖も、隣近所に筒抜けな「炭住」の住まいで大声をあげて争うことはできなかったが、時にはヒソヒソ話しで、時には声を荒げて、母親俊子は健一に嘆願し、時には泣きすがり、一人息子巧の大病も引き合いに出した。退けない一線だった。
母親俊子は健一の実家の義理の両親も味方につけた。
こどもの遊びとはいえ、デモごっこしたり、労働歌、インターナショナルまで口ずさんだりしていることまで言いつけた。それには、流石の義理の両親も眉をしかめた。父親健一の実家は、熊本の農家に典型的な「保守」の家だったので、内心、長男健一の「左傾化」を危惧していたのだった。
一族総出で、息子まで引き合いに出されては、それには流石の健一も逆らえず、結局、折れた。
健一の意にまったく沿わない「転向」だった。健一のこころにあったのは、思想的「転向」ではなく、社会主義の向坂学校の自称「優等生」としての面子とかっこ悪さだった。
この夫婦の溝は、小さくはなかった。息子巧の人生にとっても・・。
会社側が、組合対策として借り上げていた白川社宅への引っ越しは、つまり、「転向」を意味していた。
労組の解放区「炭住」からの「脱出」先だった。母親俊子にとっては、労働運動、三池炭婦協からの「解放」だった。
当初、俊子は喜々として、同じ屋根の下の家族と親しくし、一緒に袋貼りの内職をしたり、大牟田での編機の仕事に一人息子の巧を連れて出掛けていったりした。
俊子たち三人家族の部屋は二階だったが、一階の藤田さんの部屋に集まって、大牟田の松屋デパートの包装紙の束をテーブルの上に置いて、数人の奥さんたちが袋貼りの内職をしていた。
巧も、母親の傍に連れて行かれたので、巧は、今でも、その糊の匂いと包装紙の束の匂いをしっかり覚えている。
奥さんたちの交流の場ともなり、互いに親しくなっていった。
時には、沢山の葡萄をみんなで買って来て、葡萄酒を仕込んだ。その甘酸っぱい匂いを、巧ははっきりと覚えている。できたら飲ませてくれるものと思い込んでいたが、結局、一度も飲ませてもらえなかった。
母親俊子は、女学校卒業後、大牟田の文化服装学院を出ていた。
大牟田での編機の仕事場は狭かった。いつも、巧は母親の編機の傍で遊んだ。当然、母親が動かしている手の動きも、編機の動き・シャーシャーという音もしっかり記憶している。
幼児らしい遊びの内容も記憶している。編機を大きな「建物」と見なして、そこで、いろんなドラマを空想した。巧にとって、「編機」は、「敵の基地」であり、巨大な構造物だった。
仕事場への往復は、母に手を引かれての歩きだった。それが、巧には、たのしかった。
16. 三井三池製作所・・転向者の末路
かくは悲しく生きん世に、なが心 かたくなにしてあらしめな
中原中也・・
大牟田の三井三池製作所が父親健一の職場だった。
三井三池の労働争議の只中にあって、「転向」した健一の心境は複雑だった。
原則的な戦闘的労働運動の第1組合の組合員と、会社が第1組合潰しのためにでっち上げた御用第2組合の組合員との確執は相当なものだった。ましてや、第1組合を「転向」して第2組合の組合員になった健一に向けられる「世間」の眼は厳しかった。
今迄は、終業後に労働運動の学習会である「向坂学校」に通うのが常だった。それから「解放」された健一は、自分の負い目を覆い隠すかのように遊び耽った。
三井三池製作所の終業時間午後5時には、おもしろい光景が見られた。4時50分頃から正門に労働者が沢山集まり、午後5時丁度に正門が開放されると一斉に労働者が蜂の子を散らすように出て行くのである。
健一も、何時しか、その一員になっていた。「向坂学校」ではなく・・。
丁度良く、正門前には沢山のパチンコ屋が連なっていて、健一は、その数軒の常連だった。ムキに為ってパチンコ屋に通い詰めた。
安月給なのに、母にはギリギリの生活費しか渡さず、健一はキャバレーにも通っていた。酒浸り、女浸りだった。
健一の妻である俊子と息子巧の生活を犠牲にして、パチンコ、キャバレー、酒浸り、煙草もヘビースモーカーで、女遊びもハンパではなかった。あたかも、「転向」を強要した母に対する当てつけのように。
母親は、何度も父を迎えに行った。パチンコ屋、キャバレーへと。そのたびに、父は帰宅後、母に罵声を浴びせ、たびたび叩いた。
母親は、幼児の巧を利用した。
父がよく行くキャバレーを探り当て、巧を連れてキャバレーの前に行き、巧に父親を連れ戻すように、巧ひとりを中に入れた。
幼児の巧は、母親に言われるまま、キャバレーの中に入ると、数人の、厚化粧の女性が「まぁー、かわいらしかね-」と行って巧をテーブルに座らせてジュースを勧めた。父親も照れ笑いしながら小声で巧をあやしたりしていた。その時のジュースの味を今でも覚えている。
しかし、暫くすると、父は巧ひとりを外に連れ出して、母と一緒に帰らせた。その夜、父は結局帰らず、翌日夜泥酔して帰宅すると母を怒鳴りつけ、殴り、踏んだり蹴ったり大暴れした。巧は、布団の中で震えて泣いていた。
白川の社宅は、4家族が同居していたが、当然周囲の家族に筒抜けだった。
翌朝、母の腫れた顔を見て、見て見ぬふりする人、小さな声で心配してくれる人がいたが、母は、手を合わせて「すんまっせん、すんまっせん・・」とうつむいて涙ぐむばかりだった。
母親が、巧を連れて、パチンコ屋に父を迎えに行って、やはり、巧をパチンコ屋の中に入れて、父親を迎えに行かせたことがあった。
父を見つけた巧は、笑顔で父の傍に行ったが、機嫌悪そうに巧を外に出て行かせた。
その夜父が帰宅すると、何にも言わずに、突然、巧を思いっきり何度もひっぱたいた。
母は、静かに「なんばすっとね!」と、父を止めたが、父の怒りは静まらなかった。巧は泣くばかりだった。なぜひっぱたかれたのか理解できなかった。
巧が父離れした瞬間だった。
父の女遊びは、酷くなっていった。何日も帰らない時があった。
白川社宅の他の家族はみんな、母子を心配して、父が帰らない時には自分のところに食事に招いてくれた。となりのおばあさんは、眠くなった巧を自分の布団に入れて寝かせてくれた。おばあさんの娘とはいえ、いい年頃の娘の布団に寝かせてくれた時があった。たまたま、巧は、お寝しょしてしまった。娘が帰ると巧を睨みつけた。その顔は、何十年経っても忘れていない。
給料日には、終業時間の夕方5時に、三井三池製作所の正門前にキャバレーのホステスたちが「つけ」で溜まった借金を父親に請求するために待っている程であった。父親は、借金取りからコソコソと逃げ回っていた。
当然、給料の大半は、そんな借金で取られ、母と子は、米も買えない程になった。
母の実家に野菜をせびりに行くことも度々であった。実家の親が、母の甥っ子、姪っ子に野菜や米、卵を持って行かせたことも度々であった。
しらふの父親に母が静かに問いただしても、言い争いになり、最後は結局、「こげんしたっは、おまえのせいたい!」と一方的に母を詰るだけで、話し合いにならなかった。そのたびに、母は肩をふるわせて泣くばかりだった。
それでいて、父は毎晩母を求めた。嫌がる母を・・。まるで、虐待・拷問のように・・。
幼い巧は、目が覚めても寝たフリをしていた。その度に何故か、母が入院中、おばさんの家の裏の森で見た男と女の風景を思い出した・・。
17. 「薬はありませんか」
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めにくらく、
死に死に死に死んで死の終りにくらし。」
弘法大師空海『秘蔵法鑰』
せっかく、「炭住」から、「労働運動」から「解放」された母俊子であったが、今度は、父の「報復」の「放蕩」と、極限までもの「貧乏」に苦しまされた。
母の惨めさは限界だった。
実家の両親のところに行った。
「離婚したか。辛かぁ。」
当時は、女手一人で子どもを育てるのは至難の業だった・・と、母は思っていた。
泣きじゃくる母に、両親は、
「巧を父親に渡すんだったら戻って来たってんよか!」
と言って、子連れの離婚には頑として反対した。
しかし、両親も内心心配でたまらなかった。よっぽど、
「よかよ。巧ば、連れて帰って来んね。」
と、やさしく言ってやりたかった・・。
自分達が高齢であること、農家の暮らしは現実にはとてもたいへんであること、母である末娘の「農家嫌い」の性格を熟知していること、なによりも、巧の未来にとって町で育つ方がいいと、百姓の辛さ・農村の息苦しさを熟知している老夫婦は判断した。それとて、ギリギリの判断であった。
「巧を父親に渡すんだったら戻って来たってんよか!」
母俊子に、そんなことができる筈もなかった。
母俊子は、最後の頼みを失って、失意のもとに白川の社宅に戻った。
巧の脳裏に焼き付いている記憶がある。
冬の寒い、曇った日だった。母俊子は、幼児巧の手を引いて、歩いて薬局を何軒も廻った。
母と子は、黙ったまま、何時間も歩き続けた。
母は、涙ぐんでいた。
薬局に行って、印鑑を押して何かの薬を買った。
また、別の薬局に行って薬を同じようにして買った。
何件もの薬局に行った。
巧の記憶にあるのは、この風景だけである。
まだ、幼稚園前、3-4歳くらいの頃だろうか。
ずっと後になって、分かった気がする。
母は、死のうとしていた・・。幼児の巧を連れて。
母は、一生を通じて、よく睡眠薬を愛用していた。その時も、恐らく大量の睡眠薬を買い漁ったのだろう。
母の思いは、実行されず、お陰で、今、これを書いている。
何故自殺を思い留まったのかは、巧には知る術もないが。
多分、明確な理由なんてなかったのだろう。母の気分がもう少し落ち込んでいたら、もう少し違っていたら、なにかがほんの少し違っていたら・・決行されたのだろう。
そしたら、今、こんな文も書いてないが・・。
「薬はありませんか」
「薬はありませんか」
寒くて、どんより曇った空の下
母に手を繋がれて
ふたり黙ったまま
黙々と歩いた
薬局を渡り歩いた
「薬はありませんか」
「薬はありませんか」
「薬はありませんか」
「わたしたちふたりを楽にしてくれる薬はありませんか」
・・・
母と子
18. 50~60 年代の大牟田
その後、幼稚園に通う前頃の記憶が残っている。
ずーっと後になって、数十年ぶりに「大牟田」の街を歩いたことがある。表面的に小綺麗になったが、まったく活気がない、死んだ街と化していた。
善し悪しは別として、50~60 年代「総資本対総労働の戦場」だった頃の大牟田の方が好きだ。活気があった。エネルギが渦巻いていた。人がピリピリしていた。
父も、少し静かになっていたのかもしれない。この辺の事情は、よく知らないが。
母と父と三人で、よく映画館に通った。母の工夫なのかもしれないが、父を少しでも家庭に戻そうとする試みの一つだったのかもしれない。
確か「富士館」という名前だったと思う。大牟田の繁華街の中にあって、帰りに「素うどん」をよく食べた。そのうどん屋さん、テーブル、うどんの味までよく覚えている。
映画は、日本映画ばかりだったと思う。赤木圭一郎とか、市川雷蔵とかの、ヤクザもの、時代劇とかだった。「楢山節考」を見て泣いたのを覚えている。そのことを、母が、自分の両親に微笑みながら話していた。
確か「松屋デパート」というのがあって、屋上に小さな遊園地があって、グルグル回る飛行機に乗せてもらったのをよく覚えている。
夜の街路樹通りで、父の知り合いのおじさんに、炒った「椎の実」を一袋買ってもらった。リアカーに引いて、焼き芋屋さんのようにして売っていた。何故か、鮮明に記憶に残っている。無性に美味しかった。その光景が、古いフランス映画のようで、巧の記憶の中では、とても美しい。
大牟田のバス通り沿いに、父方の親戚が歯医者さんをやっていた。その叔父さんも叔母さんも、顔も服装も話し方もしっかり記憶している。そこに何回か行ったのを覚えている。虫歯か何かを取ってもらったが、料金を取らなかった。その、母とのやりとりを何故か記憶している。
その歯医者さんが趣味で陶芸をやっており、作品を父母にあげるというのを、執拗に断っていた父母を記憶している。貰えばいいのに、なぜ断るんだろうと不思議だった。歯医者さんも、貰ってくれた方が喜ぶだろうに、と。
50~60 年代の大牟田は、いろんな人がウヨウヨしていた。パチンコ屋の音、スピーカからの流行歌、客引きの大きな声、ケンカする男達のどなり声、濃い化粧の女性たち、ヤクザ、党派らしき学生たち、活動家たち・・・渾沌としていた。
大牟田の白川寄りのところに、野菜市場があった。「選果場」と言うのだろうか。親戚の農家が、軽トラで野菜を市場出しに来ていて、よく行って残り野菜を貰っていた。西瓜を食べた記憶がある。雑踏で、渾沌としていたが、活気があった。
多分、父の周囲は、「第2組合」になっていたのだと思う。父の「第1組合」からの逃亡・離脱の「負い目」から目を逸らすのに、母は母なりに工夫し、「映画館」は効果を奏したのかもしれない。一時的ではあれ。
嵐の中の静けさ、よき時代と言えば、よき時代であった。家族らしいひとときだった。
19. 籠城
「死は 偉大なり。
われらは 高らかに笑う
そが うからなり。
われら 生のただなかにありて思うとき、
死は われらのただなかにありて
涙ながしつつあり。」
『形像詩集』リルケ
父は、白川社宅から三井三池製作所に歩いて通っていた。
当初は、夜の街を飲み歩いて家に帰って来ないことがあったが、そのうち、労働運動絡みの「籠城」で帰って来ないことが度々、暫くあった。
物心ついてから、分かった。
ずっと第1組合として「籠城」していたのだと思い込んでいたが、多分、第2組合(会社側・御用組合)としての「籠城」だったのだろう。
第1組合(本来の労組)の闘争で、ストライキをやってピケを張っている期間などに就労を確保するために会社側が第2組合員の労働者を「籠城」させていたのである。
もし、第1組合の籠城だったのなら、あんなに静かに父と面会なんて考えられないからである。会社は、警察権力を動員してでもピケを排除してくるだろうから。
母と一緒に、父の着替えと、夕食の弁当を作って会社に持って行ったことが何度かある。第1組合との闘争の関係か、いつも夕方~夜だった。
だから、帰りは遅くなることもあった。
父は、長男だったが、実家は次男が住んで両親を見ていた。その次男は、大牟田の自動車工場に勤めていた。
その職場に、母と一緒に寄って帰ったことがあった。何か、食べものを届けたのかもしれない。
職場で、少し母と話ししてから、次男の叔父さんは白川社宅まで一緒に歩いて送ってくれた。叔父さんは、とても優しい人で、母と歩きながら静かに話ししていた。
「おげな、兄さんとは考えが違うけん。」という言葉がいまだに巧の頭に焼き付いている。多分、社会主義の向坂学校時代の左翼イメージが父には強かったので、そんな兄とは違うということなのだと思う。
次男は、自衛隊出身のバリバリ右のひとだったから。
第2組合に転向させられていたとはいえ、向坂学校出身の社会主義者というイメージが父には付きまとっていたのだろう。
白川社宅に着いて、「それじゃ」と言って分かれる時、何か少し寂しげだった。叔父さんも母も。
・・・ある時、いつものように父に面会に行った。父は、穏やかに母と巧に話していた。
突然、ひとが慌てて走って行く。父も飛び出して行ったが、母と巧には「来るな!」と言い残した。早々に母と巧は帰らされた。
おとなたちの会話を耳にしてしまった。ひとりの労働者が大型機械の歯車に巻き込まれたとのこと。即死だった。胸から上が無くなっていたとのこと。
おとなは、不注意にも幼児の前で、幼児は何も分からないと思い込んでいて、いろんなことを平気で話す。それが、時には、その幼児のこころをズタズタにすることもあるというのに。
巧は、その労働者の事故の様子が眼に浮かんで、身がすくんだ。巧の想像と言えば想像に過ぎないが、巧のなにかが変わった。
20.三川鉱前の床屋
「未来はすでに
始まっている。」 ユング
三池炭坑三川鉱前に、父方の親戚が床屋さんをやっていた。よく遊びに行っていた。
小さな床屋さんで、床屋の奥の狭い部屋で叔母さんが一人で寝泊まりしていた。
三川鉱近くを歩いた。
印象深いのは、松下電器ナショナルの細長い家のような宣伝物を覚えている。当時、あちこちで見かけた。
当時の三川鉱は、煉瓦作りの高い塀で囲まれており、その上には、厳重に鉄条網が張り巡らされていた。
こどもながらに、
「どうしてこんなになってるんだろう?」
と、思った。
叔母さんに尋ねると、
「朝鮮人ば逃げださんごつすっためたい。」
と答えた。よく分からなかったが、それ以上、会話があったのかどうかは記憶にない。
ずっとずっと後になって、生まれて初めて行った海外旅行が、ソウルだった。格安ツアーで、二泊三日で三万円弱だった。年末ギリギリに、まだ幼い長男と二人で行った。
西大門の日帝時代の刑務所跡に行った。今、どうなっているのか知らないが、当時は、結構、生々しい展示だった。
西大門刑務所の周囲が、煉瓦の高い塀で囲まれていた。その上は、三川鉱のように、鉄条網で厳重に囲まれていた。だから、直ぐに三川鉱を思い出した。
内部の展示は、日帝時代の刑務所の中が当時のまま展示されていた。
政治犯などを閉じ込めていた狭い牢屋の中に入った。そこから、高い所に位置している小さな、格子窓から外を見た時、
「あ!この景色見たことある!」
と思った。それから、まるで記憶の洪水のように、次から次に記憶が蘇った。この牢屋の匂い・雰囲気・冷たい鉄格子の触感・・すべて「懐かしかった」。以前、此処にいたことがある!そう思った。
心理学で言うデジャブなのだろうが、あまりにも、確かなことだった。
それから、また、ずっと後に、韓国人写真家と民俗学の学者と一緒に、シャーマンの祈祷の現場を撮影したことがある。それが、この西大門の直ぐ近くのムーダン(巫堂)だった。
・・・これも、必然だったのかもしれない。
三川鉱は、三井三池争議の舞台のひとつとなっていき、原則的な本来の三池労組(第1組合)の組合員と、会社側が捏ち上げた御用労組である三池炭鉱新労働組合(三池新労)(第2組合)の組合員が、暴力でぶつかりあった場所である。ピケを張る三池労組の組合員と、警察権力の護衛の中、集団で就労に向かう新労組(第2組合)が武装対立したのである。「ゲバ棒」の初まりだと思う。
四山坑(熊本県荒尾市)の正門前では、三池労組員数百人が、新労組員の就労を拒むためピケを張っていた。そこへ棒や刃物を持った約200人の暴力団員がトラックなどで乗り付けピケ隊を襲撃し、三池労組員久保清さんが殺された。
・・幼い巧は、こんな事件が起きる前の現場で幼稚園時代前後を育った。
21. な お み
「今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみなりたれど、
文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、
限なき懐旧の情を喚び起して、
幾度となく我心を苦む。」
『舞姫』森鴎外
線路近くの白川社宅一階の藤田さんのお宅には、こどもが二人居た。お兄ちゃんと妹の二人で、歳の差は二歳程度だった。お兄ちゃんの方は、少し知的障害があり、巧が遊ぶのはいつも妹のなおみちゃんの方だった。巧とは一歳違いだった。同じ家に同居している状態なので、遊ぶ時は、なおみちゃん家族の部屋に行ったり、巧の家族の部屋に来たり、共有の庭だったりした。毎日毎日何時も一緒に遊んだ。
巧の父方の親戚が近くで床屋さんを営んでいた。三川鉱前の叔母さんの息子夫婦である。
当時の鉄道は、さほど頻繁に汽車が走らないので、線路は付近の人達の通路代わりだった。今では考えられないことだが。
なおみちゃんと巧は、手をつないで、その親戚の床屋に遊びに行った事がある。二人で線路を歩いて、手をつないで行った。
床屋の夫婦は、ニヤニヤしながら、
「巧ちゃん、もう「彼女」ば連れ歩こっとね! 早かねぇ~! うらやましかぁ~!」と揶揄いながらジュースとお菓子を二人に出してくれた。
帰りも線路を歩いて帰った。手をつないで。
探偵ごっこのような遊びで、少し遠くまで行ったことがある。「おかあさんが「遠くに行ったらでけん」て言ったもん!」と、嫌がるなおみちゃんを口説いて。
なおみちゃんのお父さんは、カメラが趣味だった。自分で、暗室で写真を焼いていた。暗室作業は、見たことがないが、フィルムのパトローネが山のようにあり、こどもの玩具になっていた。たくさんのパトローネを積み木のようにして遊んだ。
思えば、それが最初の「写真」との出会いである。古きよき時代、フラッシュのランプも一回一回取り替えていたようで、たくさんのランプを見たことがある。
巧は、幼稚園に通っていた。一つ年下のなおみちゃんは、巧が幼稚園から帰ってくるのをひとりで待っていて、それから一緒に遊んだ。
その日も一緒だった。
多分、幼稚園が休みの日で、朝から一緒に遊んでいた。
大人が走って行く。巧の母親も、なおみちゃんの母親も走って行く。
巧となおみちゃんも一緒に走って行った。いつも、手をつないで歩いている線路の方へ。
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・・・見てはいけないものを見てしまった・・・二人は。
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こどもながらに、女の子は強いと、巧は感じた。
「『ひとは死ぬと「物」になるけん怖かなか』って、おかあさんが言ってた。」となおみは「平然」としていた。少なくとも、巧にはそう思われた。
・・巧となおみは、同じ運命を共有した・・。
それに反して、巧は、それ以来なにかが大きく変わった。致命的に激変した。
その日の夕方、巧は、いつものように、父母に連れられて大牟田の映画館に行った。
巧は、怖かった。映画館が暗くなるのが。暗い通路、足元に踏んではいけないものがあるような気がして。「あれ」・・・「あれ」があるような気がして。
震えた・・。
映画のスクリーンなんて、どうでもよかった。
自分が、何処か遠くに居るような気がした。
自分が、自分から遠く離れて行く気がした。
あの「物」の方へ。
巧は、その日以来元気が無くなっていった。
目の前のこと、世界が、何処か、よそよそしくなっていった。
自分も、自分自身も、同じように、「物」になり得る・・。
そのことが衝撃だった。
同じ「物」であることに。
それは、どうしようもない、「事実」であった。
しかし、それと向き合うには、あまりにも、幼なすぎた。
幼稚園でも、目に見えて元気がなくなっていった。幼稚園の先生が心配して母親に尋ねた程だった。
母親が先生に説明した後、先生の顔が暗くというか、顔をくちゃくちゃにして、ことばは出なかった、と言うか出せなかった、なにか言ったのかもしれないが・・それから、きびしい表情に変わったのを巧はしっかり確認した。
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今でこそ「PTSD」などという言葉があるが、当時は当然そんな言葉もなく、精神医学も社会的認知が未だされておらず、周囲の大人も、巧の元気の無さが精神医療的治療対象だということに思い至る環境はある筈もなく、皆無だった。時代的にも。
今ならば、当然「PTSD」と診断されて治療対象になり得る状況だったのだろう。
いちばん戸惑っていたのは、母と父かもしれない。
当時、小学校入学の記念写真があるのだが、一見して分かるほど、今にも泣きそうな暗い顔である。とても、小学校入学写真とは思えない。
・・・「太陽を直に見てしまった者は、眼が潰れる」・・・
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森鴎外は石見国津和野(現:島根県津和野町)出身である。鴎外は、生涯決して帰郷しなかったそうである(墓は津和野だが)。その理由について研究者の見解として、鴎外は、幼児の頃、切支丹迫害の現場に遭遇して、処刑現場を見たのではないかという解釈があるとのこと。あの饒舌な鴎外と雖も、一言もそれについては言及していないので、真相は分からないが。
ひょっとすると、鴎外と巧は、同じ種類の幼児体験をしたのかもしれない。鴎外も、巧同様に、人生の根源を揺るがす程の衝撃を受けたのかもしれない。「物」から。
河原温の絵「浴室」のような・・。
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あの「物」に、どんな人生があったのか、知るすべもない。
分かるのは、戦後最大の労働争議、革命前夜と呼ばれた「三井三池争議」の真っ最中のできごとであるということである。
髪の長い女性だった・・
歴史の舞台、政治の表舞台だった大争議の裏では、人間の生々しいドラマがあった。
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その日以来、巧となおみは、何かが変わった。
巧となおみは、いつものように、パトローネの「積み木」で一緒に遊んでいた。
ふと巧が気付くと、なおみは直ぐ横で畳の上に俯せになって、じっと巧を見続けていた。なおみの手は、なおみの下腹部にあった。巧は、不思議な気持ちになったが、なおみが何をしているのか、わかるはずもなかった。
しかし、この時のことは、巧の脳裏から離れなかった。彼女の虚ろな眼差しも、真剣な顔つきも。
巧となおみが、いつも一緒に仲良く遊んでいるのに嫉妬したのか、近所の、少し歳が上の女の子たちから巧が虐められた。
巧は、数人がかりで、意味もなく酷く罵倒され、こづかれた。巧は涙ぐんだ。女の子たちのうちで一番体の大きなボスが、なおみを誘って一緒に余所で遊ぼうとした。
なおみは、少し戸惑った後、その「ボス」の手を黙ったまま振り切った。女の子たちは、なおみの悪口も言いながら余所に行った。
部屋の中には、巧となおみの二人が残された。なんとも言えない、ある種の「気まずさ」が流れた。二人は、黙ってパトローネの「積み木」を取り出した。
いつもと違って、まったく「積み木」遊びに集中できなかった。それでも遊んでいるふりをし続けた。
巧は、だまって「積み木」ごっこしているなおみの目に涙が溜まっているのに気付いた。巧も、理由も分からず、いっしょに涙が出てきた。
二人は、じっとだまったまま抱き合った。暗い部屋の中で、いつまでも抱き合った。
もう少し歳がいっていたら、違う展開になっていたのかもしれないが、そうなるには、ふたりとも余りにも幼なすぎた。幼稚園児と、ひとつ歳下の幼児では。
女の子は強いと思った巧だったが、なおみも自分と同じように、あるいは、それ以上に傷ついていたんだと分かった。
巧も、下腹部に、なんとも言えないツーンとした感じに、生まれて初めてなった。
早すぎ? ・・分からない。
それから「二人の世界」は続いた。いつも一緒に遊んだ。
ある日、庭の日なたで、「お父さんお母さん」ごっこした。
「お父さん」巧と「お母さん」なおみの「おままごと」が、いつの間にか「お医者さんごっこ」になっていた。なおみは自分のパンツを下げた。
巧はじっと見つめた。まじまじと見るのは生まれて初めてである。
幼い頃炭住の銭湯の女湯に母親に連れられて入って少女の裸体は目に焼き付いていたが。
女性の局所をマジマジと見るのは初めてであった。
巧は、・・不思議な感覚に襲われた・・
「美しい!」と思った・・。
その時、なおみの母親が声を掛けて来た。
静かな声で「なんばしょっとね?」と。
怒ってはいなかった。むしろ。戸惑いながらも少し微笑んでいた。
その「事件」は、大人の間では少し話が出たようだが(多分、なおみの母親と巧の母親との間では)、幼い二人は何も言われなかった。多分、あの「事件」の後だったから、むしろ、それを心配していた。
ある日、多分「紙芝居」の自転車のおじさんを追い掛けて、少し遠くに来てしまった。夕陽が有明海の方に沈みかけていた。
ドンドン暗くなっていく。
なおみと巧は、手をつないで、急ぎ足で帰っていた。なおみが少し涙ぐんで、「お母さんに叱られる」と言った。
それでも、「夕陽がきれい!」と、ふたりで、ほんの少し眺めた。というか、夕陽のなか、ふたりであるいた。
巧は、焦った。
二人で急いで歩いた。じっと黙ったまま。手をつないで。
その時、ふっと、あの下腹部がツーンとなる感じが巧を襲った。何故なのか理由は分からなかった。
その時、何故か、あの映画館の中で起こったことがまた起きた。自分が、何処か遠くに居るような気がして、自分が、自分から遠く離れて行く気がした。
「何故、自分は今此処に居るのだろう?」
「何故、自分は「あの「家族」のところに帰らないといけないのだろう?」
「あの「家族」ではない、この目の前に見えている家に「ただいまあ」と言って帰ってはいけないのだろう?」
「目の前の「世界」は何故こんな『世界』なのだろう?」
「あの夕陽は?」
「自分は、何故『自分』で、なおみは何故『なおみ』なのだろう?」
「何故『自分』が『なおみ』ではいけないのだろう?」
世界が、『自分』から遠く離れて行く気がした・・。
歩いている自分が分からなくなり、「歩いている」こと自体が分からなくなり、巧は立ち止まってしまった。足を一歩も踏み出すことができなくなってしまった。
なおみは、巧が疲れたのかと思って「もう少しだから急ごう」と巧の手をとって巧を急いた。なおみの声に、はっと我に返って歩きだした。
この出来事も、巧の人生を大きく変えていった。
********************************
断片と化した人間たち=「物」がごろごろしていた・・
部品と化した手・足・胴体・頭・肉片・・
しかし、「人間」・だった・・わたしと同じ・・
それを踏みつけないかと・・
震えていた・・
真っ暗な映画館の中・スクリーンに映るのが・世界・なのか・・
「物」が・死体が・「世界」・なのか・・
しらじらしい気がした・世界が・・
スクリーンに映る・・
「世界」・「「世界」」・「「「世界」」」・・・
遠くなっていく・・
死体にワープした・断片と化した・「物」に・・
「物」の側に・・
ただ震えていた・・
血の海の中で・・
震えながら漂っていた・・
救いを求めることすら・・
手を合わせることすら・・
祈ることすら知らないこどもは・・
22. 敵前逃亡
「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、
逆に、
人間の社会的存在がその意識を規定するのである」
カール・マルクス
それ以来、巧は、こどもらしい元気さがなくなっていった。
小学校に入学しても、ほとんど何も記憶に残っていない程、学校生活に身が入っていなかった。すべてに、うわの空だった。
幼児から幼稚園までの出来事の方がよっぽど印象に残っていた。
僅かに記憶していることは、巧が虐められていたことである。
体育館で、同級生に突然投げ飛ばされて、肩の骨を折った。何か、ケンカを売ってきたのだろうが、巧は相手にする程の元気もなかった。投げ飛ばされるまま、床に叩き付けられ、骨折した。
状況を聞いた母親が、巧に怒った。巧が男らしくないことに。
自分の体のことだが、巧にとっては、どうでもよかった・・。
母が厳しかったので不登校ではなかったが、勉強にやる気はまったくなかった。いつも、なにか、考えごとをしているような、うわの空といった感じだった。
教室で、ぼーっと外を見ていることが多かった。
先生が母親に連絡して、母親が小学校に呼び出されたくらいだ。あの「物」の「事件」が話題になったようである。先生も、どうしようもなく、積極的な指導はなかった。なす術もなかった。
当然、成績は、よくなかった。と言うか、最悪だった。
巧にとって、勉強もどうでもよかった。
巧のなかでは、勉強どころではなかった。
あの「事件」までの記憶は、幼児のころまで(瞬間的には0歳の時の記憶も)鮮明に残っているのに、なぜか、小学校1年頃の記憶は殆どない。
ただ、悪いことには、白川の家の近くの駄菓子屋で、店番のおばさんが見ていないスキに商品を盗ったことがあった。それは記憶している。ばれなかった。ばれたとしても、そのおばさんが知らないフリをしたのかもしれない。それでも、それ一回限りだった。いや、二回やったかもしれない。それがどうしても欲しかったわけではない。理由はない。ただ、なんとなく・・。
近所のともだちと遊んでいても、平気で嘘をついた。たわいもない嘘だが、平気で嘘をついた。
嘘は、ばれる、破綻するものだが、なんの気にも留めず、嘘でも本当のことでも、巧にとっては、どうでもいいことだった。ともだちは、当然離れていく。それでも巧は、なんともなかった。笑顔がなくなっていた。
小学校入学以来、なおみとは、遊ばなくなった。
なおみと巧の母親も、そう仕向けたかったのだろう。
ただ、会うと、なおみは、親しげにニコニコしていた。何か言いたげに。なおみの笑顔が、とてもかわいらしかった。しかし、なにも話さなかった。
少し知的障害のあるお兄ちゃんの方と遊ぶようになり、巧は卑劣にもお兄ちゃんを騙して、玩具を奪ったことがあった。そのお兄ちゃんが、「地球ゴマ」の玩具を持っていて、それが欲しくてたまらなく、ことば巧みに騙して自分のものにした。母親が気付いて、「返しなさい」と言われ、「返した」と言いながら、実は、壁の穴の中に隠し持っていた。取り出して、遊ぶわけでもなく、ただ隠し持っていた。
巧のこころは、荒んでいた。
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父親には、変化があった。
ある日、会社関係と思われる男のひとたちが数人家に来て、何か父親と深刻な話をして、帰り際に、真剣な怖い顔で、巧に向かって「きみのお父さんはたいへん立派なひとだ!」と力強く何度も言った。あまりにも真剣な眼差しなので、怖くなり、巧は泣きそうになった。
男のひとたちが帰った後、父親の顔が青ざめていた。何か、酷く戸惑っているようだった。オドオドしていた。あんな顔は、初めてだった。
母親も、深々とお辞儀をして、見送った。
何の話だったのかは、巧には分からない。
ちょうど、この頃、三井三池争議は「決戦」直前状態だった。会社側も労働組合側もピリピリしつつ、裏でも、つば競り合いが激しく交わされていたのだろう。その一環だったのかもしれない。会社側からの。
労働争議の表側では、第一組合(本来の労働者の立場に立った原則的な労組)と、第二組合(会社側が「飴と鞭」で第一組合の労働者を切り崩してでっち上げた御用組合)の組合員どうしが文字通り、角材を持って武力衝突を繰り返していた。流血の騒乱である。その後の学生運動のゲバ棒の初めである。
面白いのは、どちらも本質的には「職場死守!」のスローガンだった点である。「労働」に対する見方の違いと言えば違いであろう。要求は同じなのに、現実の行動はゲバ棒での殴り合いになるところが人間の性(さが)であり、悲惨である。
会社・資本・国家権力は、高みの見物である・・。
ピケを張っていた第一組合の組合員が、会社側の息の掛かった暴力団に刺し殺された。火に油を注ぐようなものだった。対立は、余計激化した。
まだ日本の労働組合には、全国組織で、社会党に支えられた「総評」があり、全国動員を掛けられる力があった。
九州の小さな地方都市「大牟田」に日本全国から「総評」傘下の労働組合の労働者部隊や、意識の高い市民運動系の活動家たち、大学の新左翼の党派の部隊も多数駆けつけていた。この時はまだ、共産党・民青系のひとたちも多数いた。第一組合の労働者の家家に泊まり込んで闘争に参加していた。文字通り、「総資本対総労働」の決戦の場と化していた。
巧には、父親と母親が何を話して、どう決めたのかは分からない。
ただ、はっきりしてるのは、この事件(会社関係と思われる男の来訪)直後、父親は、『東京本社栄転』になったことだ。
争議の最大の山場「ホッパー決戦」と、その後の第一組合の歴史的敗北に至る直前である。
政治問題と化していた。政府も並々ならぬ関心を持って、積極的に介入してきた。
敗北の原因については、述べるのをよそう。いろいろ言いたいことは山程あるのだが。
・・ただ、会社・政府側の、国家権力の暴力装置である警察権力を背景にした恫喝と並々ならぬ決意の前に、多数の負傷者を恐れた第1組合側が、「(第1組合員を狙った)不当解雇」「大量解雇」を容認したことだ。
第1組合の敗北である。・・(異論はあるだろうが)
争議と何か関係があって、『東京本社栄転』になったのだろうか。多分、そうだろう。
『東京本社栄転』の割には、あの父親の青ざめて暗くオドオド戸惑った顔はなんだったのだろう?それほど、大きなことだったのだろうか。
父親の親戚と、母親の親戚の両方から『東京本社栄転』送別会の宴が催された。どちらも、飼っていた鶏を潰して、盛大な料理が用意され、酒宴は賑やかだった。
しかし、参加者の誰も皆、『東京本社栄転』の真の「意味」を知っていたのだろう。だから、余計に『栄転』をクローズアップして、踊りまで酒の席で出たくらいなのだから。父親には、もう戸惑いの表情は皆無だった。本気で、自分の『栄転』だと思い込んでいるようだった・・。少なくとも、そう見えた。巧には。自慢気ですらあった。・・居直った・居直り切ったのだろう・・か。
母親は、自分の両親と別れて遠くに引っ越すのが寂しそうだった。今程交通の便はよくなく、「東京」は、遙か遠くだった。
そのおとなの会話で、巧は小耳に挟んだ。
巧の幼児体験が深刻で、日に日に暗く荒んだ性格になっていくのを心配した両親が行った苦渋の決断だったとのこと。
・・敵前逃亡の言い訳、心理学で言うところの「合理化」なのは明白だろう。少なくとも父親の深層心理にとっては。
ただ、巧にとっても、『地獄』である「大牟田」から離れられるのは、少しうれしいことだったのは確かである。なんの執着も、執着すべき理由もなかった。
しかし、巧と父母にとっては、自覚してなかったとしても大きな矛盾があった。本質的には。
巧は、三池労組の「解放区」である炭住で育った。つまり、巧は、母親に背負われて、労働歌、インターナショナル、赤旗の波・赤い鉢巻きの三池主婦会のデモ行進のシュプレヒコールを子守歌にして育った。母親の真意(いやいや強制動員されていた)・こころの中とはまったく無関係なところで。
巧にとっては、第一組合(本来の労働組合=「社会主義の学校」マルクス)の姿こそが原風景だった。理屈抜きの「正義」だった。これは、巧の深層に染み着いていた。
なによりも、社会主義の学習会である「向坂学校」に熱心に通っていた頃の自称「組合活動家」の父親の活き活きした姿こそが、巧にとってはあるべき父親の姿だった。
これは、どうしようもないことである。
白川社宅(会社側・御用労組側の避難先)に引っ越してから、父親が豹変した。我が子「巧」を錦の御旗にした母親と親戚に強要された、父親の苦渋の選択だったのだろうが、父親にとっても、大きな矛盾だった。
大争議の裏側の生活者レベルで、巧は、ひとの「地獄絵」をなんども体験した。幼児にとって、引き受けるにはあまりにも大き過ぎて、残酷なことだった。
偶然だろうか?
偶然にしては、大きすぎる『地獄絵』だった。幼児にとっては。
確かに、それは大争議故だった部分も大きいのだろう。それを、親として心配してくれたのも分かる。
そこに嘘はない・・と信じたい。
しかし、あまりにも大きな矛盾を抱えていた。巧と父親、そして、母親にとって。
・・・矛盾は、歪を生むものである。
23. 三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故
「労働者は、生産すればするほど、
自分が消費するものは減り、
価値あるものを創造すればするほど、
自分は価値も尊厳もないものになってしまう」
カール・マルクス
1.東京本社に『栄転』
特急「みずほ」号は、夕方、大牟田駅を発車した。
あの場所を通過するとき、体がこわばった。
父親は、上機嫌だった・・。
母親は、見送りに来てくれた姉との涙の別れからずっと泣いている。
まだ、関門トンネルの時代だった。
三段の二等寝台車。母親と一緒に寝た。
翌朝、東京タワーが見えてきた。父親がはしゃいでいる。巧は、なんの感慨もなかった。
その日は、神田の安旅館に泊まった。夕方、銀座に行った。まだ、茶色の山手線の車両の時代。数寄屋橋の路上で、光るヨーヨーを父親に買ってもらった。何の感慨もなかった。うれしくなかった。
荻窪の三井鉱山の長屋式の社宅が新居だった。炭住のように、会社関係のひとたちばかりだった。炭住と違って、当然、三池主婦会もデモもない。母にとっては天国。
2.「去るも地獄、残るも地獄」
巧の父親が『東京本社栄転』した直後、「総資本対総労働の対決」『三井三池争議』は、あっけなく第一組合(本来の原則的な労働組合)が負けた。第1組合組合員の不当解雇・大量解雇を容認させられた。その後の労働運動から見ると、垂涎ものの奇跡と言っていい程の「団結」(「万国の労働者よ、団結せよ!」マルクス・エンゲルス『共産党宣言』)だったのだが。「総評」あっての全国動員だった。市民運動・学生運動・新左翼・日本共産党・民青も総掛かりで取り組んだ闘争だったのに。
「去るも地獄、残るも地獄」とよく言われた。
確かに、去る者(解雇を容認した第一組合の組合員たち)も地獄、残る者(第二組合(会社側が「飴と鞭」で第一組合の労働者を切り崩してでっち上げた御用組合)の組合員たち)も地獄・・まさに文字通り「職場死守」した筈の第二組合組合員たちに待っていたのは文字通り「無惨な死」と「生き地獄」だった。
3.東京・荻窪の小学校
小学校は最悪だった。
教科書が違い、教科全般が少し進んでいた。最初から進んだ個所からだった。そのギャップについて、当時の先生は、まったく配慮してくれなかった。
成績は最悪だった。転校前の大牟田の小学校の時以上に。
巧も、相変わらず、まったく勉強には身が入らなかった。
体育の時間、懸垂をまったくできず、しようとも思わず、しなかったら・・不思議なことが起きた。先生が福岡出身なのか、怖い眼をして、福岡方言で言った。差別用語だろうから、ここではそのままのことばでは書かないけど、要するに「おとこでない くさった よわむし!」という意味だった。巧にまったく覇気がなく、こどもらしい明るさも皆無だったからなのだろう。それを記憶しているくらいだから、巧は、よっぽどショックだったのだろうが、なんの反応もせず、聞き流した。母にも言わなかった。
荻窪駅前商店街に狭い間口の本屋さんがあった。
どういうきっかけだったのか、忘れてしまったが、小学校低学年にしては、難しい本を買って読んでいた。まず、漢字も知らないものが多いし、ことばも内容もほとんど理解できなかったが、「パリ・コミューン」「ホー・チミン」「ド・ゴール」といったようなタイトルだった。父親が驚いていた。知り合いに自慢げに話していた。息子がこんな本読んでいると。
多分、父親が思ったのとは全く異なり、巧の原風景が引き寄せたのかもしれない。本の何処かに赤旗の絵か写真があったのかもしれない。
印象によく残っているが、小さくて薄い本と出会った。上手とは言えない絵が描いてあった。人間が、頭も手足もいっしょくたになって丸い玉になったような不思議な絵だった。古代ギリシア哲学者、特にソクラテス以前の哲学者たちの説を簡単に絵解きしたものだった。たぶん、この冊子で、タレス、アナクシマンドロス、パルメニデスといったソクラテス以前の哲学者と初めて出会った。内容は分からなかった、と言うか、むしろ、シンプルな記述と下手な絵が面白かった。「世界」が主語になること自体、巧の関心事だったから。あの小冊子は、何度かの引っ越しで、無くなってしまったが、今いちばん欲しい本かもしれない。
小学生の頃から、夏目漱石とか森鴎外とか芥川龍之介とかトルストイとか読み始めていた。
「教養」とかといった言葉とはまったく無縁で、当時の巧にとっては、それらの本は「実用書」だった。が、とても難しかった。巧が生まれ育った熊本・福岡での刺激的過ぎる出来事が消化できず、巧の心身を蝕んでいたから(PTSD)、それから楽になる手段としての「本」「読書」だった。何処かに、巧が死闘している難問の答えが載っていないかと、巧にとっては、難しい哲学も文学も「ハウツーもの」だった。
4.東京・練馬の小学校
一年もしないうちに、半年ほどで、荻窪から石神井の大きな農家の離れみたいな一軒家に引っ越した。あの福岡方言の先生から離れられるのが、なによりも嬉しかった。
石神井でも勉強は嫌いで、全体に出来なかったけど、図工の先生からは褒められた。音楽は最悪だったけど、横笛で曲を一曲吹けるようになると色分けしたビニールテープを笛に巻いてくれるということを音楽の先生がやっていて、それだけは結構上位になった。でも、音楽の成績自体は最悪だったが。はっきり覚えているが、意識的に音楽はサボっていたから。とくに理由もなく。音楽の時間に「シートン動物記」を読んでいて、先生に「おもしろい?」と聞かれた。叱られなかった。
本をたくさん読んでいたので、国語の成績だけはよかった。
担任の先生が「百人一首」を書き出した、わら半紙を配って覚えてくるという冬休みの宿題があった。それは、とても楽しかった。結構たくさん覚えた。この経験は、後にとても役立った。
家族としては、穏やかな日常が過ぎていた。母親の目論見は成功した・・。
5.三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故
ある日、母親が巧に小さな低い声で、ぼそっと言った。
「三川坑で炭塵爆発があったって・・」
「えっ・・」
それで会話は終わった。
父親の発言は、まったく記憶にない。
父親の会社の事故なのだから、会社では蜂の巣を突いたような騒ぎだった筈であろう。
しかし、家に帰宅してからの父親の様子は、まったく記憶していない。
父親と母親が何を話したのかも、巧はまったく知らない。
いつもと変わらない日常が過ぎていた。
1963年11月9日午後3時12分、三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故が起きた。
死者458名、
一酸化炭素中毒(CO中毒)患者839名
を出した。
戦後最悪の炭鉱事故・労災事故だった。
三井三池争議で、労働組合=第一組合の組合員の大量不当解雇を容認し、それに抗議する第一組合員たちをゲバ棒で乱打してでも職場を「断固死守」した筈の御用労組=第二組合の組合員こそが、皮肉にも、その被害者の多数を占めた。
酷い差別を受けてきた与論島出身の労働者、戦時中日本帝国主義により強制連行されてきた朝鮮人労働者も含まれていた。
「去るも地獄、残るも地獄」と言われた。
事故で生き残った者と雖も、事故後半世紀ほど経過しても、一酸化炭素中毒により、多数の患者労働者が寝たきりの闘病生活を強いられている。
事故原因は、三井三池争議に端を発する常規を逸した「合理化・大量解雇・人員整理」のために、安全対策が等閑にされて保安無視の生産第一主義になっていたこと・三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」「実際に何十年も起きていない」という「安全神話」にこそある。
何処かで聞いた台詞でしょ?
そう!
三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」という奢りは、そのまま、311前の「原子力村」そのもの。
巧の父親は、何を思っただろうか。
自分に責任があると思っただろうか。
母親は、何を思っただろうか。
自分にも責任があると、少しは思ってくれただろうか。
この後、ずーっと、何十年にも亘る、父親の酷い酒乱・おんな遊び・母親に対する暴力・DVは、その気持ちの反映だったのだろうか。
これに関しては、父親も母親も、巧には、一言も気持ち・考えを語りはしなかった。
6.「血」を恨む
ただ、ひとつ、巧には、気になることがある。
しばらくして、父親が母親と巧に言ったこと。
「親戚の○○さんが突然会社(東京本社)に来て、社長室に行った帰り、札束をそっと自分に見せた・・・。」
(三池争議中、暗躍してたから・・?)
(それ以上のことは、父親も知らないようだった。知っていたのかもしれないが、巧には言わなかった。)
何故、父親は、まだ幼い巧にそれを言ったのか。自分の親戚は、こんな『おおもの』がいるということを誇示したかったのか。
・・・・聞きたくなかった。それを巧に言った父親の人間性を疑った。巧は父親を完全に軽蔑した。
巧の父親には、虚言癖がある。
もし、そのことが嘘だったとしたら、父親は、人間として許されないと巧は思った。
そのことが本当だったとしたら、父親は、人間として許されないと同時に、巧は、自分自身の「血」を恨むと思った。
それでいて、巧の父親は、まだこどもの巧に、「俺は向坂学校の優等生だったんだ」とニヤニヤしながら自慢した。
父親はどう思って言ったのか知らないが、小学校低学年の巧は、そのことばの意味を完璧に理解した。
父親の「社会主義思想」のメッキが完全に剥がれた瞬間だった。そこにあったのは、「思想」の「し」にも値しない屑以下の屑・クソだった。
これは、致命的だった。
巧は、完全に親離れした。特に父親を軽蔑するようになった。小学校低学年で。
なによりも、巧は、巧自身の中の「父親」性こそ最も軽蔑するようになった。
三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故で、資本、国家権力により殺された即死者458名の魂を考えると、父親が行った行為・言動は、決して許されるものではない。母親にも、その行為に至った原因を父親に強いた責任がある。たとえ、「こどものため」という言い訳・合理化しようとも。
7.業
こどもは、親を選んで生まれて来ると言う。
巧が、この父母を選んで生まれて来た理由が分かりかけてきているのかもしれない。
巧自身が、自分では処理しきれない程大きな「業」を背負って生まれて来て、父母が、その巨大な「業」に対する落とし前をつける「手助け」をしてくれたのかもしれない。
そのために、父母は、更に大きな「業」を負った。
巧の為すべき使命は、自身の、その「業」の落とし前をつけつつ、そのために父母が負った更なる「業」の落とし前もつけることだ。
つまり、三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故で、「近代化」、主体性なき非国家に殺された死者458名と、一酸化炭素中毒患者839名に対する責任を巧も負うべき。
それだけではない。それ以前に、戦時中、強制連行され、炭鉱で、炭鉱搬出の港で、事故に遭遇した朝鮮人たち・被差別日本人たちは、救出すらされず、そのまま放置されて、死んだ。人間扱いされずに。その責任も、ある。われわれ日本人に。
人間は、過去に学ばないものだ。特に、日本人は。
三井資本の「三池炭鉱に限って炭塵爆発事故など起きるはずがない」という奢りは、そのまま、311前の原子力村そのもの。
いや、311後も何も変わってない。むしろ、一層酷くなっている。
もう手遅れなのだろう・・か。
それでも、最後迄仲間を裏切らず、「ひと」としての誇りを失わなかった三池労組=第一組合、三池主婦会の矜持、人間としてのプライドを原風景に持たせてくれた巧の父母に、巧は、心から感謝している。
父母と巧自身の罪を償うべく。
前編 終わり
(後編)
- あまりにもあいまいな - もうひとつの「三池争議」-
山登りの「友情」(1)
巧くんの思春期・・中学卒業のとき、先生から「山登りやんなよ。」と薦められたのがずっと気になっていた。でも、体育会系ではない巧くんの腰は重かった。
やっと卒業1年程前、 (巧くんは、勉強が嫌いで、大学受験が酷く嫌だったので、工業高専に行った。だから高専4年生のとき18-19歳) クラスメイトと一緒に丹沢の登山学校に参加した。
その少し前、別のクラスメイトが先輩とふたりで、冬の富士山に登って滑落するという事故があった。幸いふたりとも入院程度で助かったのだが、停学処分になった。そのとき、中学の先生のアドバイスを思い出し、「山って、そんなに魅力的なんだ!」と思った。
一泊の登山学校だったが、楽しかった。丹沢の鍋割山の尾根歩きだったが、大雨の直後で、登山道が崩れていて、別ルートは崖の道なき道で、さほど楽ではなかった。なにより、道がぬかるんでいて、なんども滑った。
しかし、無事登り終わった後、清々しい気分と、山の独特の空気の魅力に取り憑かれてしまった。
社会人になってから、山岳会に入ろうと思った。
山岳雑誌の募集広告を見て、R山岳会を訪ねた。男女ふたりのクライマーが対応してくれた。山男らしい精悍な顔つきのひとと、髪が長くて何処か憂いのある魅力的な女性だった。山屋(登山家)によくある、寡黙で底抜けに温かみのあるふたりだった。
ロッククライミング専門の山岳会だった。ハイキング程度をイメージしていた巧くんは、少したじろいだ。それで、直ぐには加入申込書を出さなかった。
その少し後、R山岳会が遭難して、男女ふたりが亡くなったことを知った。あのふたりだった。巧くんは、驚いた。それと同時に、「山」にいっそう惹かれるようになった。
結局、地元のS山路会に参加した。ネーミングからハイキングの会だと思い込んだ。確かに、最初、尾根歩きに何度か参加した。会としては、毎週のように何処かの山に登っていた。
次第に、沢登り、ロッククライミングをやるようになった。巧くんも、いっしょに参加するようになった。夏の沢登り=ロッククライミング+滝登りは楽しかった。地下足袋に草鞋を履いて、全身水浸りになって登った。
定番の三つ峠山のロッククライミングのゲレンデで、ザイルワーク、懸垂下降を習った。最初怖かったが、しだいに慣れた。
本番は、3人で前穂高北尾根だった。勾配90度以上、つまり、張り出した岩をザイルワークで越す個所もあり、流石にびびった。
山頂だったか途中だったかで休憩しているとき、ザイルで確保していないのに、崖っぷちから下を覗いた。高度感が麻痺していた。「バカヤロー!」と怒鳴られた。
あちこちの山に登ったが、穂高にいちばん取り憑かれた。
高専の友人(親友=巧と同じ電子計算機専攻)Kが、Kの中学時代の同級生Sが登山を始めたばかりで一緒に登りたがっているというので、三人で丹沢に登った。
ロッククライミング中心になっていた山岳会では、ボッカ訓練(敢えてザック(当時「キスリング」という旧式のザック: 全重量が両肩に掛かる)に大量の水や石を入れて敢えて重くして登るトレーニング)もあったりしたので、三人の山登りは、息抜きだった。
途中でビールを飲んでヘロヘロになって登ることもしょっちゅうだった。山岳会では考えられないことだった。下山してからは必ずと言っていいほど飲み会だった。
山岳会から次第に、三人の登山の回数が増えていった。
山登りの「友情」(2)
三人の登山は、楽しかった。
丹沢山に登った。
いつものように、途中でビールを飲んだ。丹沢山の最後の登りが結構きつい。Sが最初に山頂に着いた。直ぐ後に巧が続いた。Kは、かなり遅れてバテバテになって、やっと着いた。途端に倒れ込んだ。自分を待ってなかった2人に怒り気味だった。しかし、もしKを途中で待っていたら、たぶん、登れなかっただろう。Sも巧も、それ程ギリギリの体力・気力で登ったのだから。3人の間にほんの少し歪が入り込んだ瞬間だった。
Kと巧は工業高専電気工学科で「電子計算機(当時、まだ「コンピュータ」ではなく)」専攻だった。学年では、二人だけで、Kは、ソフトウェア、巧は、ハードウェア・パルス回路専攻だった。
体育の時間などは、二人でやる気なく野原に寝転んだりしていた。
教室でもKは、居眠りしていることが多く、他の学生が騒いでいると、ドアを足でドーンと蹴っ飛ばして無言で抗議する場面もあった。
卒業後、Kは、大型電子計算機室のシステムオペレータとして働いた。
巧も別の某大企業の大型電子計算機のシステムオペレータをしていたが、当時、日進月歩に進歩していた電子計算機の世界に次第に違和感が成長していった。大型電子計算機は、24時間稼働させているので、夜間の仕事も頻繁にあり、日々システムが進化するので、そのたびに新宿のIBM教育センターに研修に行かされた。せっかく覚えたことも直ぐに変更になった。
当時はまだ日本語システムがなかったので、英語でのインタフェースだった。プログラムがうまく動かない時は、数字記号だけの厖大なダンピングリストの紙束からバグ(プログラムの記述エラー/タイプエラー)を手作業で見つけるという大変な作業が待っていた。間違いなく、システムオペレータは、肉体労働だった。
休日のある日、近所の図書館に行って、誰もいない静寂な空間にエアコンの音だけがしていて、本の匂いを嗅いだ時、自分がいるべき場所はここだと思い、大学に進学することを決意した。コンピュータサイエンスのように日々変化する知識ではなく、古典ギリシア哲学の安定した世界に憧れた。
家族、とくに父親は「方向転換」に強く反対した。
結局、巧の決意は固く、夜間、某大企業の計算機室でシステムオペレータとして働きながら、昼間の大学に通った。
仕事は経済的には助かったが、体力的には厳しかった。試験に寝坊して受けられないこともあった。
高専での専攻からの連続性で、数理論理学、分析哲学専攻だったが、内心古典ギリシア哲学に憧れていて、実際、古典ギリシア語、サンスクリット語も含めて、しっかり勉強した。
結局、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」専攻で、2-3年間に亘ってドイツ語でしっかり精読した。
最期は、「論考」の研究者で第一人者だった末木剛博先生から数ヶ月間に亘って先生の書籍に基づいてマンツーマンでディスカッションしていただいた。末木剛博先生は、仏教の論理についても深い関心を持たれておられた。集合論の某書を当時読んでおられた。
(ギリシア哲学の観点から、井上忠氏にとても関心を持ったが、他の哲学者から「彼はカトリックだ」と聞いて、井上忠氏の哲学的思想に疑問を持ってしまった。「なんだ!哲学的死闘しているのではなく、宗教という逃げ場があるんじゃん!」と。井上忠氏の著作からは「宗教」という「信仰者」の様相は全く感じられず、ひたすら、純粋な哲学的思索だけが感じられたから・・。しかし、若気の至りであった。今、いちばん後悔していることである。会っておけばよかったと。)
大学院進学も考えた。末木先生からも勧められた。
しかし、進学するとしたら、「古典ギリシア哲学」を専攻したかった。他の某哲学者に相談した。「君の実家が裕福で、学生生活の心配をする必要がないのなら古典ギリシア専攻でいいけど、そうでないのならやめた方がいい。大学院を出ても就職はないと思った方がいい。」と厳しい現実を言われた。学部ですら夜間働きながら通った(そのこと自体、評価してくれる教授もいたが)のに、かなりの勉学量を要し、競争が熾烈な大学院ではとうてい無理だった。
当時、巧の父親は、会社の仕事で大きな負債を背負い込まされて、借金取りから逃げまくるという悲惨な状態でもあった。
それだけでなく、巧は、なによりも、登山ができなくなるのが耐えられなかった。大学院は、そんなに甘くはない。学者の世界の厳しさは熟知していたから。
結局、ドイツ人経営の翻訳会社に独和翻訳者として就職した。
200人ほどの従業員で、業界では老舗だった。技術系の翻訳なので、高専卒、特に電子計算機・バルス回路専攻と、ドイツ語必須のヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」専攻は生きた。
入社試験で、電子回路図を読めることが、ドイツ語の力不足を補ってくれた。つまり、試験問題のドイツ語の文の内容が、回路図から理解でき、的確に翻訳できた。
丸の内の職場なので、学生仲間からは、羨ましがられた。
高専時代の親友Kも、巧の生き方に影響されて、会社を退職して、大学入試に臨んだが、果たせず、結局、別の某大企業に入社して、日本語システム開発の大きなプロジェクトに参加していた。富士山の麓の何もない野原のラボに缶詰になって仕事していた。当時、高専卒で計算機専攻だと就職はよかった。
ある日、Kの母親から巧に電話がきた。Kが自殺未遂して、入院したという。手首を切った・・。地方新聞にも掲載されたようである。電話の途中からKの母親は泣き出した。泣き声で「息子を高専に行かせなかったらよかった」と。Kの自殺未遂の直接の原因は巧であった・・。
その電話の後、Kが巧に電話してきて、昼休みに日比谷公園で会った。まだKの精神は不安定で、突然、巧に激しく怒り出して殴り掛かろうとした。退院したわけではなく、外出が許されただけなのかもしれない。K本人から判明したのだが、Kは会社内で複数の女性を相手に問題を起こしており、精神的にかなり不安定だったようである。巧のように、大学に進学できなかった挫折感も追い打ちをかけたのだろう。明らかに、巧に対してライバル意識があったのだろう。巧は、入社直後職場結婚していた。それも影響したのかもしれない。
Kが退院して暫くした後、Sの提案で、久しぶりにSとKと巧の3人で丹沢に一泊で登った。事情を知ったKとSの中学時代の友人も、勤務していた麓の某大学病院から駆け付けた。Kは喜んだ。山小屋で、夜4人で過ごしたが、その友人は底抜けに明るくふるまっていた。早朝早々に山を下りて、職場に戻った。かなり、無理してKのために駆け付けてくれたのだった。
あるとき不思議なことが起きた。
川崎の、あるバーで、3人で飲んでいたとき、Kがトイレに席を立った直ぐ後、前でグラスを拭いていた若いバーテンダーがSと巧にくってかかってきた。「仲間外れにしたらかわいそうだろ!」と。Sと巧は、とくに思い当たることはなかった。ことばの端々、仕草のちょっとしたことから、そのバーテンダーは敏感に何かを悟ったつもりになったのかもしれない。初め、笑顔で対応していたSも、バーテンダーのしつこさに本気になって怒り出した。バーテンダーは、テーブルを越えてSに殴りかかってきた。バーテンダーの上司になるのか、明らかに年上の別のバーテンダーがすぐに飛んで来て、殴りかかったバーテンダーに向かって「バカヤロ!なにやってんだ!」と叱った。Sと巧にむかって、もうしわけなさそうに平謝りした。Kが戻ってきて、すぐに店を出た。
その後、めずらしく、SとKが2人で山に登った。巧も誘われたのだが、巧は職場結婚したてだったので、行かなかった。
下山して、巧の部屋で、Sの家族(奥さんと幼児)と巧の家族(妻)とKで飲んでいた。Kがしきりに山小屋で知り合った登山家を執拗に褒めちぎった。しだいに、Sが不機嫌になり、KがSの幼児を少しばかにしたようなことを言ったのをきっかけに、SとKの取っ組み合いのケンカになった。巧がひっしにSを止めた。それで納まって、Sの家族3人は帰った。Sの奥さんは、泣きながら、「Kと一緒に山に登ると殺されるよ」とSに言っていた。Kも、ほどなくして帰った。翌日、Sがひとりで巧の家に来て、前日のことを謝った。
自殺未遂後、Kは、父親が務める会社に転職し、結婚した。結婚式には、Sも巧も招待された。スピーチの際、Kの父親の手が震えているのを巧は敏感に気付いた。Kの父親は、Sも巧もまったく無視した。Kの母親は、電話の件を巧に笑いながら謝罪しただけで、それ以上の話はしなかった。周囲の来客に明るく振る舞っていた。Kの結婚相手(病院の看護師)も、Sと巧にはなんのことばもなかった。
それ以来、3人での登山も交流もなくなった。Kは、誘っても来なくなった。Kの家族が望んだのだろう。Kの奥さんは、明らかに事情を熟知していた。その上での判断なのだろう。
巧が所属していたS山路会とは次第に疎遠になった。S山路会が海外遠征のロッククライミングで遭難したことを山岳雑誌で巧は知った。もし、ずっとS山路会で登山していたら、巧も遭難していたかもしれない。
この後、Sと巧のふたりの登山がずっと続くことになる。
3.労組大会
巧が入社する一年程前から、ドイツ人経営の職場で労災問題が発生していた。
外資企業にありがちだったのだが、簡単に解雇される労働環境だった。文化の違いもあるのだろうが、ドイツ人上司の気分で、「明日から来なくていい」と言われることが頻発していた。
それに危機感を感じた労働者たちが職場組合を結成していた。組織率は、9割を超えていた。
ひとりのタイピストが腱鞘炎になり、労災申請し、争議になっていた。組合執行部は、社外の地域労組組織に相談して、労災申請・労基署交渉など行っていた。
巧も入社後すぐに誘われて、さほど乗り気ではなかったが、職場組合に加入した。山登りに熱中していて、組合活動には、まったくやる気のない新入社員だった。
労災問題で臨時組合大会があった。
会社は、労災闘争が次第に激化していくのに危機感を感じたのか、社外の労務コンサルタントの指導下、組合の切り崩しにとりかかっていたのだった。
みんな元気で、「労災患者を断固守る!」「組合潰しは不当労働行為だ!」「断固闘う!」「俺は絶対に組合を辞めない!」「ドイツ人経営の横暴を許さない!」「がんばろう!」という意見が大多数を占め、意気が揚がっていた。
これなら大丈夫だ、と巧は思った。
巧は、労災闘争、組合運動にはまったく関心なく、「これから、谷川岳に出発するので」と言って、早々と退散した。少し、巧に対して非難気味の組合員もいたが、「谷川岳なら仕方ないよね」と許してくれた。
その夜、夜行列車で、巧とSのふたりは、谷川岳に向かった。
会社が終業してから夜行列車で山に向かい、翌朝、早朝から登り始め、夕方降りて来て東京に帰り、翌朝会社に出勤するという行動パターンは、会社勤めの山屋には当時普通のことだった。
早朝、上越線土合駅に着き、駅で仮眠して朝一番のロープウエイで天神平に向かった。天神平から尾根歩きで、谷川岳山頂に登った。下山時は、結構急勾配で大変だった。ロッククライミングのメッカだが、尾根歩きに徹した。
麓には、遭難者の慰霊碑がたくさんあったのに驚いた。
R山岳会のふたり、S山路会の仲間たち、山屋のたくさんの遭難者たちを思い、手を合わせた。
4.流れに逆行して・・
就業時間中、巧は上司に呼び出された。
「組合辞めてもらった方がいいね。今、組合の執行部が過激化していて、会社は困っている。「労災」で騒いでいるけど、組合運動のためにやってるだけだよ。」と、露骨に不当労働行為をしてきた。
巧は、特に労働組合にも「労災」にも関心がなかったし、新入社員でもあり、当然社内での立場はいい筈もなく、独和翻訳の仕事を上司に添削してもらっていることもあり、労組に義理もないので、すぐに組合を辞めた。
その直後から、本当に巧が組合を去ると直ぐに、全社的に上司による組合脱退工作が行われた。社外の労務コンサルタントのところに行かされて、「講義」を受講させられたり、「レポート」を書かされたりした組合員も多数いた。明らかに、社外の労務コンサルタント指導下での組合切り崩し策動だった。
巧が率先して、組合脱退を組合員に勧めているというデマまで飛びかった。
実は、巧は、日本共産党の機関紙「赤旗」新聞に毎日掲載される高層天気図のコピーを、登山を熱心にやっている高位の管理職に手渡していた。それで、会社は、巧が日本共産党の党員かもしれないと疑っていたのだった。それで、会社は、真っ先に巧に声を掛けて、党員かどうかの「踏み絵」にもしたのだった。それをクリアしたので、全社員に対して露骨な不当労働行為である組合脱退工作を展開し始めたのだった。
会社は、本気だった。社内ではI総務部長が率先して、社外の労務コンサルタントの指導の下、組合潰しを画策していた。
組合員の脱退が続出した。
あれ程元気のよいことを言っていた組合員もあっけなく脱退した。「俺は絶対に組合を辞めない。」・・あの言葉は、なんだったんだろ。むしろ、気勢のいいことを言っていたひと程、簡単に組合を去っていった。職場組合の委員長(男性)ですら、「もう、だめだよ。会社は、本気だ。」と言って去っていった。じゃ、あなたにとって「労災」闘争は本気じゃなかったの?・・と、内心言いたかった。
ほぼ全員に近い組織率だった職場組合だったが、最終的には数人になってしまった。男性の委員長、執行委員が去って、女性だけの執行委員、委員長になっていた。
組合員は、全員女性。興味深い点は、さほど元気のいいことを言ってなかった、組合運動にも熱心でなかった女性が少なからず残ったことである。この男女差の違いはひとつのテーマでもある。男性は、情け無いくらい、呆気なく仲間を裏切っていった。女性は、原則的に言行一致、発言通り、労災闘争・組合運動を続けていった。
しかし、女性執行部は、なす術もなく、困り果てていた。
巧は、入社以来、執行部の女性たちとも、とても仲がよかった。登山という共通の趣味もあり、ドイツ文学という共通の話題もあったし。
女性だけの執行部の執行委員のひとりJさんが、「どうしたらいいかわからないわ。」と悲しそうな声で涙ぐんでいた。
その涙を見た瞬間、巧は原風景が蘇った。
三池争議最中の炭住育ちの幼児体験が。
三池労組の解放区で、赤旗の波のなか、インターナショナルとシュプレヒコールを子守歌にして育った原風景が蘇った。
その力は強かった。
巧自身、意外だった。
しかし、理屈ではなかった。
体の芯に染み着いたプリミティブなエネルギだった。
みんな組合から去っていく流れに逆行して、風前の灯だった職場組合に、巧は戻った・・。
職場の組合運動に巻き込まれた巧であったが、山登りは毎週のように続けていた。
職場の先輩たちを見ていて、翻訳者というのは、ずっと座り続けているから、逆に肉体労働なのだということをすぐに悟ったからでもある。翻訳者というのは、足が萎えていく職業のひとつなのである。
ただ、山岳会でも、Sと一緒でもなく、休日に天気がよいと、気儘に近くの丹沢に日帰り登山していた。
職場の、翻訳者としてのストレス、労働運動のストレスの解消にもなっていた。
ある日、久しぶりにSとふたりで丹沢に登った。
Sも、ひとりで登山を続けていた。某レコードチェーン店の店長をやっていたが、毎週のように夜行登山を強行していた。巧以上に登っていた。初めの頃は、巧がSに登山を教えるパターンだったが、あっと言う間にSに追い越された。
いつもと同様に、登り初めからビールを飲んだので、ペースが落ちた。山頂に着いてから、ガスボンベでパック米や缶詰などを温めて食べ、砂糖入りの紅茶をいれて飲むという、いつものスタイルが巧は好きだった。それを目標に山頂を目指してもいた。
しかし、Sは山頂に着くと、即刻下山を主張した。帰りの、夕方のバスの時刻に間に合わないという理由である。山の中のバス路線なので、確かに、一日数便という不便さは普通のことであった。
巧は、2-3時間後の次の便にすれば山頂でゆっくりできると主張した。
結局、巧はSに押し切られ、ふたりは食事をせずに即刻下山した。早足で降りたので、バスの時間には間があった。バス停の近くで、ガスボンベをザックから取り出して調理して食べた。
確かに、Sの主張の方が正しかったのだろう。暗くなると山は危険である。特に下山では。
小さなことかもしれない。しかし、巧とSとの間には、噛み合わない何かが入り込んだ・・。
駅近くの店で、いつものように飲んだが、ふたりの職場環境が違い過ぎて、巧の職場の労働問題の相談には、Sは乗れなかった。Sは、雇われ店長とはいえ、一応、管理職の立場だったし。
ただ、YMOの話には盛り上がった。YMOのコンサートで「イエロー饅頭」を配った話の直後に、巧が黄色いおしぼりを丸めて「こんなの?」と冗談を言ったらSは大笑いした。
Sは、大手レコード店の店長だったので、コンサートの招待券をしょっちゅうもらっていた。巧にも廻ってきて、何度か行ったことがある。あと、新人歌手たちが頻繁に挨拶廻りに来ていた話は巧も楽しかった。
ジョンレノンとオノヨーコがお忍びで来て、ジョンレノンと話したとのこと。それは羨ましかった。都心一等地にあるレコード店ならではの特権なのかもしれないと巧は思った。
その山行を最後に、Sは、単独行の夜行強行登山で、ガンガンに八ヶ岳や穂高などを制覇し続け、巧は、相変わらず、職場のストレス解消に、労働運動だけでなく、ドイツ文学科出身でない巧にとって独和翻訳のドイツ語の部分での負い目はあったし、それ故のストレスもあり、ひとりで丹沢日帰りのしょぼい山歩きを時々していた程度であった。
5.「出る杭は~」・・試練のはじまり
組合員の相次ぐ脱退の原因は、もうひとつあった。労災闘争で勢いづいていたが、労災申請が却下された。そのことも、大きな原因であった。支援してくれていた地域の共産党系の労組組織も次第に疎遠になっていた。
数人にまで切り崩された職場組合の会議では、「これからどうするか」が主要な議題だった。巧も会議に参加していた。
会社が行っていることは、明らかな労働組合潰しの不当労働行為であるということは、共通の認識だった。しかし、積極的に少数派組合を続けていこうという積極意見は、執行委員のうち、委員長、副委員長のふたりだけだった。
他の組合員は、消極的だった。かと言って、積極的に「組合解散」を提起することもしなかった。なぜならば、そうすることは、委員長、副委員長ふたりの事実上の解雇を意味することをみんな暗に熟知していたからだ。
巧も継続派だったが、なにしろ、新入社員だったので、影響力は小さかった。率先して、組合員を説得する力量も気力もなかった。
かつて、労災闘争でお世話になった、地域の共産党系の労組組織から活動家を招いて、学習会を開催したことも数回あった。
しかし、組合継続の方針はなかなか確立しなかった。結局、組合解散が大方の意見となった。地域の共産党系の組合オルグも納得した。
組合の大会が、少数ながら開催された。組合解散決議の組合大会の筈だった。
その時、奇蹟が起こった。
病気で長期休職していたひとりの女性MJさんが職場に戻ってきたばかりだった。当然、喧々諤々の組合の会議にも参加していなかった。彼女も組合員だったので、この組合大会に職場復帰後初めて参加した。
MJさんのひとこと「続けましょう」で解散決議が覆った。他の組合員たちも、内心、委員長、副委員長の職を奪うことになる決議に申し訳ないという気持ちがあった。それほど、この頃は、同僚ということ以上の人間的な繋がりの強い職場だった。
MJさんのひとことで、その気持ちが後押しされた。結局、全員一致で、組合継続が決議された。
それと同時に、地域の共産党系の労組組織の全面支援を受けるべく、地域労組加盟も決議された。地域の活動家たちに対する、組合員たちの信頼が強かったこと、学習会で培われた人間関係の成果でもあった。
しかし、組合存続を巡る、組合員の討論に参加していなかったMJさんのひとことで他の組合員の意見が逆転し、かつ、統一されていった点の意味をもっともっと重要視すべきだった。
MJさんの思想的背景については何もしらない。病気入院で、労災の争議から離れていたが故に、逆に、純粋な正義感だけだったのかもしれないが。
新入社員なので、攻撃されるのではと危惧する組合員たちもいたが、かと言って、委員長を率先して引き受ける組合員もいなかった。堂々巡りの議論にならない議論の末、業を煮やした巧だった。委員長を引き受けた。組織嫌いの巧だったが。若気の至りの最たるものになった。
この事実の意味するところは、小さくなかった。巧は、このことを、もっと重要視すべきだった。
巧の、炭住での幼児体験・原風景が、巧を後押ししたことは事実である。
もっと、大きな理由は、執行委員のひとりJさんが、「どうしたらいいか、わからないわ。」と言って流した一滴の涙が、巧を突き動かしたことである。
・・「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)・・
巧を委員長に、前委員長MTさんが副委員長に、前副委員長IKさんが書記長に、Jさんを含む前執行部のメンバーが新執行委員になった新体制の地域労働組合支部が発足した。
地域の共産党系の労組組織・争議団などが全面的かつ強力に支援する体制が整った。
・・こうして、巧は、火中の栗を拾った。巧の人生が大きく変わった瞬間だった。
巧の幼児体験が強力に後押ししたとはいえ、巧には大きな負担だった。
夜間、企業の電算室で働きながら大学に通ったので、当時、学生運動の末期だったとはいえ、そんな学生運動に関わる時間もなかった。
高専でも、そんな気配を示したら即刻排除されかねない雰囲気の学校だった(防衛大学校から少なからずの講師が来ていた)。高専の授業は、当時かなり進歩的で、学生の発表形式の授業であり、「歴史」の授業での巧の発表内容から、危険視されてはいた。
「太平洋戦争は、経済利権を巡る帝国主義侵略戦争だった」と発表した巧に、教授は、巧の意見を否定し、「理念を巡る戦争だった」とコメントしたことがあった。
体育の教授から「最近は、何を読んでるの?」と静かな声で聞かれたことがあった。巧は、咄嗟に判断して、当たり障りのない本のタイトルをあげた。当時、平気で学生に往復ビンタを喰らわす暴力教師だったので、巧は意外だった。
巧が組合委員長になった途端、職場の雰囲気が変わった。職場組合を解散に追い込めると踏んでいた会社および社外の組合潰しの労務コンサルタントの思惑が外れ、労働組合対会社(および労務コンサルタント)の労資の対立構図がはっきりした。
巧の直属上司や、周辺の管理職の態度が一変した。
ドイツ人管理職も、巧の方を見ては、ヒソヒソ何か話しこんでいることが多くなった。ドイツ人管理職は、積極的に巧を攻撃してはこなかった。高みの見物だった。
巧は、新入社員としては目立たない存在だった。それが、一躍職場の「有名人」になった。
組合運動が超多忙となり、山にはほとんど行けなくなった。毎朝、満員の通勤電車の中から遠くに見える丹沢の山並に見とれるばかりだった。
反して、Sの方は、冬山、ロッククライミングとこなし、ホンモノの山屋になっていった。巧と同じで、組織嫌いのSは、山岳会には参加しなかった。
6.「針のむしろ」のはじまり
地域労働組合支部として生まれ変わった弱小組合に対して、労組対策の社外労務コンサルタントを擁したドイツ資本の対抗策は、非組合員のインフォーマル組織「職場を守る会」をでっち上げ、その代表の署名を以て就業規則を全面改悪してきた。
年休の算定基準の「労働日」に、労働義務のない「土曜日」を含めるという労働基準法の「年休8割条項」を違法解釈した条項になっていた。つまり、これにより、年休も生理休暇も著しく制限された。今迄よりも著しく少ない一定数以上休むと翌年の年休がゼロとなるからである。
それと同時に、労働組合に対しては、限りない文書合戦に持ち込むことだった。団体交渉も全面拒否はしないが、開催に当たって、労組そのものに対して質問責めにすることによって、事実上団体交渉を拒否してきた。会社は、賃上げ・一時金交渉も文書合戦に持ち込んだ。妥結月から賃上げし、一時金を支払うという一方的な条件を付けてきた。
労政事務所や労基署も会社の対応を問題視したが、会社は、その指導を全く無視するという確信犯だった。プロの労務コンサルタントの指導だった。会社が違法なことをやっても、その間に組合が潰れさえすればよいという発想だった。
組合の団結力を見透かされていたような攻撃だった。組合は、有効に反撃できずに、1~数ヶ月遅れで「妥結」文書を提出した。地域の労組本部から会社に要請はするが、それ以上の有効な闘争は組めなかった。
そんな中、委員長の巧を狙い撃ちにした攻撃を仕掛けてきた。
巧の妻の出産の際、育児時間を組合は要求したが、会社は、法で決められた「育児時間」は認めるが、定刻出社のタイムカード打刻を義務付けた。定刻の勤務時間前に、いったんタイムカードを打刻してから「育児時間」を取得しろというのである。それでいて、職場に育児施設を作るわけではない。事実上の「育児時間」拒否=法律違反である。
地域の労組の仲間も協力してくれて、大きな「抗議ハガキ」運動を展開した。著名人も賛同してくれた。大きな集会も開いた。
本人の実力行使、つまり、常識通り就業開始時間を遅らせてタイムカードを押すことをしたら、「無断遅刻」をしたとして、即座に数人の管理職が会議室に呼び出し、数十分~数時間に亘って本人を吊るし上げるという個人攻撃を掛けてきた。それに対して巧が抗議すると、管理職が大声で怒鳴り散らすという事態になった。それでも、他の組合員は、立ち上がらず、うつむいたまま仕事をしていた。育児時間をとった本人組合員の精神的ダメージが大きくなり、限界に達していた。
労組本部の指導により、「育児時間」攻撃に対して地裁に提訴した。その準備に厖大な時間が掛かり、法廷闘争も数ヶ月以上かかるという、のんびりした進行だった。
なによりも、職場の組合員の疲労は頂点に達していた。「育児時間」を公使した、ひとりの組合員のために、その法廷闘争のため等に、他の組合員たちが厖大なプライベートな時間を奪われていた。
その上、昇給・一時金も「妥結」する迄、数ヶ月遅れで、、つまり、賃金が実質下がるという不利益を組合員故に被らざるをえなかった。
インフォーマル組織「職場を守る会」の非組合員からは、「同意書」なるものを会社はとっていた。つまり、自分がいくら昇給するのか、一時金がいくらなのか、分からないのに「同意」を強要するものであった。しかし、それに反対する者、抗議する者はひとりもいなかった。
巧が、この矛盾をI総務部長に抗議したところ、そのI総務部長は、「こんなもんだよ!日本人は!」とうそぶいた。確信犯だった。I総務部長の、この日本人観は、興味深いものだった。
「育児時間」の裁判は、裁判所の調停案を受け入れて、提訴取り下げで終了した。組合は、「勝利」宣言をしたが、巧は、何故これが「勝利」なのか理解できなかった。共産党系の労組組織の闘争方針を疑うようになった。
巧の方針は、法廷闘争は法廷闘争としていいけど、法廷闘争のみでなく、それを裏付ける有効な現場闘争も組むことだった。法廷闘争だけならば、会社は、例え、最高裁判決までも付き合うだろう。会社にとっては、なんの痛みも不利益もないからだ。ひたすら、その間に、労組が潰れてくれれば、会社にとっては大勝利だ。なによりも、搾取の現場である職場での実力闘争のみが事態を切り開く鍵であると巧は確信していたからだ。幼児体験とはいえ、三池闘争の中で育った巧にとっては、労働運動の大前提だった。
厖大な文書合戦の域を越えられない、越えようともしない組合では、なによりも労働組合の存在価値そのものがないことになると巧は思った。
他方、巧が組合に戻るという決断をしたきっかけとなった執行部のJさんが乳癌になった。
第四期で癌がみつかった。そのJさんに対して、某組合員が、年休を取り過ぎると、「年休8割条項」に抵触して翌年の年休がゼロになるからという理由で、Jさんに「這ってでも出社しなさい」とアドバイスした。これは、組合の会議で決定したことではなく、共産党に属していた某組合員が勝手にJさんに忠告したのである。
巧は、これに対して、組合の会議で抗議した。Jさんに「這ってでも出社しなさい」ということは、違法な「年休8割条項」を事実上認めたことになる。Jさんの体調・健康を第一に考えて、年休をとって休んでもらい、「年休8割条項」に引っかかったら、組合の団結でJさんを守り切ることこそが、労働組合の存在価値であることを主張した。
しかし、Jさんは、年休を取ることを自主規制し、無理して出社し、体調を崩した。
Jさんは、入院・手術したが、程なくして亡くなった・・。巧は、言いようのない虚しさ・哀しさ・絶望感を抱いた。
巧の心労も頂点に達したのか、Jさんに続いて、巧も甲状腺腫になった。入院・手術し、「年休8割条項」に抵触した。巧の場合は、幸い、良性の腫瘍で回復した。しかし、「年休8割条項」には引っかかった。組合員からは、「育児時間闘争で大変な思いをしたのに、またぁ~!やめてよぅ~!」という本音をぶつけられた。病気になることも許されなかった・・。共産党系の労働組合では。
本部も腰が引けていた。
「育児時間闘争」の際、巧が親しくしていた某実存哲学者の奥さんが婦人民主新聞の元記者だった(白洲正子も記者だったことがある)ので、「育児時間闘争」を記事にしてくれたのだった。
共産党系の労働組合の活動家たちは過敏に反応した。彼らにとっては、婦人民主新聞も「トロ」と呼んでいた。
巧に対して警戒し始めた。
彼らにとって、共産党でない「左翼」はみんな「過激派」「トロツキスト」なのだ。
日本共産党の実態を知るきっかけとなった。まさか、自分が、それを体験するとは。ただの「山屋」なのに。
組合執行部の任期切れの大会前に、巧は、方針が違い過ぎるから委員長を辞めたいと労組本部に言った。労組本部から数名の「活動家」に呼び出されて論議したが、彼らは、巧を警戒しつつも、「組合民主主義」を盾にして、巧の委員長辞退を断固認めないという方針だった。あるいは、警戒しているからこそ、「委員長」として縛っておきたかったのかもしれない。承諾しない巧に対して、「活動家」たちは、最後には、巧を大声で恫喝した。議論が不可能だった。「組合民主主義」もへったくれもなかった。「命令」だった。
巧は、意気消沈しつつ、「委員長」を引き受けた。しかし、この一件は、巧の深層の何かを根本的に変えた。覚悟・・である。
職場の賃金交渉でも、組合内の議論で、組合員たちから、闘争なしの「即妥結」を提案され、反対する巧に対して、組合員たちは、「わたしたちは、闘争するためにここで議論しているのではなく、生活のために妥結するためにここにいる」と告げてきた。「組合民主主義」以前の問題だった。議論にならない、ただのおしゃべりに過ぎなかった。それでも、組合本部は、「組合民主主義」を盾に妥結を「委員長」巧に強要してきた。巧の意思に反した「妥結」を「委員長」巧の名前で行うことを強要してきた。組合員の意思を全く反映していない、むしろ、正反対の「委員長」だったのに。
本質は、労働組合対資本(組合潰しのための社外の労務コンサルタントの指導下にある会社)の闘争である。共産党の言葉で言えば、「階級闘争」そのものである。「組合民主主義」を大義名分にして、組合員の多数派の「要求」=「闘わない」を現場に強要してくる共産党の本質を巧は知った。本当の「組合民主主義」は、大衆の弱さに基づくのではなく、大衆の本当の要求に基づいて闘うことである。巧の職場では、熾烈な階級闘争の現場では、組合員はすべて活動家であるという自覚が組合員には欠如していた。この自覚こそが、共産党の言葉で言う「前衛」なのである。なによりも、労働組合は、仲良しクラブではなく、「労働組合」という目的集団であるという基本的な認識が組合員には欠けていた。
巧は、共産党系の労組組織の支部である職場の労働組合を脱退して、たったひとりで、「年休8割条項」裁判を個人提訴して闘うことにした。真の「組合民主主義」を実践すべく、真の「活動家」=「前衛」であるべく。
7. 四面楚歌
労働者側の弁護士2名との打ち合わせの際、彼らは巧に厳しいことを言った。
「この裁判を提訴しても勝利判決を勝ち取れるとは限らない。」
「もし、敗訴したら、会社の攻撃は更に激化し、不当解雇も覚悟しないといけない。」
「提訴しただけでも、職場では厳しい攻撃を受けることになるだろう。」
ということだった。
巧の「覚悟」は決まっていた。
「もし敗訴したら、会社のみならず裁判所も相手に闘争します。」と言い切った。
弁護士から、地域の労働運動活動家を紹介された。もちろん、共産党系ではない「左翼」、つまり、共産党が言うところの「過激派」である。
その活動家2名と初めて会って飲みに行き、巧は酔い潰れた。
巧の話を聞いた活動家は、地域の某争議団組織を紹介した。
活動家2名は、某新左翼党派だったが、その某争議団組織は、無党派ノンセクトラジカルも党派の人間も混在する、ひたすら、各個別争議(不当解雇など)を共闘する緩やかな組織だった。某新左翼党派の労働組合、某地域合同労組からも強いラブコールの声が掛かったが、巧は、某争議団組織の緩やかさの方が気に入った。職場では、ひとりで闘うことにした。地域の仲間に支えられて。
いよいよ東京地裁に提訴!
職場では、「年休8割条項」に抗議する抗議文を出し続けていたが、会社は、文書回答し、更に意見があるのなら文書で出せという、いつも通りの文書回答が来た。
それに対する回答として、巧は、会社が指定する回答期限日に、会社に対して東京地裁への個人提訴の訴状で応えた。
それと同時に、巧は、某争議団組織の全面支援を受けて、就業時間前の一時間、丸の内のど真ん中にある会社の社前で抗議集会を開いた。赤旗が林立する中で、某争議団組織の宣伝カーで情宣しながらビラを、出勤する地域のホワイトカラーのサラリーマン労働者に配った。主体は、労働組合ではなく、ひとりの労働者を地域から支援する某争議団組織である。
巧は、法廷闘争のみでは会社はビクともせず、むしろ、痛くも痒くもなく延々と付き合うだろうと思った。法廷闘争を裏付ける現場闘争が必須だと判断したのだ。
就業時間直前に、巧は職場に戻り、自分の席に着いた。巧の心臓はドキドキしたが、同時に清々しい気分だった。某争議団組織の新聞に「狼の群れに入る仔羊の気分だった」と書いたらうけた。
その日、管理職たちは会議室に閉じ籠もっていた。初日は静かに過ぎた。
翌日から、会社は、巧への攻撃を強化した。
巧は、独和翻訳者だったが、まだ、新入社員だった。
巧の仕事上のミスを針小棒大にあげつらった。直属上司が大きな声で、巧の翻訳ミスを注意した。
「巧は仕事ができない!」というキャンペーンを全社的に行ってきた。
インフォーマル組織「職場を守る会」では、「巧は、「外部」の「過激派」とつるんで、会社を潰そうとしている。」とキャンペーンを張ってきた。
巧のような「過激派」から文字通り「職場を守る」として、インフォーマル組織「職場を守る会」所属のラジカルな社員数名も積極的に巧に個人攻撃をかけてきた。業務上必要なことすら、彼らは巧を睨み付け、無視した。
巧の自宅に深夜に電話が鳴り、巧がとると「バカヤロー」と怒鳴る声がして、すぐに切れた。その声は特徴のある声で、巧はすぐに誰だか分かった。
就業時間中に、他の労働者から電話があり、やさしい声で、あたかも味方のような口調で「最近活躍してるみたいだねぇ。でも、命の危険を感じたら、辞めた方がいいよ。」という脅迫だった。
さらには、巧が元委員長だった、共産党系の労組組織の職場支部の組合員たちも巧を完全無視した。かつての仲間だったが、巧とは、まったく話をしなくなった。
某党派の組合本部は、東京都下の各労働団体((旧)総評全国一般系)に対して、巧が提訴した裁判は、自分たちの労組の運動とは「まったく関係ない『分裂策動』(当時、左翼各党派の常套文句)である」という文書を配布して、巧の闘争を積極的に妨害してきたからだ。巧を無視することは、本部からの通達でもあったのだ。
こうして、巧は、職場内ですべての社員から完全に無視された。
四面楚歌だった。
上司管理職からの、巧の仕事のミスをヒステリックに詰る理不尽な罵声だけが、巧が巧に対して発せられた言葉を聞く唯一の「声」だった。
こういう環境に耐えられる人間はどれだけいるだろうか。
普通の人間には耐えられないだろう。巧も例外ではなかった。
しかし、巧は、堪えた。
巧は、管理職たちのヒステリックな罵声の下で、心の中で、幼児体験の三池争議でさんざん聞いた「インターナショナル」「労働歌」を口ずさんでいた。
巧の悲惨な幼児体験、あの時の『地獄』に比べたら、今の「地獄」なんて、なんでもないと思った。巧の悲惨な幼児体験は、今の、この「地獄」を耐えるためにあったとさえ思えた。
更に悲惨なのは、会社のみならず、自宅に帰っても、「三池争議」の時の負い目がある両親は、決して巧の行動を支持せず、むしろ、会社を退職することを強く勧めた。父親は、「そんな会社、辞めてしまえ!」と言った。
母親の「会社もたいへんだねぇ。ちょっとなにか言ったら、大騒ぎされて。」という発言には正直いちばん堪えた。
「ちょっとなにか」・・そんなレベルのことのために、ひとり息子は、精神に異常を来すギリギリまで、歯を食いしばって頑張っているというのか。三池争議のデモも集会も、まったく理解するどころか、嫌悪感しか抱かなかった母には、巧の闘争も、理解できる筈もなかった。
更に父親は、自分は「向坂学校(三池争議時代の社会主義の学校)の優等生だった。」と昔のことを自慢して、あたかも自分は「左翼の社会主義活動家・労組運動家」だと言わんばかりに偉そうに巧の労働運動にもアドバイス、意見を言ってきた。
巧は、内心、このひとはホンモノのバカだ、と思った。
さすがに、巧は、「敵前逃亡した人間に言う資格はないよ。」と静かに言い切った。
母親は、「そりゃ、そうだ。」と薄笑いしながら言った。
それ以来、父親は、巧の闘争に意見しなくなった。と言うか、父親の、巧の労働運動に対する敵愾心が密かに増していた。何かに負い目がある人間は、それを「合理化」するために、その何かを貶める。自己の負い目を正当化するための足掻きとして・・。
その敵愾心が、巧の家族、特に、まだ幼児の長男に向けられた。
巧の父親は、巧のこども、つまり孫に向かって、父親巧を全否定することを注入した。そして、それは成功するのである・・。
巧の妻は、育児時間闘争の後、自主退職し、別の会社に転職していた。巧のような幼児体験がない人間には、巧の行動が理解できなかった。と言うか、巧自身は、自分の行動の直接のきっかけは、あの、乳癌で他界したJさんの一粒の涙だと思っていた。
・・「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)・・
巧は、会社でも自宅でも孤独だった。
唯一、地域の某争議団組織の仲間だけが救いだった。彼らも、苦しく厳しい状況だろうに、底抜けに明るかった。そんなひとたちの側にいる自分が誇らしかった。
恰も、かつて、幼児の時に体験した三池労組の炭住の解放区のように。
8. 森田療法とドイツ語と「Mさん」と
高木仁三郎さんと中島正さんと農的生活
巧は、労働運動に巻き込まれてしまったが、同時に、多くの貴重な体験と出会いもあった。
職場で、同僚が誰も話してくれず、時には攻撃され、管理職の執拗な罵声の下で仕事をするという状態は数ヶ月も続いた。
さすがに、巧も限界だった。
月曜病が深刻だった。日曜の午後になると深刻な鬱状態になった。
夕方、帰宅時、夜行列車が南に向かってゆっくり走っていくのを見た時、涙が出た。あれに乗って、何処か遠くに逃げられたら、どんなに幸せだろうと。
会社も、巧が精神に異常を来すか、体調を著しく崩して、自主退職するのを期待していた。それが巧には手に取るように分かった。
巧は、電気・電子技術関係の独和翻訳者だった。当時は、インターネットがなかったので、翻訳に必要な知識は、専門書を頼りにしていた。
巧が住む浦安の図書館は、東京ディズニーランドのお陰か、当時、日本一の本貸し出し量を誇る充実した図書館だった。専門書も充実していたし、なによりも、リクエストすると直ぐに購入してくれた。
あるとき、ふと、精神医学・心理学の本が眼に入った。巧は、その関係の本を借りまくった。自分の精神状態を客観視し、自分で治療するためだった。
「森田療法」の本との出会いは救いだった。会社を離れられないので、その合宿療養所には行けない。自分で、森田療法を忠実に実践した。それに、巧は決して体育会系ではなく、ひ弱な体質だった。
それと、ドイツ語がウィークポイントだった。周囲は、高学歴のドイツ語・ドイツ文学専攻のドイツ語専門家ばかりだったからだ。博士号所有者もいた。ドイツ語は、高専の必須科目だったのと、ヴィトゲンシュタインをドイツ語で読んだくらいだった。しかし、徹底的にドイツ語で読んだので、独和翻訳者として入社試験のトライアルに合格し、採用される程度にはなっていたが。
森田療法による生活で、規則正しく、睡眠時間を充分にとりつつ、余計なことを考えずに、日常生活を大事に一つずつ丁寧に熟し、ドイツ語を集中的に徹底的に独学した。専門的なドイツ語文法書と、ドイツ語系大学院の入学試験問題集を隅から隅まで何度も本がボロボロになる迄徹底的に学習した。独和翻訳の基礎力・実践力を付けるために、社外の翻訳の仕事もやった。多様な内容の仕事だった。その収入が会社の給与より高い月もあった。そんな生活が1~2年続いた。この時身につけた実践的なドイツ語力は、この後、30-40年に亘って巧の生活を支えることになった。
職場での方針は、こちらからは絶対に敵をつくらないようにした。
例え、積極的に敵対する社員であっても、おだやかに、かわした。
かつて仲間だった組合員たちとは特に積極的に明るく接した。当初、無視していた組合員たちも、本部の意思通りにはいかず、次第に話すようになった。
かつて、組合執行部のJさんが乳癌のホリスティック治療reikiでお世話になっていた「Mさん」を紹介してくれて、その治療院に巧も通うようになった。結局、「Mさん」とは、94歳で亡くなるまで35年以上の付き合いとなった。実は、彼女は、巧にとって大事なスピリチュアルの師だった。スピリチュアルの巨人「高橋信次」を巧に注入してくれた。
労働運動では、共産党系の運動から解放されたので、市民派の集会によく参加した。そこで、高木仁三郎さんをはじめて知った。TMI (アメリカのスリーマイル島原発事故)の後だったので、高木さんは、熱心にTMIの報告をなさって、日本の反原発を説いておられた。共産党系でない労組の集会には高木さんも呼ばれて講演をされていた。
最初の印象は、ひ弱なインテリ青年という感じだったが、次第に惹き込まれていった。気付いたら、高木さんの原子力資料情報室の会員になり、原子力資料情報室の会報で知った日韓の反原発闘争を結ぶ市民運動主宰の韓国語講座に参加していた。原子力資料情報室で火災があり、韓国担当者が亡くなった。その青年と入れ替わりのように、巧が参加するようになった。
当初20~30人もいた学習者も、最後は、先生2名、生徒2名となった。結局、先生が所属するアジア文化会館の韓国語講座を受講することになり、中級から入学して、直ぐに最高クラスの演習クラスまでいった。
その後、韓国の環境運動連合との交流にも参加し、高木仁三郎さんから環境運動連合への資料を持参し、高木仁三郎さん宛の厖大な調査報告書をソウルから東京に運ぶまでになった。
原子力資料情報室の新たな韓国担当者Oさんと韓国語の天才である某大学講師N先生の3人で、韓国の原発関連の新聞記事を読み合わせ、研究するまでになった。もちろん、原子力資料情報室にも何度も通ったが、不思議なことに高木さんが直ぐ横にいらっしゃったことも何度もあるのに、親しくお話したことはなかった。某空港建設反対運動の現場でもすれ違うことはあったのに。韓国の某反原発活動家を通じて、高木さんのことは熟知していた。
高木仁三郎さんたちの影響もあり、環境問題から農業にも関心がいった。
某空港建設反対運動の援農にも参加し、農家と付き合ううちに、自分でも農業をやりたくなった。しかし、会社を退職して農業に転業するわけにはいかなかった。それができたら、どんなにいいだろうと心底思った。実際、就農支援センターに相談に行ったこともあった。
しかし、それはある意味、逃避願望だったのかもしれない。それ程、会社での闘争は、きつく巧を縛った。
浦安のマンションのベランダで、発泡スチロールの箱で野菜を作ることから始まって、千葉郊外の農地を借りて農業の真似事をした。
そんな頃、岐阜の中島正さんの安藤昌益思想「みの虫革命」と自然農スタイルを知った。中島正さんとは、直接お話もし、一緒に原子力資料情報室の署名活動にも参加した。中島正さんとの出会いと交流は、巧の、その後の人生にとって根幹となるものになっていった。
結局、郊外に自分の山林をゲットし、その近くに2反の畑を借りて野良仕事をするようになった。
山林は、荒れ果てた杉・檜・雑木・竹林だった。開墾作業からのスタートだった。手斧、鉈、鋸、電気チェンソー、エンジンチェンソーも使って、開墾し、建築の本を勉強して小さな小屋を自分で建てた。
週末金曜夜から日曜夕方まで、ここで作業することもあった。会社でのストレス発散にもなった。なによりも、病弱だった巧の体が強くなっていった。
当初、高速道路を使って、野良仕事をしに行って作った野菜を「スーパーで買った方が安いよ」と揶揄われていたが、巧の健康回復と農的生活への目覚めと、中島正・安藤昌益の農思想は、巧の基本思想を形成してくれたのだから、巧にとっては、それで充分だった。
こうして、会社での労組潰し攻撃との闘争によって、巧は、多様な社会問題、環境、原発、死刑廃止、農業、そして、スピリチュアルへと、世界が拡がっていった。
会社が生活のすべてという当時のサラリーマンのスタイルを破り、会社で闘争しつつ、生活の経済基盤をおきつつ、社外の広い世界に軸足を置くという生活スタイルを築いていった。
9.地裁・高裁・最高裁で全面勝利! 連戦連勝!
年休8割条項裁判は、地裁・高裁・最高裁で全面勝利した。
この間、巧の闘争方針は、搾取の現場である職場闘争を重視することであった。
つまり、社前集会、ストライキ、会社・ドイツ人/日本人管理職抗議行動、デモのみならず、マスコミも利用した。
「労務コンサルタントを利用した組合潰し」を取材していた共同通信の編集委員が、巧の闘争の記事を世界に配信した。この後、この編集委員は病気で亡くなった。奥様にお願いして、霊前に勝利判決と、そのニュースを置いて頂き、報告させていただいた。海外の新聞にも掲載された。国内の新聞・雑誌にも掲載された。司法記者クラブで記者会見もした。NHKの夜7時のニュースでも報道された。
現場実力闘争だけが闘争ではない。職場内では、同僚とは、管理職も含め、こちらから、極力仲良くした。
労組潰しの尖兵となっていた日本人管理職たちとは、全面抗戦状態だった。
特に、最先頭で指示していたI総務部長とは厳しく対立した。相変わらず、会社は、文書合戦に持ち込んでいた。そのうち、巧の抗議文をI部長が破ってゴミ箱に捨てたことがあった。その時、巧は、I部長の席に行って、「ゴミ箱から抗議文を拾いなさい。」と静かに抗議し、それでも拾わないI部長に対して、I部長の机の上にゴミ箱をぶちまけた。I部長は、俯いたまま手が震えていて、一言も発言できなかった。他の管理職も横目で見ているだけだった。
その行動に対する会社の反応は、「警告書」の紙切れ一枚だけだった。トータル数百枚の「懲戒処分の警告書」を会社は出しただろうか。当然、実際の「処分」はできなかった。実際に「処分」したら巧はどうするか十二分に会社は分かっていたからだ。力関係が完全に逆転した。これには、背景事情がある。
要するに、資本は、恐怖で労働者を支配しようとする。大半の労働者は、支配されてしまう。しかし、冷静に状況判断しつつ、恐怖に支配されず、立ち上がって闘う労働者に対しては、資本は弱い。特に、会社を取り巻く社会状況まで味方につけた労働者に対しては、実際には手が出せない。
丸の内での社前集会を、地域の争議団の仲間と一緒に頻繁に行った。同時に、ビルの会社入り口で抗議行動を行った。
日本人管理職のみならず、ドイツ人管理職に対しても抗議した。
地域の争議団共闘の仲間には、某新左翼党派各派も少なからずいた。彼らにとっても重要なことだった。と言うのは、搾取の現場で闘う労働者こそがリアルであり、彼らの「左翼理論」「革命論」を裏付ける証拠そのものだったから。だから、巧の丸の内の集会現場には、公安も探りに来ていた。巧も争議団の一員として、某新左翼党派各派のメンバーたちとも分け隔てなく親しく付き合っていた。だから、公安情報として、巧もメンバーか?ということが会社に伝わっていたのかもしれない。だから、余計に会社は、巧に手を出せなかった。当然、巧は、ノンセクトの唯の一労働者に過ぎなかった。
むしろ、争議団の親しい仲間に心配されたことがあった。
巧が、現場闘争主義の某新左翼党派の幹部たちとも親しく交流するので。
巧は、毅然として言い放った。
「ご心配なく。私は、朱に交わっても赤くならないので。」
その仲間は、大笑いした。
巧は、「組織」そのものが好きではなかった。
共産党系労働運動(職場のもうひとつの労組であり、かつて、巧が所属していた組合)での苦い体験が巧を組織嫌いにした。
某空港反対闘争の成り行きとか、学生運動、新左翼運動の行方とか見ると、「組織」は「組織」故にこそ、意外と弱いのではないかと巧は思った。
個人の強さこそが真の強さなのだと巧は思った。
確かに「万国の労働者、団結せよ!」というのはスローガンとしては正しいのだろうが、現実には、団結しないのが人間である労働者の真実なのかもしれないとも思う。三井三池争議の幼児体験から始まった、巧の実体験からも、巧はそう思った。
これは、マルクスの責任と言うか、「組織」側の責任なのだろう。「組織」を構成する、しょせん「人間」でしかありえない人間の側の責任なのだろう。「人間」は、そんなに完璧ではない。マルクスの理論通りに行動するというような、そんな単純なものではないのだろう。人間は、奥深い。そして、複雑で、矛盾した存在である。
こんな御時世に(日本社会全体が反動化している)、地裁・高裁・最高裁で全面勝利するという、めったに出来ない貴重な体験を巧はさせてもらった。組合潰しの尖兵にされたバカな会社管理職の責任、社外労務コンサルタント・プロの「労務屋」の責任である。それ以上に、資本の非道に向かって果敢に立ち上がるひとりの労働者を「分裂主義者・過激派・トロツキスト!」と罵倒してやまない「共産党」系「労働運動」の罪は極めて大きい。会社側弁護士たちすら、この裁判は会社側が負けると分かっていて、和解・早期裁判終結を会社に提案していたのに。実は、巧は、会社側弁護士とも法廷外で密かに話をして、情報を仕入れていたのである。巧の「全方位外交」の成果でもある。
巧も、地裁判決前に、ある程度勝利を確信していた。現場闘争と並んで、労基署・労政事務所交渉も巧たちは行っていたが、労基署の職員からも「あ!大丈夫!この裁判はあなたが勝つよ!」と言われていた程なのだから。
この間、当初は、巧への個人攻撃が強大で、巧も押し潰されそうになったが、三井三池争議の幼児体験が巧を救った。地裁の全面勝利判決までは大変だったが、この判決は、決定的なゲームチェンジャーになった。違法な年休規制には賦課金請求も労基法上可能だったので、当然請求していた。
地裁判決後、会社の労組潰しの旗振り役だったI総務部長が、巧のところに判決に基づく損害支払い命令額と賦課金を併せて現金で持って来た。I総務部長は、酒の匂いがプンプンしていた。よっぽど堪えたのだろう。巧の直属上司は、「判決は、まだ地裁だけでしょ!」とトンチンカンな発言を巧にした。彼は、仕事もまったくできなかったが、社会常識にも人間としての良識にも欠けたひとだった。
それ以前に、会社の管理職たちにはネガティブな事象が多発していた。
I総務部長と一緒になって、巧と、その妻を集中攻撃していたA課長の家族に、その攻撃の最中に不幸があった。A課長の自慢の長男が超一流大学を卒業して大企業に就職して直ぐに典型的な5月病になって自殺したのだった。
B課長は、大病をし、結局、亡くなった。亡くなる前、巧は奇妙な体験をした。会社の廊下を歩いていたら、B課長が廊下の脇に寄って深々とお辞儀をするのを目撃した。巧は、てっきり、後ろに誰かいるのかと振り返ったら誰もおらず、B課長は、巧に深々とお辞儀をしたのだった。
I総務部長自身、くも膜下出血で生死を彷徨った。数ヶ月ぶりに姿を見せたI総務部長は、頭を丸刈りにして、見るからに病み上がりだった。それでも、総務部長として、組合潰しの尖兵をドイツ人経営者にさせられていたのだから、彼も被害者なのだろう。
この会社の悲劇の本質は、労資対立のみならず、発端は、独日の人種差別でもあった。
そんなこともあってか、ドイツ人経営陣は、巧をミステリアスにも怖がった。その上で、地裁・高裁・最高裁の全面勝利は、力関係を完全に逆転させた。
廊下で、ドイツ人社長と巧が親しげに話し込んでいるのを見た、I総務部長や、その太鼓持ちになって巧を攻撃していた日本人管理職・労働者数名は、目を丸くして驚いていた。ドイツ人の、巧に対する態度は、明らかに変わった。
そもそもI総務部長自身が巧に言ったことがある。自分の賃金がいくらなのかも分からないのに、それに同意する「同意書」を会社は、会社が捏ち上げたインフォーマル組織の、組合員以外の日本人労働者に書かせていたが、その矛盾を巧が指摘したら、I総務部長は「日本人なんて、そんなもんだよ!」と言い放った。
ドイツ人は、確かに合理性の高い人種なのかもしれない。そんな彼らも日本人に対して、I総務部長の発言のロジックで遇(あしら)おうとしたら、それに真っ正面から対抗する日本人がいるということをドイツ人に分からせたのだから、ドイツ人の、巧に対する評価も高まった。
一匹の蟻が巨大なゾウに立ち向かうような闘争で始まったが、一匹の蟻が巨大なゾウに勝つこともあることを証明してみせた年休闘争だった。
10.「勝利の美酒」の反動!
地裁勝利判決の日、裁判所の司法記者クラブで記者会見を開いた。
その夜7時のNHKニュースで報道された。その後も、なんどかテレビニュースで報道された。
それを見た後の巧の父親の反応が面白かった。
「ははは(^O^) たった、こんな短い!なぁ~んだ!」・・・このひとは、ほんとうにバカだと再確信した。「向坂学校(三井三池争議時の社会主義者の学校)の優等生」(父親発言)が笑わせるよ!母親は、完全に無反応だった。
巧の両親は、巧をまったく理解できない以前に、理解したくなかった。特に、父親は自分の負い目の裏返しだった。
父親の、巧に対する態度も変わった。自分にはできないことをやってのけた息子に恐怖心・畏怖心を感じると共に、ムラムラとした敵愾心が湧いていた。本当に、人間とは、奥深いものだ。
この時のニュースを見たひとりの独文科の女子学生が、彼女の母親と「こんな凄い人がいるんだね。」と話し合ったとのこと。
その後、彼女は巧の会社に入社してきた。そのことを巧は、その本人から直接聞いた。彼女と巧は、ずっと親しかった。彼女は、巧の農場にも何度もやってきた。二人で、杉の大木をチェンソーで倒したこともあった。畑仕事も一緒にした。彼女も自然志向だった。
職場では、むしろ、新入社員たちの方が巧と親しくなった。
管理職が新入社員に「あのひと(巧)は、とても悪いひとだから、決して話しないように。」と露骨に言った。それにもかかわらず、そのことを直接、その新入社員から聞いた程だった。
会社と巧の力関係は、更に逆転していったのだった。
巧と巧の両親とは、二世帯同居だった。巧には、長男、長女の二人のこどもがいた。
共働きだったので、ほとんど巧の両親、と言うか、巧の母親がこどもの世話をしていた。長男と長女の間には、10歳の差があるので、とくに、長男は巧の母親、つまり、おばあちゃんべったりだった。
長女の時には、立ち会い出産・男の育児休暇の先駆者だった(アメリカの新聞の一面に記事が掲載されたこともあった)ので、昼間乳母車を押して近くの公園に行ったり、長女の離乳食を作って食べさせたりした。一緒に昼寝しつつ、巧の方が先に寝てしまうこともしばしばであった。長女の布お襁褓を100%すべて巧が手洗いする程だった。育児休暇以外の時も、深夜遅く帰宅した際、バケツには、たくさんの汚れたお襁褓が置いてあった。それを毎日、巧が手洗いした。巧の妻の指示だったので、巧の母親もそのままにしていた。
巧と父親とは、深い反目があった。父親は、巧への敵愾心と言っていい程の反感があった。父親は、露骨に巧の長男に、父親巧に対してのネガティブな発言をし続けた。
実際には、巧は、普通の父親以上にこどもと関わっていた。ハイキングにも、ひんぱんに連れて行っていた。集会・デモ・組合大会など、労組の用事で出掛ける時にも、まだ幼児の長男を連れて行くこともしばしばであった。あたかも、嘗て、巧が炭住の三池労組の集会・デモに母親に背負われて行っていたように。
巧の、こどもに対する教育方針というものもあった。
こどもが、ごく普通に社会生活を送れるようにしたい、トラブルなく対人関係を築いてほしいと思うのは父親として最低限のことだろう。時間を守る・約束を守る・他者の話を聞く・周囲の人に気を遣う・・といった基本的なことである。
ずっと後になって分かったことであるが、長男はADHDだった。当時、そんなことばすらなかった。ただ、仲間に「あの子は、離人症っぽいとこがあるね。」と言われたことがある。「おとうさんは、子供をほったらかしだね!」と批判されたこともあった。ひとによっては、長男を「ありゃ、だめだ!」と全否定するひともいた。さすがに、父親として反感を持ったが、だからこそ、巧は長男に対して父親として最低限のことは教えなくては、と思った。
しかし、巧の父親は、それを必要以上に否定して、巧の長男である孫に対して、孫の側を援護するように、つまり、父親である巧を否定するように関わった。巧の長男は、こどもながらに、巧と祖父との間に立って両者の矛盾の板挟みになり、苦しんだ筈である。深層心理で深い傷を負った。それには、巧の責任も大きい。
巧の、父親に対する反感は、幼児体験に根ざす深層心理から来る奥深いものだった。このことの、善悪の是非は、巧にもいまだに分からない。
父母に対する愛情を説く宗教はほとんどだろう。時には、倫理的義務として説く宗教もある。すべてと言っていいのだろう。いまだ、それを説かない宗教を知らないほど。
そうすると、巧は、このままだと、確実に地獄に落ちるということなのだろう。
ただ、そうだとしたら、地獄でも閻魔大王に反論したい。人間として許しがたいという感情を父親・母親に持つことは、人間には決して許されない事なのかと。
そうだと言うのなら、喜んで地獄に落ちよう。巧の父親・母親が犯した罪は、三池争議の結論である、死者458人、CO(一酸化炭素)中毒者839人を出した炭塵爆発事故の責任の一端でもある。その中に含まれている被差別者与論島出身者、強制連行されてきた朝鮮人労働者に対する責任の一端でもある。それまでにも、三池炭坑で人間扱いされてこなかった、それら被差別者、朝鮮人に対する責任の一端でもある。彼ら彼女らの命は、そんなに軽いものであっていいのだろうか。今、私たちは、簡単に忘れてしまっていいのだろうか。日本人は、大日本帝国の末裔は、あまりにも無責任であろう。巧も、その一員である。巧にも責任はとりきれない。人間という存在そのものが罪なのかとすら思う。
それらの罪の欠片でも、巧の父親に感じて欲しかった。三池争議の決戦直前の敵前逃亡は、人間として許されない罪だと巧は今でも思う。三池争議の最終決着としての「敗北」だったが。それは、三池労組の敗北ではない。日本人としての敗北だった。日本の労働者の敗北だった。その成れの果てが、今の日本の労働環境であり、今の日本の経済力である。
巧の丸の内の職場で味わった針の筵の地獄は、巧にとって「贖罪」のひとつだったのだろう。しかし、ほんの小さな、小さな贖罪だった。
確かに、巧には、地裁完全勝利判決後、自分自身に対する「自信」と「プライド」は高まった。
こどもの頃、福岡から東京杉並の小学校に転校して、先生に人間として侮辱的なことばを投げつけられても何も反論すらできず、俯いていた弱虫の巧が、職場でたったひとりで、地域の仲間に支えられて、針の筵に耐えて勝ち取った勝利なのだから、やっと、巧は自分自身に自信とプライドを持てたのだから、ある意味、当然のことだろう。
ドイツ人経営者からの直接的な信頼も実感していた。ドイツ人と対等な日本人は、職場で巧ひとりだったのだから。
ただ、それらを、家庭ではすべて否定された。
巧の父親は、おとなげなく、巧を否定し、それに反して孫を持ち上げた。「5歳にして、父親を超えたな。」と露骨に巧の前で孫に言う父に対して、相手にするまでもないと無視したが、きちんと向き合うべきだったのだろう・・か?
巧の妻、つまり、その孫の母親も、長男の肩を持ち、ヒステリックに巧の父親としての教育を否定するようになった。ここに書くまでもないような小さなことで(巧の母親が「知らない」と言っていることに執拗に同じ質問を巧の母親、長男の祖母に投げ続ける長男に巧は、静かに小さな声で「知らないって言ってるでしょ」と言ったことに対して、巧の妻は、巧に対してヒステリックに抗議し続けた)、昼食時から深夜夜中、早朝近くまで言い争いになり、最後には、時計をちらっと見た巧に対して、巧の妻はヒステリックに切れ、巧の鞄を何度も床に投げつけるまでに至った。巧は、翌日団体交渉があるから寝かせてくれ、とお願いしただけなのに。
巧は、会社から帰宅して、家に入る前に、労働運動や社会運動でよくやるように、拳を振り上げて自分の気を引き締めなければならない状況にまでなってしまった。皮肉なことに、針の筵が、会社から家庭に移ってしまった。
その根本原因は、三井三池争議に対する両親と巧の立場の違いである。
両親は、巧のためでもあったのだろうが、第一組合から第二組合に転向し、更に、三池争議の最終局面であるホッパー決戦の直前に、敵前逃亡するようにして東京本社に転勤することを選択した。そこに不純な「取引き」「契約」があったことは容易に想像できる。三池争議を裏切ったのである。第一組合の三池労組を裏切ったのである。
それに反して、巧の幼児時代は、第一組合、三池労組のコミューンである炭住での労働運動の真っ只中である。赤旗の波、シュプレヒコール、労働歌、インターナショナル、デモ、抗議集会が巧の原風景であり、こもり歌だったのだから。両親とは正反対の価値観を持ってしまった、持たされてしまったこどもだったのである。
そんな家族にトラブルが起きない方がおかしいのだろう。
ずっと、時間が経って、巧は思う。これは、巧にとって必然、運命だったのだろうと。この巧の「物語」のロジックは、恰も、事前に決められていたかのように、うまくピースが嵌まり合う。そこに、なにか、スピリチュアルなものを感じるのはおかしいことだろうか。
11.パラダイムシフトと遭難
巧は、入社初日、出社した瞬間に「あ、この会社は合わない!」と直観的に思い、退職を既に射程に入れていた。
友人と、登山三昧の日々だったので、山小屋とかでバイトしながら自然のなかで暮らすという生活に憧れていた。
ところが、あれよ、あれよと言う間に、労働運動に引きずりこまれてしまった。
・・「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)・・
巧は、丸の内のサラリーマンというタイプの人間ではまったくない。労働運動と関係しなければ、とっくに都会から去っていたところだった。労働運動のお陰で、30年間ものあいだ、丸の内に縛られることになった。
巧の仕事は、電気・電子・通信関係のテクノロジーの独和翻訳だった。
巧が、このテクノロジーに関わってから、高専時代も含めると、70年代後半から2020年代初めまでの約半世紀は、テクノロジーのパラダイムシフトが起きた。それを、翻訳とはいえ、その現場近くで体験できたのは、結局、この労働運動のお陰である。その意味では、労働運動に感謝しかない。
真空管→トランジスタ→プレーナトランジスタ→IC→LSI→SLSIと、半導体の進化と共に歩む、巧の人生・仕事だった。
高専で最初に使った電子計算機は、トランジスタのMELCOMの大型電子計算機だった。教室一部屋を占拠していた。
大学は、夜間仕事しながら通ったが、その時使った大型コンピュータは、IBM360,370だった。
翻訳は、当初、紙に鉛筆で仕事していたが、やがて、ワープロ→マックデスクトップ→マイクロソフトのコンピュータ→インターネット・社内ネットワーク・データベースへと進化していった。
会社では、電気・電子・通信関係の翻訳だったので、仕事として各種研修に行かせてもらった。特に印象的だったのは、インターネットの初期の頃、その仕組みの研修だった。とても面白かった。それが、2020年代のこんなところまで進化するとは、当時考えもしなかった。
言語処理テクノロジーの研修も、とても難しかったが面白かった。仕事でも、AI関係の仕事が増えてきて、巧の個人的な関心領域に近づいていった。
80年代は、電子回路が主で、工業高専電気工学科(パルス回路専攻)出身にとって回路図を読めることがドイツ語専門出身でない点を補ってくれた。
90年代~2000年代には、回路図が極端に減少し、代わりに、半導体と医療電子とAI、素粒子(加速器など)、量子技術が中心になっていった。時々、宇宙技術の仕事もした。
単純な制御系からメタの制御系・メタメタ制御系・制御系が自己を制御する複層的な制御系になって、自然言語で正確に表現するのが難しくなった。カオス・ファジーと言った数学も幅を利かせるようになった。
具体的なものから次第に抽象的になっていった。多分、文系出身の翻訳者には歯が立たなかっただろう。
独和翻訳者になったお陰で、高専の同窓生のなかで、たぶん、高専で学習した専門知識をいちばんよく仕事で使い、役立てたのは巧ではないかと思う。高専時代のテキストをずっと手元に置いていた程。伝送工学、電磁気学、交流理論、物性物理、半導体工学、パルス工学とか、特に役立った。
大学に進学すると言ったとき、父親は、方向転換だと言って非難していたが、次第に言わなくなった。
日本人管理職たちが、巧は仕事ができないというキャンペーンを張っていた時、それを飛び越して、ドイツ人管理職が直接、巧に仕事を依頼してきた。
「この件は、会社の名誉にも関わる重要な仕事なのでがんばってやってください。」と。MRI(核磁気共鳴)に関する案件だった。
課の中で、巧だけが理工系だったということ故なのか、労働運動とはまったく関係ないところで判断したのか、日本人とドイツ人の違いを考察する際に面白い現象かと思う。
実際、ひとりで裁判提訴した直後、地域の争議団の仲間たちからは、「査定給で絶対差別されるから、覚悟しておいた方がいい。」と言われたのだが、実際には、査定給で差別されることはなかった。「巧は、仕事ができない!」キャンペーンを張られていた割には。ほんとうに、不思議なことに!仲間が驚いていた。このMRIの件以降は、更に査定がよくなった!
結局、このMRIの仕事は、トータル8年程取り組んだ。数ヶ月に亘って、MRIの勉強だけをさせてくれた。専門書も、買いたい放題だった。会社に、それを許せる余裕があったと同時に、それ程重要な仕事だったのだろう。
単純な翻訳ではなく、内容自体も、クライアントと一緒になって考えた。ドイツの代表的な研究所から研究者・数学者がふたり、わざわざ来日して一緒に検討会議をする程だった。
詳しくは、書けないが、結局、このMRIの仕事は、大成功した。「巧は仕事ができない!」というキャンペーンを張っていた日本人管理職の面子丸つぶれだった。
これ以降、最先端テクノロジー関係は、巧のところによく来るようになった。巧を攻撃していた直属管理職には、攻撃する隙もなくなり、そもそも、翻訳内容は、彼の理解を超えていた。それと同時に、直属管理職の方こそ「無能!」という評価が、社内で定着していった。
入社して直ぐの頃は、95%以上がドイツ文学、ドイツ語、ドイツ文化専攻の文系出身者ばかりだった。その人達が、理工系・テクノロジーの論文などを翻訳していた。
当時の学生は、語学か理数かの二者択一の傾向が強かった。だから、当時は、理工系出身の翻訳者はマイナーだった。
次第に、語学も理数も両方に長けた学生が多くなり、2000年以降は、理数系出身者が75%以上を占めるようになった。昔と反転した。これには、テクノロジーの進化に伴い、文系出身者では次第に歯が立たなくなったという事情もある。
文系出身の新入社員で、テクノロジーのことば遣いに違和感をおぼえ、会社を去る人が続出していた。
学生、若者の傾向も、次第に変化していったということだろう。理工系の翻訳の仕事の需要が高まっていくに連れて、語学と理数の両方に長けた学生が応募するようになったのだろう。これも、時代の要請なのだろう。
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裁判に勝利し、重要な仕事も熟し、巧の職場での位置も安定しつつあった頃、仕事中、登山の友人Sから久しぶりに電話が来た。
巧と一緒に登らなくなってから、Sは、彼の職場であるCDショップチェーン店の、同僚の山好き女子と一緒に登っていた。山がつなぐ不倫だった。
何かの事情で、その彼女がひとりで、穂高を縦走中、滑落遭難したとのこと。「捜索中で、まだ見つかっていないので、助っ人に来てほしい。」という電話だった。巧は、即快諾した。
会社を早退した。労働運動の仲間に、プロレベルの「山屋」がいたので、詳しく相談に乗って貰って、穂高に行く準備をした。
結局、彼女は遺体で発見された。
その事件で、Sの不倫が職場・家庭で発覚して、Sは職場を退職し、離婚した。不倫が原因で、職場と家庭の両方を失った。
それがきっかけで、巧は、また山に戻された。
自殺願望のあるSを心配し、また一緒に山に登るようになった。Sは、遭難した彼女の遺影をいつもザックに入れていた。
今度は、丹沢ではなく、穂高・八ヶ岳がメインになった。当然数日かけての登山だった。
Sは、自動車の運転ができなかったので、巧ひとりが運転した。仕事が終わってからの山行きなので、過労・睡眠不足で、運転途中、眠気に負けそうになり、サービスエリアで仮眠せざるをえないこともたびたびあった。
そこまでして、Sと一緒に登山しなくては、と巧に思わせたのは、労働運動での仲間意識・他者のために尽くすという活動家の心情故なのかもしれない。某労働運動活動家の言葉に「利益はすべて民衆に、不利益はすべて活動家に」というのがあり、巧は、とても感銘を受けた。
それと、Sを登山に向かわせたのは巧であり、当初、山岳会での登山ではないプライベートな3人(当初)の山登りだったので、気が緩み、登山途中から缶ビールを飲むという、だらけた登り方をさせてしまった果ての「遭難」という自責の念も巧にはあった。
この遭難は、巧にも責任があるという意識が、巧をふたたび山に向かわせた。
これは、ともすれば、都会での、労働運動と、テクノロジーの仕事一辺倒になろうとしていた巧を、巧の本来の価値である「自然」へと呼び戻すきっかけとなった。
12.スピリチュアルの師たちとの出逢い
巧が労働運動に巻き込まれていくきっかけは、会社から執拗な組合潰し攻撃を受けていた、当時の社内組合の執行部のひとりJさんの「どうしたらいいのか、わからないわ。」と言って流した一粒の涙だった。
会社は、組合を弱小化させた果てに御用組織「職場を守る会」をでっち上げ、その代表の署名で就業規則を全面改悪し、その中に労基法違反の「年休8割条項」が入っており、不当な年休規制をしたのだった。
4期の乳癌が見つかったJさんに対して、「年休8割条項」に引っかからないように「這ってでも会社に来なさい。」とアドバイスした共産党系労働運動に対する絶望と反発が、巧を、共産党系労働運動の組合から脱退して、年休8割条項裁判を個人提訴させた原動力だった。
結局、Jさんは、帰らぬ人となった。
Jさんの骨を拾っているとき、「這ってでも会社に来なさい。」という酷い言葉をJさんにぶつけた共産党党員が「かわいそうに。こんな姿になって。」と言ったひとことに、巧は怒りを感じた。あの時、「這ってでも会社に来なさい。」と、よくも言えましたね!と。
Jさんは、Mさんというレイキの治療師から治療を受けていた。末期癌の患者たちが、Mさんを頼って、わざわざ新幹線に乗って地方から治療を受けに来る程の「有名人」だった。
巧の病気を心配したJさんが、巧に、Mさんを紹介した。それから、巧とMさんとの付き合いは、40年以上続くことになる。
Mさんは、レイキ治療の合間に、巧にスピリチュアルの巨人「高橋信次」を注入し、そして、「一遍」「宮澤賢治」をスピリチュアルとして教えた。レイキは、巧の一生の大事なツールとなった。
労働運動の仲間のAさんと、そのグループに、「愈気」「気功」を教えてもらった。「愈気」「気功」も、巧の一生の大事なツールとなった。
新入社員のKくんが、巧の課に配属されてきた。
Kくんは、フランス語と数学を学び、フランスに留学し、帰国後、大学院で数学を研究していた多才な超秀才であった。ドイツ語の実力も申し分ないものだった。
MRIの仕事以来、巧に、最先端テクノロジー関係の仕事がよく来ていた。Kくんのところにも、数学者故、最先端テクノロジー関係の仕事がよく来ていた。
職場では、巧の方が先輩故、Kくんは、よく巧のところに質問しに来た。巧とKくんが一緒に、いい仕事をしたことがたくさんあった。
テクノロジーのパラダイムシフトを象徴するような仕事がふたりのところに来た。一緒に翻訳することもあった。傍で見ていると、ケンカしているのではないかと思われる程激論を闘わしたことがあった。結局、原文(ドイツ語)が自然言語故の曖昧さから、テクノロジーのエッセンスをリアルに表現できていないこと故の論争点だったことが判明した。真に正確に表現しようとすると、記号論理学並の記述を必要とするものだった。「階層」「メタ」というテクノロジーの思考がパラダイムシフトのひとつかと思う。古典的な「電気工学」の技術者には歯が立たない領域だった。
Kくんは、よく巧の席の横にチョコンと座って、仕事に関して質問し、ディスカッションしていた。
本当のことを言うと、その内の半分以上は、二人に共通の関心分野の話をしていた。Kくんの読書量は凄まじいものがあり、古代ギリシアからチベット仏教、現代思想に至るまで、巧の関心領域とかなり重なるものだった。
Kくんは、巧にヴィパッサナ(Vipassana)瞑想を指南した。ヴィパッサナ瞑想は、スポンジに含ませた水のように、巧の血肉となっていった。そのなかでも、ゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vipassana)瞑想が二人の瞑想方法だった。この瞑想に関しては、巧にとってKくんは、師であった。このゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vipassana)瞑想は、巧の、その後の人生そのものと言っても過言でない程、最も重要なものとなった。巧の基層である。
Kくんと、昼休みにスピリチュアルのトレーニングをしたこともあった。一種の「テレパシー」の実験だった。
少し、不思議なことなのだけど、はっきりした記憶はないのだけど、いつの間にか、『メタトロン』ということばが巧の脳裏に、Kくんと一緒に刻み込まれた。カバラの話もたくさんしたので、そのなかから、自然と記憶に残ってきたのかもしれないが。
巧は、Kくんに、「いちばん関心がある数学の分野は何?」と聞いたことがあった。Kくんは、「神聖幾何学」と即答した。Kくんは、いろんなスピリチュアルツール・グッズを巧に紹介したが、「なるほど!」と巧は了解した。しかし、数学系の大学院ではむずかしい立場だったのかもと思った。大学院での専門は、別のものだったのだろうが。
巧は、Kくんに、「『全体』(Wittgensteinが「論考」で言う)そのものと取り組む「数学」はあるの?」と質問したことがあった。Kくんは、「それはないなぁ。」と言いながらも、翌日には、あるスピリチュアルのテキストを持ってきてくれた。「これをあげよう。」と。その本は、いまだに巧の大事な愛読書のひとつになっている。その中に、『全体』について、ひとつの明晰な観点が描かれていた。
Kくんは、その後暫くして、若くして突然他界した・・。
そのずっと前に、巧はKくんに訊ねたことがあった。「死ぬのって、怖くない?」と。Kくん「ぜんぜん怖くない!」との返事だった。
巧にとっては不思議だった。Kくんは、巧にとって、足元にも及ばない程の高みに辿り着いたスピリチュアルの巨人だったのかもしれない。メタトロン?
巧は、思う。
労働運動に巻き込まれて、ドイツ人経営の会社に結局、30年もの時間を費やした。ある意味、人生を棒に振ったのだが、この「針の筵」体験は、Kくんと出会うためだったのかもしれないと。それ程、Kくんとの出逢いは、巧の人生にとって決定的に大きなことだった。
実は、巧も、Kくんと出会う前から漠然と、明確には意識せずに、言葉も知らなかったが、ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想の本質を実行していた。しかも、ゾクチェン(rDzogs-chen) ヴィパッサナ(Vippasa)瞑想の本質的なところを生きていた。それを、しっかりと、ことばで、こころで、定義してくれたのが、Kくんだった。
文字通り、Kくんは、巧の瞑想の師グルである。
13.山登りの「友情」(3)と「活動家」
最高裁判決の前、地域の争議団仲間の間で、地域合同労組結成が議論されていた。
巧の状況としては、最高裁判決後の労資関係としては、確かに不安定ではあった。
仲間の説得もあって、地域合同労組結成に至った。それにより、巧は、地域の争議団仲間も当事者として労資関係に関わるようになり、社内で労働者として、労組法の観点からも保護されるようになった。
最高裁勝利判決は、その地域合同労組結成後に獲得した。
これで、会社は、巧に完璧に手が出せないようになった。巧は、地域の労働者の権利保護も担う、文字通り「活動家」になっていった。
登山仲間のSは、職と家庭を失った後、穂高で遭難死した愛人の写真を持って、慰霊の登山を続けていた。それは、少し常規を逸していた。
ある日、穂高の涸沢から電話が来た。自分に何かあったら、この付近を探してくれという内容だった。Sの穂高三昧の登山に少し心配だった巧は、涸沢に駆け付けた。
それ以来、巧は、Sと一緒に登山をするようになった。もちろん、巧自身も穂高が好きだし、正直言って、労働運動の超多忙な活動に対する言い訳にしていた部分もあるが、「活動家」として、他者の苦悩に寄り添いたいという気持ちもあったのは確かである。
巧の幼児体験以来の巧の本質なのかもしれない。
あるいは、巧が出会った多くの「活動家」の本当の姿は、心から他者の痛みに共感できる、心優しいひとたちであった。世間からは「過激派」と呼ばれる人たちも、そんな普通の、いや、普通以上に他者の痛みに共感できる心優しい人たちだった。
そんな「活動家」の側に自分がいることが、巧には、とても心地よいことだった。敵前逃亡した父に対する自負心もあった。父と、そんな真の活動家たちを較べて見てみると正反対、一目瞭然だった。
瀕死の重傷だった企業内組合に戻って、労働運動に巻き込まれていったのも、そんな心情からだった。
早春の北穂は、未だアイスバーン状態だった。登山靴にアイゼンを付けての登山だった。
巧は、北穂の頂上付近で足を滑らせた。ツルツルの北穂の斜面を滑り落ちた。瞬間、頭が真っ白になった。両足を開き(斜面に残っている雪を股の間に溜めてブレーキにする)、ピッケルをアイスバーンの斜面に突き刺して滑落を止めた。この基本中の基本動作がもう少し遅かったら、滑落の加速度に抗することができず、もう少しで遭難するところだった。
穂高、八ヶ岳、甲斐駒、南アルプスの山々を冬山も含めて、Sと一緒に登りまくった。
夏山と冬山では、全く違う山と言っていい程、違う表情を山は見せてくれる。
断然、冬山の方が美しい。冬山の方が装備は多くなる。水は、雪を溶かして使うので、持って上がる必要はないが、その代わり、テントやザックなどにへばり着いた、少なくない量の氷も一緒に持ち歩かざるをえないので、荷物の重量はハンパでない重さになる。
冬山のフィルムカメラの撮影は厳しい。シャッターが氷り、電池が氷ってしまう。だから、撮る時以外は、ダウンジャケットの中にしまいこんで、体温で温めている。撮る時だけ、外に出して、シャッターを切る。かじかんだ手で。
泥酔状態で、深夜、登山靴を履いてテントから出て、トイレに行って帰って来ると、酔いが完全に醒める。テントで夜寝る前に熱湯を水筒に入れてテント内に置いておくと、翌朝にはカチカチに氷っている。氷点下20-30℃も、巧にとって当時は快感だった。少なくとも、そう嘯いていた。
巧は、銀座の写真弘社の写真学校に通い、モノクロ写真を本格的にやり始めた。SH先生からは、アートとしての「写真」と、モノクロ暗室の技術を習った。
当時赤坂見附にあったレンタルラボに通い詰めていた。レンタルラボのオーナー写真家からも暗室技術を現場で習った。一緒に暗室作業していた他の写真家たちの「写真」、「写真」に対する感覚、「写真」に向かう姿勢・哲学、テクニックを学んだ。
韓国のシャーマン「ムーダン」をテーマに韓国の伝統舞踊、農村の伝統芸能などを撮っていた。巧は、自分でも韓国の小太鼓チャンゴをアジア文化会館(韓国語教室にいた)で習っており、韓国釜山のホンジュソンのグループと韓国の漁村で合宿したこともあった。
ホンジュソンは、釜山に本拠地を構える韓国伝統芸能サムルノリのリーダーだった。彼ら楽団のメンバーたちと一緒に数日間合宿した。
ヨングァン(霊光)原発の近くの浜辺で一緒に泳ぎ、松林でランチした後、マッコリの酔いのお陰か、彼は突然仲間と一緒に伝統仮面劇の一場面を演じ始めた。
天才エンターテイナー、ホンジュソンのコミカルな舞に、参加者みんな大笑いした。涙が出るほど感動し、それでいて、こころの奥底にジーンとした何かが残る・・そんな感じの舞だった。文字通り、心躍った。これを見たとき、このひとを撮りたい!と巧は無性に思った。
その夜遅く・早朝まで、マッコリを飲みながらホンジュソンと話した。釜山訛りの韓国語はむずかしかったが、彼の情熱を助けに話は大筋理解した。
サムルノリといえば、キムドクス(後に彼らの舞台を撮ることになる)が世界的に有名だけど、本来サムルノリは、農村の祭りや儀式で行う農民の舞楽である。キムドクスは、それを舞台に上げて「芸術」にしたけど(北朝鮮でも公演をした)、自分は農民や大衆のなかで本来の農民の舞楽をやり続けるということを熱く語った。
それは、巧の「現場主義」と合致するものだった。
この話で、ホンジュソンを一眼レフで撮るという巧の決意はいっそう強固になった。彼にそのことを言うと快諾してくれた。
ソウルに戻って、成均館大学校内で大雨のなか、ホンジュソンを撮った。さすがプロ、ホンジュソンはしっかりポーズをとってくれた。
ところが、その合宿直後、巧が帰国してから、釜山の路上で、泥酔したホンジュソンは自動車に轢かれて亡くなった。数百メートル引きずられたとのこと。その知らせが、丸の内の巧の職場に入った・・。
彼の故郷海南島(ヘナムト)に弔いに行った。ホンジュソンは、静かな山寺に眠っていた。本当に静かな静かな山寺だった。同じように、静かすぎる程穏やかな東海(トンヘ)がキラキラ輝いていた・・・。
海南島からソウルに戻って、運命的出会いがあった。
当時メジャーな写真家黄憲萬(ファンホンマン)と出会い、漢南(ハンナム)にあった彼のスタジオを訪れた。この時嗅いだ暗室特有の匂いが、巧にはとても気持ちよいものだった。巧は、ますます写真にのめり込んで行く。
ファンホンマンは、実は、当時、多くのファッション雑誌を飾るファッション写真の大家だった。それと同時に、ライフワークとして韓国伝統文化を撮り続けていた。
この時出会って、一緒に農村に撮影に行った、ファンホンマンの弟子の若者インチョルは、後に韓国写真界の第一人者になった。この後、何度もスタジオに通い、一緒に撮影に行ったりした。農村だけでなく、コマーシャルフォトの撮影や、美術館での撮影にも同行した。
そんな中から、韓国伝統舞踊と韓国シャーマンの「ムーダン」の撮影へとつながっていく。
写真は、労働運動や反原発運動での必要性からも巧は熱中し、銀座の古い雑居ビルの一室に暗室を持つ迄になった。
そんな超多忙にかまけていて、少しの間、山から遠ざかっていたら、登山仲間Sは、穂高専門の登山ガイドになった。
それが縁で、登山ガイド仲間の、2番目の愛人アキちゃんと出会い、一緒に登山をしていた。ネパールトレッキングも、Sはアキちゃんと一緒にする仲になっていた。アキちゃんの部屋に同棲する迄になっていた。
銀座の写真弘社で、巧はSH先生のクラスの仲間でグループ展を開催した。その時、Sも来てくれて、はじめて巧は、アキちゃんを紹介された。
山屋女子らしさが全くない可愛いギャルだった。Sには勿体ない程のかわいらしさだった。正直、嫉妬した・・。
グループ展の仲間が、笑顔の石仏の写真を展示していた。アキちゃんがおどけて、その横に立って、同じような笑顔をして見せてくれた。写真の石仏そっくりな、アキちゃんの笑顔だった。あ!撮りたい!と巧は思った。
アキちゃんと一緒に登山したことはなかったが、3人でチベットに行く計画を立てていた。Sが詳細な計画を立てて準備していた。それをネタにして、3人でよく飲みに行った。
その初めの頃、3人で新橋の酒場で飲んでいた。話をよく聞くと、アキちゃんは、巧の中学の後輩だった。住んでいたところも近い。しかも、同じ剣道部だった。同じ中学の出身で、同じ剣道部!しかも、アキちゃんは、ずっと剣道を続け、今では剣道四段になっていた。サークルでこども達に剣道を教えていた。話が盛り上がらない理由はない。中学の話、地域の話、剣道部の話で盛り上がった。
酒に酔ったSが嫉妬して、突然アキちゃんの頬を叩いた。アキちゃんも負けずに、「何故叩くの?」と言って、Sを平然とひっぱたいて抗議した。Sは直ぐに謝った。「ソーリー」と。
アキちゃんは、実家が不動産屋で、名目上、アキちゃんが代表取締役だった。しかし、実際の仕事は、Sと同じ登山ガイドと、海外ツアーのコンダクターをやっていた。
その、ずっと後、真夜中にSから巧に電話があった。「元気?」という、たわいもない内容だったが、よく聞くと、「アキが今日成田に着いている筈なんだけど、なんの連絡もなしに帰って来ない。アキのおかあさんに言ったら、『そりゃ、問題だ。問い詰めなきゃね。』とのこと。」・・
要するに、アキちゃんと巧が一緒にいるのでは?と疑っての電話だった。3人の関係というのは、いつも複雑なものである。特に、男女の3人となると。
巧は、女性のともだちから「3人でチベットに行かない方がいい。行くと、殺されるわよ。」と、アドバイスされたことがあった。
時代の流れで、都心の一等地にあるフィルム写真ラボが倒産した。アキちゃんの口利きで、その写真ラボの暗室機器を巧は譲り受けた。譲り受ける日、Sと巧が都心のラボから機材を巧の自動車に積み込んでいると、アキちゃんが成田空港から駆け付けてくれた。海外ツアーの帰りだった。機材は、巧の、銀座の暗室で使った。
巧の銀座の暗室ラボが水道事故を起こした。その時、不動産屋のアキちゃんが親身にアドバイスしてくれた。巧は、とても助かった。もし、アキちゃんのアドバイスがなかったら、大変なことになっていたところだった。さすが、現場の修羅場を掻い潜ってきただけのことはある。
倒産した中小企業の会社の社長さんが、「これは俺の命だ!」と言って、会社社屋の引き渡しを拒んでいる時、アキちゃんは、静かに説得したことがあったそうだ。そんな話を聞いたことがある。
3人でよく飲みに行った。最終電車がなくなった後、3人で深夜のビリヤードをしたこともある。Sとアキちゃんの部屋は、都心なので、その後、2人の部屋に泊めてもらった。
2人になった時、巧はアキちゃんに聞いた。「Sの何処が好きなの?」「ピュアなところかな。」巧は、内心、Sは、そんなにピュアじゃないのに・・と思った。「自分はそんなにピュアじゃないよ。ピュアな人間には労働運動はできないし。」と言いつつ・・複雑な心境だった。
クリスマス前の冬の寒い夜、3人で、銀座で飲んだ。帰り際、Sは、巧を意識しつつ、これ見よがしに冗談交じりに「アキと俺の「愛の巣」に帰ろう。」と大声で言った。
巧には、グサッとくるものがあった。
巧は、ひとり、霙混じりの肌寒い都心の道を傘もささずに銀座のラボに歩いて帰るしかない。巧は、本気で嫉妬した。この時のことを、後で後悔することになる。
Sとアキちゃんは、フリーターなので、時間が自由になる。3ヶ月掛けて、南米アンデス山脈の標高6960mのアコンカグアの登頂に成功した。難易度の高い山である。
その時の話も、酒の場で、巧はよく聞かされた。巧は、羨ましかった。労働運動があるので、巧は行けなかった。
アキちゃんは、ツアー会社の初めての企画で、ツアーコンダクタがスイスにひと月間ずっと滞在して、日本からのツアー客を空港で出迎えて、スイスマッターホルンに案内するという仕事をした。会社としても、経費の点で利点があったのだろう。毎日のように、スイスの高い山の上と、麓の町を登山鉄道で往復した。
ひと月間の仕事を終えて、日本に帰ってきた翌日、アキちゃんは、脳内出血で倒れた。
その日、巧は、昼休みに、自分でつくった弁当(高野豆腐の煮物だけ)を食べ終わった後、何故か胸騒ぎがした。暗い気分になった。日記に「不安」という意味のドイツ語を書いた。
その直後、仕事中にSから電話が来た。「アキが倒れて、入院した。」と。巧は、直ぐに会社を早退して、都心の大病院に駆け付けた。
アキちゃんは、静かに寝ていた。アキちゃんの両親が主治医と面会して帰って来た。お父さんが、うっと涙ぐんだ。「脳死状態」とのこと。「いつも、アキはこうなんだから。」とお父さんは、独り言のように呟いた。
アキちゃんとお父さんの不仲は、よく聞かされていたが、お父さんはやはりアキちゃんのことが心配でたまらなかったのだと思う。アクティブすぎるアキちゃんの行動力に、ハラハラして見ているしかなかったお父さんの気持ちが少し分かる気がした。
その後、3ヶ月程その状態が続いた。その間、巧は、Sの案内で、アキちゃんの見舞いに行った。
アキちゃんは、無菌室にいた。心臓が動いているだけで、意識はなかった。剣道四段で、アコンカグアを制覇した登山家とは思えない弱々しい姿だった。巧は、脳死状態のアキちゃんに一生懸命愈気をした。かなり長い時間一生懸命に愈気をしていた。Sの声で現実に戻された。
結局、その後暫くして、アキちゃんは亡くなった。まだ、30代前半の若さだった。
アキちゃんの元旦那が、アキちゃんの遺体と、お別れの対面をしている間、Sと、登山ガイド、ツアーコンダクタ関係の友人たちは別室に追いやられた。アキちゃんは、離婚していたことを、巧は、その時、初めて知った。
アキちゃんの部屋にSが同居していた形なので、親戚への体裁から、葬式前にSに退去が要求された。Sと、アキちゃんのツアーコンダクタ仲間の友人たちと一緒に部屋を片付け、整理した後、最後の夕方をみんなで過ごした。Sが酔っ払って、「こいつ(巧)は、アキのために付き合っている。」と言って、巧に管を巻いてきた。巧もはっきりと反論しなかった。
Sの荷物をSの実家に巧の自動車で運ぶのを巧は手伝った。深夜~朝方まで掛かった。
深夜のファミレスで、巧は、ふと、Sに言った。
「アキちゃんは、労災じゃないの?」と。
労働運動活動家としては、当然会社に抗議したくなる状況だった。
Sも、アキちゃんの両親も、内心そう思っていても、ことを荒げることはしたくないとのことだった。巧は、それ以上強く言えなかった。
巧は、複雑な気持ちだった。労働運動活動家として、会社にムラムラと怒りがこみ上げてきた。そして、なにもできない自分に腹が立った。
巧は、夢をみた。宇宙空間を丸い球体に乗ったアキちゃんがもの凄いスピードで飛んで行く。巧が「待って!」と言って追いつこうとするが、アキちゃんは、目もくれずに飛んで行ってしまった。
そのことをSに言ったことがある。Sは、よく巧の家に遊びに来ていた。丁度、巧の母が一緒にいた。
巧がアキちゃんの夢の話をすると、Sは、「なんで、おまえがそんな夢見るんだ!」と少し抗議気味に言った。咄嗟に、巧の母親が「心配してんのよ!」と言って、その場は収まった。
Sは、巧の母親を「おめぇのおかあさん、いいひとだな。」と言った。
母親が脳内出血で入院した時、リハビリ用の靴をSが買ってくれた。そういう気遣いが、Sが他者から、特に女性から好かれる所以なのかもしれない。
それから、また、巧とSのふたりの登山が続いた。年末~年始の冬の甲斐駒~千丈ヶ岳は、きつかった。ザックの重さのみならず、年末~正月の三日を過ぎても、仙丈ヶ岳に登り返すという登山のハシゴは巧の体力の限界を超えていた。大晦日から一日二日まではテント場にはたくさんテントがあったが、さすがに、三日ともなると、テントは皆無だった。千丈ヶ岳は、氷りの滑り台状態で、巧とSはザイルで確保しての登山だった。当然アイゼンを着けていても、滑る時は滑る。一旦滑ったら、2人とも滑る。
巧とSは、ザイル一本で繋がった運命共同体で、黙々と歩きながら、共にアキちゃんのことを思っていた。アキちゃんとSも、こんなふうにして南米のアコンカグアを制覇したのだろうな、と。アキちゃんの人生を思った。
やっぱり、アキちゃんに嫉妬した・・。
14.山登りの「友情」(4)と「活動家」
共産党系労働運動でも新左翼派でもない地域合同労組および争議団の仲間の労働運動は、実は、日本の労働者の実像を映していたのかもしれない。大きな労組組織からも見放された極限状態の労働者たちとの関わりは、巧の労組観、人間観を根本的に変えた。
某有名大学付属病院の敷地内で焼身自殺した障害者の労働者、某大企業の職場、まさに搾取の現場で自殺した労働者など、報道すらされない事例が本当は少なからず日本に実在する。
現場によっては、機動隊が出て来る職場もあった。仲間が公安警察に逮捕・拘束される事例も頻繁にあった。その度に、巧たちは超多忙を極めた。
そんな中、登山仲間Sからアキちゃん追悼のネパールヒマラヤトレッキングのお誘いがあった。
数週間も、労働運動の現場を空けるからには、当然、執行委員たちの了解が必要である。Sの状況、アキちゃんの他界も説明して、友人Sに寄り添いたい趣旨の説明をした。
普段、他者である労働者に寄り添っている活動家たちも、「そういう趣旨で一緒に行くのは、自分がSの立場だったら俺は嫌だな。」という意見があった。
某争議団の熾烈な闘争の中で、「運動の利益はすべて労働者に、不利益はすべて活動家に」というモットーがあった。巧は、このモットーにとても納得していた。
そもそも、巧の会社での労働運動への関わりは、巧にとって、まさにそのモットーそのものだからだ。
これは、実は深い問題である。しかし、Sの現実の問題があるので、執行委員たち合意の上で、ネパールヒマラヤトレッキングが実現した。
Sは、既にカトマンズに滞在していた。アキちゃんと一緒にネパールヒマラヤトレッキングをした時のネパール人ガイドMと一緒に空港で出迎えてくれた。
丁度その日は、ヒンズー教の蝋燭祭りで、線香の煙で燻された夜のカトマンズを寺院巡りした。少なくない野良犬が怖かった。噛まれたら大変なことになるだろうから。
山屋専用のホテル泊で、宿泊料がなんと3ドルという格安だった。ちゃんと、シャワー付きベッド付きの部屋だった。整った部屋だったし。
翌日、国内線の飛行機でポカラに移動した。
湖で、欧米の若者たちがカヌー競技をしていた。カトマンズとは全く違った落ち着いた町だった。なんと言っても、ネパールヒマラヤのアンナプルナが感動的だった。
翌朝、ホテルで、夜明け前にネパール人ガイドMが巧を起こしてくれた。夜明けのアンナプルナを撮った。清々しい空気の中で撮りまくるアンナプルナは最高だった。
チベット難民部落を通って、Sとネパール人ガイドMと、巧の3人のトレッキングがスタートした。Sがアキちゃんと歩いたコースだった。麓の村、部落の野良仕事の風景は最高だった。刈り取った麦を手作業で脱穀していた。水路には小さな水車が廻っていた。段々畑が、ぎっしりあった。美しい風景だが、急斜面も耕作しないといけない貧しさが真の事情だろう。
Sは、巧のために、ゆったりした日程にしてくれていた。初日は特に、午後早めに着いた山小屋で、ビールを飲みながら、ゆったりした。
それでも、翌日からは、ガンジス河の源流の急流が流れる谷に下って、また登り返すアップダウンは巧にはきつかった。だが、ガンジス河の源流であるということ自体にひどく感動した。
登山道は、石が敷いてあり、整っていた。山小屋も、観光に力を入れているせいか、とても美しかった。
フランス人女性グループが、最初にトイレをチェックして宿泊するかどうか決めているシーンに何度か立ち会った。80年代の日本の山岳の山小屋の酷さを知っているが(垂れ流し)、ネパールの山小屋の美しさは格段の差があった。
ネパールの山小屋では、時間の感覚を調整しないといけない。注文してから、かまどに火を入れ、材料を刻み、調理に1時間以上掛かるのはざらだった。しかし、手作りのチベット料理は最高だった。
Sは、アル中だった。
ネパール人ガイドと巧は、早々にベッドに行ったが、Sは、他の登山客たちと遅く迄酒宴だった。大きな声に巧は起こされ、Sの声が聞こえてきた。
巧が、わざわざ日本から駆け付けてくれたことが、よっぽど嬉しかったらしくて、しきりにそのことを自慢していた。巧のことを「あいつはいい奴だ。」と。そして、気前よく他の客たちに奢っていた。
泥酔状態で部屋に帰って来てからがまた大変で、典型的な酔っ払いだった。トイレに行くのにドアを開けられないらしくて、その場でした。ガイドも巧も本当は起きていたが、寝たフリしていた。
巧は、内心、アキちゃんも大変だっただろうなと思った。よく、こんな奴と一緒にトレッキングしたよな、と思った。断崖絶壁の上にある山小屋には柵もないところも。泥酔したSが落ちないか、ハラハラした。
トレッキングコースの終わり頃、小さな部落で休憩していると、日本人男性が一人で、ネパール人ガイドと、数人のボッカを連れて、休憩しているのを見かけた。
見覚えのある顔だった。巧が、まだ企業内組合にいた頃に何度か会ったことがある共産党系労働運動の活動家Kだった。
巧は、そんなことはすっかり忘れて、その「知り合い」に笑顔で話し掛けた。同じニコン製のカメラでアンナプルナ山群を撮っているので、話が弾んだ。Sも加わって盛り上がった。お互いに無事を祈りつつ別れた。
ポカラに戻ってから、巧は一人で急遽カトマンズに帰ることになった。国内線飛行機がストライキで、その上、未だ王政のネパールだった頃で、カトマンズへの最短道路を毛沢東派のゲリラが占拠しているというので、ポカラからいったんインド国境近くまで南下してから東に向かい、カトマンズに向かって北上するという大回りの道を通ってカトマンズに帰った。カトマンズから日本に帰る飛行機が日程固定のチケットだったのだ。
Sとガイドは、時間の制約がないので、ゆっくりできた。ポカラで、ネパール人ガイドが車を手配してくれた。山岳地帯のデコボコ道を走った。途中、路線バスが崖から落ちているのを目にした。180度ひっくり返っていて、バスの上半分が完全になくなっていた。事故直後を想像すると怖くなった。道を人が何人も歩いているのに、直ぐ横をネパール人運転手が運転する車は、もの凄いスピードで走り抜けた。それも怖かった。
カトマンズまで、残り1時間くらいのところで、車がエンストした。巧は焦った。そのネパール人運転手は、ボンネットを開けて、ガソリンを口に含んで、ストローのようなものを使って、プラグを外してエンジンの燃焼室に直接吹きかけた。それで、なんと、エンジンが掛かった。ネパール人運転手を凄いと巧は思った。無事、飛行機の出発時間に間に合うようにカトマンズに着いた。
日本に帰ってから、暫くして、Sも帰国した。Sと飲み屋で会った。
その時に聞いた話・・
アンナプルナのトレッキングルートの村で偶然会った共産党系労働運動の活動家Kと、ポカラで偶然会って飲みに行ったとのこと。
その時、Kは、巧が共産党系の労働組合を『裏切った』という話をSにしたそうである。
巧は驚いた。あんなに仲良く話が盛り上がったのに、日本から遠く離れたネパールに来てまで、それも、自然豊かなアンナプルナ山群に来てまで、そんな話を、なんの関係もないSにしたKの人間性を疑った。共産党というのは、こんなにも「人間性」よりも「自らの組織」を優先させるものだということを、改めて再確認させられた。共産党という組織は、人間をこんなにも腐らせるものかと吐き気がした。
地裁・高裁・最高裁と連戦連勝した巧の個人提訴の裁判闘争の奇蹟的な大成果だったというのに。
職場労働者の雇用を守ったのは巧だというのに。
日本人の矜持を守り抜いたのは、巧だというのに。
それよりも『組織』の方が大事なのだ。共産党という組織は。
巧は、Sに、共産党系の活動家が、乳癌になった執行委員のJさんに「這ってでも会社に来るように。」と言ってJさんの体調を悪化させ、結局亡くなったこと、それに抗議して共産党系の組合を脱退して、裁判を個人提訴したことを説明した。
Sは、「やっぱりな。おまえらしいよ。誇らしいよ、おまえが。」と分かってくれた。
この出来事は、巧が判断して行動したことがやっぱり正しかったということを巧に再確認・再確信させてくれた。
巧は、「組織」というもの自体のそら恐ろしさを感じた。巧の現実の成果よりも、「組織」の関係こそを重要視する共産党系労働運動の非人間性を思った。巧の行動が、巧もかつて所属していた共産党系の職場の組合の組合員たちも含めて職場労働者の権利をどれだけ守ったとしても、彼らにとっては、「組織」こそが重要だということに。その「組織」の「目的」以上に「組織」自体の存在こそを重要視するのが「組織」の存在理由なのかもしれない。「要求で団結」という共産党系労働運動のモットーは嘘だと思った。「組織でこそ、組織のためにこそ団結」というモットーに変えるべきだ。それは、厳し過ぎる社会、厳し過ぎる資本主義社会においては、人間性に対する挑戦でもある。
だから、巧の現場主義の現実の成果が一層引き立つ、共産党系労働運動活動家Kの行動だった。Kの意図とは逆に。
15.自己と他者/ スピリチュアルの師との対話(その一)
スピリチュアルの師と呼べる人が2人いる。
このこと自体「奇跡」と言っていい!
そのうちのひとり、Mさんは、reikiの治療師。最初は、企業内組合執行部のJさんに紹介された。Jさんの他にも組合員の数人がMさんのところに通っていた。
乳癌のJさんに「這ってでも出社するように」強要した共産党系労組の方針に反対し、ひとりで裁判提訴してからは、職場内で孤立しないという巧の戦略も確かにあったが、Mさんとの交流は、実際には、それ以上の親密さになっていった。
末期癌の患者たちが最後の拠り所としてMさんを頼ってきた。Jさんも、そのひとりだった。Mさんのreiki治療を受けた後、「自分がこんなに元気なんだって思えるんだぁ。」とJさんが言っていた。
某新興宗教の幹部でもあるMさんだったが、わたしたちには全く勧誘はなかった。
余命1年と言われた患者が、Mさんの治療で、2年、3年と延命すると、Mさんは「神様!」と言われるが、逆の場合には「人殺し!」と罵られる。
Mさん自身も、大変な人生で、詳しくは書けないが、親族の大事件が起きた時、巧はちょうどMさんのreiki治療を受けていて傍にいた。親戚からの電話に、Mさんは暫く放心状態だった。その場にいた巧には、その電話の内容を伝えた。確かに、悲惨な内容だった。
それ以降、Mさんは誰ひとり、そのことを話さなかった。巧も誰にも話さなかった、Jさん以外には。スピリチュアルで、それなりのひとというのは、こういう想像を絶する体験をすることがあるのかもしれない。
Mさんは、共産党系労働組合の活動家たちと対立して離脱して、原則的労働運動をする巧と、共産党系労働組合のメンバーとの間をつなぐ役目を果たしてくれた。
だから、両方の意見を聞き、状況を知り尽くしている。その上での巧とMさんとの対話だった。
巧のとった行動を「すばらしい!」とMさんは賞賛した。共産党系労働組合のメンバーの中にも、数人、同じように高く評価するひともいた。ただ・・
Mさん・・「正しいことをしても、みんなが正しいと思ってくれるとは限らないよ。それが、みんなのために本当に良かったのかどうかも分からないのかもしれないねぇ・・。」
巧は、正直ショックだった。全面的に巧の味方だと思い込んでいたからだ。いや、味方は味方なのだろう。
しかし、少し落ち着くと、Mさんの言葉は、巧の心の奥底に残り続けた。ずっと、自問自答し続けた。
いまだに、巧にとっての「正解」は分からない。
確かに、巧の「闘争」の原点は、会社から酷い組合潰し攻撃を受けていた企業内組合執行委員のひとりJさんの涙だった。
しかし、巧が単身決起した後、Jさんも共産党系の上部組合本部の指示通り、彼らが言うところの「過激派!」巧の排除攻撃に加担した。それでも、結局、会社の組合潰し攻撃に対しては、巧が完全勝利した。
単に、地裁→高裁→最高裁の全面勝利のみならず、組合潰し攻撃した会社の中に強固な地域労組を確立し、職場の労働者の雇用も実際に守ったし、地域の中小零細企業の労働者の雇用も守ったのだから、「階級的」にも巧の勝利は明らかだった。
新入社員たちは、そんな巧とも分け隔てなく交流したが、彼ら彼女らにとっては、そんな「過去」の「いざこざ」はどうでもいいことだったのだろう。むしろ、巧たちが勝ち取った「年休」の権利、「育児休業」等の諸権利も、なによりも、外資系にありがちな雇用の不安定さも改善させた。日本人労働者を恣意的に直ぐに解雇することは許されないということをドイツ人経営者に分からせた。
若者たちは、そんなことは最初からあった当然の権利だと思っていた。それは、それでいい。巧たちは、自分たちの「闘争」が誰からも評価されなくても構わなかった。それこそ、「闘争の不利益は、すべて活動家に、闘争の利益は、すべて大衆に」(山谷争議団)なのだから。
それに、巧たちの闘争は、ドイツ人経営陣と、日本人労働者との人種差別との闘争でもあったのだから、日本人としての矜持をドイツ人経営者に示した闘争でもあった。これに関しては、巧の仲間の組合執行委員たちによると、「それは、あまり強調しない方がいい。」とのことだった。彼らも、所詮「階級闘争」派なのだろう。まぁ、そうだろうけど。
それ以前に、人間としての尊厳を守った闘争でもあった。その自負と矜持は、巧にある。
それでも、Mさんの問い・・
「正しいことをしても、みんなが正しいと思ってくれるとは限らないよ。それが、みんなのために本当に良かったのかどうかも分からないのかもしれないねぇ。」・・
は、巧の深層を侵食し続けた。いまだに、侵食し続けている。
要は、巧の自己満足なのかもしれない。
巧の幼児体験から来る自己満足に過ぎないのかもしれない。それは、それで、巧はよかった。
巧が問いたかったのは、それでも、「本当に自分の決断と行為はよかったのか?」だった。
・・「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)・・
巧の「人生を棒に振った」行為が本当によかったのか?
「自己犠牲」と言えば、聞こえはいいが。宮澤賢治の「グスコーブドリ」ではないが。
巧の周囲にたくさんいた「活動家」たちのように、100%の「確信」のようなものは巧にはなかった。
Mさんのことばが、巧に「ゆらぎ」を起こした。
この「ゆらぎ」は、時間が経つにつれて、次第に大きく大きくなっていった。
この「ゆらぎ」は、次第に世界情勢にまで拡がるものになっていった。
それ程、2000年以降の世界は、異常かもしれない。
人間の尊厳を守る「闘争」・・立派なことだろう。非難の余地もないことかもしれない。
それでも、両者が、その『人間の尊厳を守る「闘争」』という『正義』を振りかざして「憎しみの連鎖・悪循環」「終わりなき戦い」「仁義なき戦い」が頻発する世界は、これで本当にいいのだろうか。「狼」に人間が堕してしまっていいのだろうか。
それら両者のロジックをメタのレベルから再吟味し直さなくてはならないのかもしれない。
何時から、こんな排他的なロジックが跋扈し始めたのだろうか?
こんな排他性は、人類に、ホモサピエンスに特有のものなのだろうか?
だとしたら、どうしようもないものなのだろうか?
だとしたら、人類には絶望しかないのだろうか?
ほんとうに、そうだろうか?
16.「ユーモアとアイロニー」/ スピリチュアルの師との対話(その二)
もうひとりのスピリチュアルの師であるKくんは、巧の仕事の後輩である。
Kくんは、日本で超難関名門と言われている某超有名大学の出身である。しかも、文系仏文科と理系数学科卒で、フランス留学もし、理学部数学科の大学院中退でもある。何故中退かと言うと、教授とケンカして辞めたそうである。
予備校の講師を経て、巧が勤めるドイツ人経営の翻訳会社に入社してきた。フランス語とドイツ語と英語の翻訳を担当した。予備校の講師の方が、よっぽど高収入だったそうである。
そんな名実共に秀才のKくんだったが、会社では、巧が先輩だったので、頻繁に巧のところに来て質問した。事実上、巧がKくんの新入社員教育の担当だった。
テクノロジーのパラダイムシフトの時期で、テクノロジーの翻訳者の世界も、年功序列タイプの能力世界が逆転していた。つまり、生まれた時からファミコンがあった若い新入社員の方が、翻訳対象の内容を一層よく理解できるのである。
シニアの翻訳者には、そもそも内容が理解困難になっていた。
コンピュータの操作もそうである。高齢の翻訳者が、若い社員に、コンピュータの操作を尋ねに来るということもよく見かけた。電子回路が理解できるレベルから、MRIなど先端医療機器、素粒子加速器、量子コンピュータ、マイクロマシン、ML、DL、ニューラルネットワーク、高度言語処理、NN、AI等に電子系分野は飛躍的に進化していた。
数学科出身のKくんは、そんなパラダイムシフトを難なく突破できた。
巧も工業高専で「電子計算機・パルス回路」専攻故、かろうじて突破できた。
そんな二人だったので、職場では最強のコンビだった。会社で、いちばん難しい仕事を担当した。実際、傍で見ていると大喧嘩しているように見えたであろう激論を闘わせて、とてもいい仕事をしたことも度々あった。
その仕事の内容は、文系出身の高齢の管理職たちには全く歯が立たない領域だった。例え、Kくんと同じ超一流大学の独文科出身の翻訳者であっても(巧の労働運動の最大の敵であるI総務部長はそうであった)。
ドイツ人管理職も、Kくんのフランス語、ドイツ語、英語、数学の能力を高く評価していた。
かつて、会社でいちばん難しくて、会社の名誉にも関わるMRIの某案件を巧に依頼したドイツ人管理職も、そんなKくんと巧の仕事を高く評価した。日本人管理職は、なんにも口をはさめない状態だった。要するに、やりたい放題だった・・。
Kくんの哲学、思想、スピリチュアル関係の読書量は半端でなかった。巧にとっても、職場に「パルメニデス」や「ソクラテス以前」「新プラトン主義」等の哲学者の話ができる人がいること自体、天にも昇る程うれしいことだった。だから、仕事中も、そんな話をよくしていた。実は。
巧にとって宿命的に重要なことを、Kくんは巧に注入した。
チベット仏教の瞑想法であるゾクチェン瞑想(rDzogs-chen Vipassana)と、神智学のブラヴァツキー である。この両者は、巧のライフワーク「パルメニデス」とも密接に関連していて(実は)、超重要である。Kくんには、感謝しかない。巧にとって、Kくんは、スピリチュアルの立派な師である。
Kくんも、当然、巧の労働運動を周知していた。
他の新入社員同様、管理職から「巧は悪いひとだから、近づかないように!」と言われていたにもかかわらず(もっと酷いことも)、これも他の殆どの新入社員同様、なんのわだかまりもなく、Kくんは特に積極的に巧と親しくした。
Kくんにとって、巧の労働運動は、関心領域の外にあった。
原子力資料情報室の創設者「高木仁三郎」には関心を示してきた。
巧も、事実上完全勝利した後だったので、この会社での労働運動は、どうでもいいことになっていた。
そんなKくんの感想・・。
「ずいぶん楽しみましたね! はっはっは!」
と大笑いした。
・・・そうか!
巧にとって、精神破綻寸前まで深刻だった労働運動も、客観的に観ると、そんなふうに見えるのか!
目から鱗だった!
巧は、実は内心、心配していた。自分なんかと一緒にいると、会社内でのKくんの立場が悪くならないかと。
しかし、そんな低俗なレベルは、Kくんは軽く、かるーく、超していた。
巧が大好きだったキルケゴールの専門家の実存主義哲学者I先生が言っていた「ユーモアとアイロニー」を想起した。
そうだ!
人生に必要なのは、ユーモアとアイロニーだ!
巧が単身決起した労働運動も、そんな大それた『正義』とか『信念』とかといったものではなく、巧が「楽しんだ!」と思えばいい!実際、楽しんだのだ!この労働運動のお陰で、巧の人生は、「棒に振った」どころか、実り豊かな充実したものになったではないか!
幸い完全勝利したけど、例え、裁判に敗訴して、労組運動が潰されていたとしても、それはそれで「楽しんだ!」と思うことだってありだったんだと思えるようになった。
スピリチュアルの師、Mさん、Kくんと出遭うためにこそ、この労働運動があったと心底思える。
こんな奇跡のような出逢いは、しようと思ったって簡単にできるものではない。
Jさんの涙に応えるといった・・
「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)
と思うことがまったくなかったかと言うと嘘になるが、このスピリチュアルの師たちとの出逢い故、まったく後悔はないし、むしろ、至福だったとさえ思う。
人間は、どんなに悲惨な状況であっても、ユーモアとアイロニーを忘れてはいけない。
17「他者のために生きる」?
巧は仏教徒である。
ゾクチェン瞑想(rDzogs-chen Vipassana)から分かるように、チベット仏教のBuddhistである(心情的には)。
「利他主義(altruism」」ということもあるように、他者の幸福のために自分を犠牲にするということは仏教徒の鏡でもあろう。
社会的「活動家」と呼ばれるひとたちがいる。時には、「過激派」とも呼ばれ、社会的に否定されることもある。
真の「活動家」、真の「過激派」の中には、『他者の幸福のために自分を犠牲にする』ことを、人生を賭けて生き抜いているひとたちがいることをご存知だろうか。
巧も、意に沿わず、労働運動に巻き込まれたお陰で、そんな100%優しいひとたちと出遭った。
これも、巧の「闘争」の大きな成果である。
巧自身も、「活動家」「過激派」と呼ばれていた。特に日本共産党の党員たちからは積極的に『過激派』『トロツキスト』キャンペーンを張られて、巧の単身決起の闘争と、その完全勝利をも全面否定されてきた。そんな党員たちも、同じように「活動家」と呼ばれることもある。
登山仲間であり、親友でもあるSの愛人たちが立て続けに遭難・病死した後、巧は積極的にSの山行につきあった。
Sは、傷心し、自殺の危険もあった。
巧は、当時「活動家」だった。
「他者の幸福のために自分を犠牲にする」精神から、Sの山行を共にした。
ネパールヒマラヤトレッキング、真冬の甲斐駒・仙丈ヶ岳・八ヶ岳・早春の穂高・・と、時には厳しい、身の危険もある登山もした。実際、早春の、まだ氷り切った北穂の斜面で滑落したこともある。
そんな巧の体を張った行動に、労働運動の仲間たちは否定的だった。「そんなふうに思って、厳しい登山につきあってくれるというのは、俺だったら嫌だな。」と言った仲間の執行委員もいた。
(実際には、Sは、巧を巧の本来の居場所「自然」に戻してくれた恩人なのだと思う。)
実際、30年以上も現場の「活動家」をやっていると、いろいろ思うところもある。巧の「三井三池労働争議」幼児体験が、その基層になっているのだが、だからこそ、なおのこと、大声で言いたいこともたくさんある。第一組合である三池労組の活動家たちを、こころから尊敬すると同時に、敗北した真の原因を本当に「総括」してますか?と問いたい気持ちもある。
巧自身、地域合同労組の執行委員、時には委員長として労働運動の修羅場を体験して、仲間の「活動家」たちをこころから尊敬すると同時に、なにか違う!と思うところも少なからずある。
現場に居た時には見えなかったが、そこから離れて、それでも世界には、日本には、まだまだたくさんの「修羅場」がある。むしろ、日々増えてすらいる。
そんな現場「修羅場」を見ても思うところがある。なにか違う!と。決して、そんな現場で闘っている「活動家」たちを批判しているのではない。むしろ、心から尊敬している。
ただ、巧の「修羅場」体験から、感じるところ、思うところが多々ある。
少なくとも、「活動家」であるということ、『他者の幸福のために自分を犠牲にする』という生き方は、決して「スタイル」でも「ファッション」でもないことは確かだ。全身全霊を掛けた「生き方」なのである。時には、人生そのものを、自分自身の命すら掛けた「生き方」なのである。その「覚悟」があってはじめて「活動家」になるのだと思う。特に今、ほんものの「活動家」のなんと少ないことか!
これは、闘う「組織」自身の宿命・本性なのかもしれない。スローガン・建て前と 本音の「差」かもしれない。スローガン、つまり「要求」を裏付ける現実的な力関係の分析の不足かもしれない。
どんな闘争でも、時には「戦争」もそうだが、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」、つまり、敵を知らず、己を知らなければ敗北必至ということ。三池闘争の敗北の一因でもあろう。闘争の「覚悟」も問われるのかもしれない。決して、「スタイル」ではないのだから。
それ以前に、「組織」を構成しているのは『ひと』であるという事実である。
マルクス・レーニンの思想に欠けているのも、この点であろう。異論・反論が大声で聞こえてきそうだが、むしろ、巧は、こんな現在の状況だからこそ、もっともっと「マルクス・レーニン」を深く読み込まなければならないとすら思っている。
「前衛」である「活動家」に最も必要なのは、「理論」でも「闘争」でもなく、『ひと』としての『覚悟』なのだろう。自分自身の人生を掛ける『覚悟』なのだろう。
時には、偶然勝利するということもあるのだろう。何かの偶然。歴史の偶然。偶然の気まぐれ。
しかし、だからこそ、しっかり闘争と向き合うこと、敵と向き合うこと、自分と向き合うことが、最重要なのだろう。
「万国の労働者、団結せよ」・・その『労働者』は決して『量』でない。
「量が質を変える」ことも事実だろうが、ひとりひとり違った感情と個性と人生観と、自己と他者の諸人間関係・社会的諸関係の『総体』を持った『ひと』である個人が『労働者』なのではないか。
そんな「組織」の構成要素である前に、『ひと』はまず「自己」であるべきなのではないか。そんな『ひと』のあり方を「組織」は最優先すべきではないか。
言うは易し、だが、だからこそ、「組織」よりも『ひと』が大切!
巧は、労働組合の執行委員として、担当している現場の個人との交流を大事にした。それは、時には、「労組員」である以上に「人間」としての交流でもあった。ひととひととの交流だった。それは当然のことだと思っていた。人間どうしなのだから。
しかし、「組織」である労組の執行委員たちからは、そんな巧の行動は批判・否定された。「組織」あっての「個人」であると。巧には、「お前を信頼していない。」としか聞こえなかった。
原則的労働運動は、それはそれでいい。すばらしいことだ。今の日本の労働者の労働現場の悲惨な状況は、原則的労働運動であったであろう「総評」の解体→御用労組「連合」支配にこそある。日本政府・資本側の目論見通りに進んだ。その最初の契機が「三池争議」の敗北であろう。
巧は、ドイツ人経営の翻訳会社に採用された最初の出社日の朝、「違う。ここは自分がいる場所ではない。直ぐに辞めよう。」と思った。
山小屋か何処かで働きたかった。Sのように山岳ガイドになりたかった。あるいは、「職工養成所」工業高専卒として地方の小さな工場でエンジニアとして慎ましやかに暮らしたかった。
しかし、企業内労組は、労災問題を巡って会社と対立していて、会社は本気で「労組潰し」攻撃を仕掛けて来て、あっという間に切り崩され、執行委員の女性Jさんの「どうしていいか分からないわ。」という一言、彼女の涙が巧を労組に戻し、結局は、これまで書いてきたような大闘争を職場では巧ひとりが闘い(地域の仲間に支えられて)、奇しくも完全勝利した。気が付いたら30年近く経っていた。
最高裁の勝利判決以降、巧はやりたい放題だった。新入社員たちとも深く交流した。
人生最大の出逢いと言っても過言ではない、スピリチュアルの師Kくんとの出逢いもあった。
しかし、Jさんの涙から始まった、巧の「ものがたり」は、これで「完結」すべきだと思った。
「チサの葉一枚のなぐさめが欲しくて人生を棒に振った」(太宰治)
「棒に振った」どころか、あるべき『道』をしっかり、望み通り歩んだのだった。誰かのお陰で、なにかのお陰で。
「それ」のお陰で。
仲間の執行委員たちにも、巧は「定年退職まで会社に居続けたら、私にとっては、それは敗北です。」と宣言していた。
巧の組合脱退の際には、当然のことながら、厳しい批判も少なからずあった。100%の確信を持った「活動家」からは、当然の批判だったのだろう。
ただ、闘争自体を裏切ったのではないので、むしろ、風前の灯状態の企業内組合から地域合同労組結成という「階級的」にはなんの文句もつけようがない状態での巧の脱退理由だったので、理解した執行委員「活動家」も少なからずいた。
巧は、定年退職まで10年以上残して、「闘争現場」である会社を自ら退職した。
本来の自己であるべく・・。
・・・楽しかった♪
・・・よく遊んだ♪
18.(最終章)「ものがたり」の終わり
・・・以上が、父巧の「ものがたり」でした。
父と祖父母三人の昔話でした。
・・夜が白々と明け初めました。
初めて聞きましたが、なんとなく感じてましたし、すぐ横で観てましたし、驚きませんでした。
父が自分で言う程、父は親不孝ではないと思います。だって、父母と祖父母とわたしたち兄妹の3世代同居をずっと続けてくれていたのですから。
・・確かに、父は家庭でも孤立していました。
父から聞いた話ですが、父巧が、組合の大事な会議で休日にも拘わらず出掛けるので、おばあちゃんが夕食の仕度をいつもより早くしたところ、未だ小学生の兄が「勝手に夕食時間を早くするな!自分が好きで組合やってんだろ!」と切れた時がありました。
完全に、言葉遣いからして、祖父が兄に注入した理屈と言い草でした。私たち兄妹の母も祖父も、兄の側から父を詰り、おばあちゃんも別の視点から父巧の体を思って、「大変だろうに」と会議に出掛けるのに対して、やんわりと反対側に廻りました。
言い合いが続いていた時、まだ保育園児だった私が「わたし、おとうちゃんの『組』に入る!」と叫んだそうです。
一瞬シーンとなり、父巧は内心うれしかったと何度も何度も繰返し言ってました。
よっぽど嬉しかったんでしょ。
あと、覚えているのは、わたしが小学生だった頃。
ある事情で、「学校行かない!」と強く言い張ったのです。
母も祖父母も、泣き叫んで抵抗する私に向かって「行きなさいよ!」「どうしたの!」と言うばかりでした。
父だけが、「行かなくていいよ。」と優しく言ってくれて、まったく理由も聞かず、自分も仕事を休んで、一緒に遊んでくれたことがありました。
翌朝、なにごともなかったかのように、ケロッとして学校にいきました。
・・私、父から叱られた覚えがないんですよ!
確かに、祖父と父巧との関係は、とても冷たかったのでしょう。兄が言うように。
でも、祖父の方が卑怯です!陰では、父の悪口を私たちに向かって言うくせに、それも酷く稚拙な、とても聞いていられないような悪口を。
それでいて、父の前では温和しくして、なんにも言わないんですよ!
内心、直接、父に言えばいいのに、と思ってました。
特に、兄は、すっかり洗脳されてしまって・・・。ある時から、父親に対して、喧嘩腰で、酷いもの言いをするようになってしまいました。
おばあちゃんは、酷く悩んでました。「同居がいけないのかねぇ。」って。でも、自分は、孫たちと一緒に暮らせなくなるのが酷く寂しいようで。
父に謝っていたのを聞いたこともあります。父は、なんにも言いませんでした。母は、同居をやめようとしない父を責めていたようですが。
それでも、父は、同居をやめることはしなかったのですから。同居は、祖父母の、特に祖母の切なる希望だったのですし。父は、自分の母親を思って、同居を続けたのでしょう。もし、別居したら、祖父母の最悪の関係がまた復活してしまうと思ったのでしょう。
・・と言うか、家族だからと言って、人間として、いちばん肝心なこころの部分、信念とかの部分が違うということが、そんなに、いけないことなのだとは、わたし、思いません!
価値観が違って当然じゃないですか!
人間なんだから!
それを無理やり同じにしようとする方が、むしろ家庭を壊すのではないでしょうか。人間性をも破壊してしまうのではないでしょうか。
ひととひととがみんな違っているように、家族のなかでも、それぞれ違っていていいじゃありませんか。お互いに、お互いが大事にしている部分を尊重しあえば。
と言うか、少なくとも、触れないようにすれば。父は、祖父母の過去の選択について、蒸し返して文句を言ったことも、自分から触れたことも一度もありません。言っても、どうしようもないことですし。
まぁ、ただ、父が言うように、父が生まれ落ちた時から持たされた原風景・原点と、祖父母が選択した生き方とが正反対、矛盾するに至った点は、ひとつの家族としては不幸としか言いようがないのでしょうが・・。
父が言うように、過去生からの因果とか、カルマとか言うんでしょうか。人間には計り知れない、大きなスケールでの宿命なのかもしれません。
まあ!とにかく、こんなふうに、ひと(他者)との関係を深いところまで考えて、実行してしまった父、なによりも、こんな御時世に最高裁で勝ち、それを梃子にして、職場の日本人労働者の人間としての誇りを守り切った父を誇りに思います。
この父親の娘でよかったと!
・・・それと・・・父は、決して地獄に落ちないですよ!
だって、メタトロンが守ってるんですもの!
終わり
-あとがき もうひとつの「三池争議」
数十年後、大人になった巧くんは、京都鞍馬寺のウエサク祭が深夜に終わった後、麓の駐車場にとめた自動車の中で仮眠しました。(巧が出遭ったKくんと一緒にウエサク祭に行こうとしていて、結局、実現しなかったのです。)
尊天のサナトクラマが、1850万年の時を超えて、とても意外な夢を見せました。
巧くんが父親にしっかり抱かれている夢でした。
巧くんは、こどものころからとてもリアルな夢をよくみるのでした。まるで現場にいるようなリアリティがあるのです。
そのとき、父親の温もりすら感じました。
目覚めてから、とてもびっくりしました。
人間は、奥深いもの。
巧くんの深層の深層では、前編の最後で書いた巧くんの救いがたい父親否定とは違った感情、意味があるのかもしれません。今は、まだ見えませんが。
実は、巧くんは、幼児PTSDのせいもあるのか、ここには書いてない不思議な体験をなんどもしているのです。
前編の基調となっている一本の糸を巧くん自身も家族も「封印」し続けていたのですが、じつは、深層レベルで見るとまた違った糸につながっていくのです。
文章に書くという行為は、漠然としていたものから何かひとつの「意味」をあぶりだしてくれるものなのかもしれません。
長年にわたって構想していたものを具体化できて、とてもうれしいです。
拙文、お読みいただいて、ほんとうにありがとうございました。
(闘争の過程で他界した組合側、会社側の方がたに哀悼の意を捧げます。)
(巧と同じ種類のPTSDを持ったであろう、持ちつつあるであろう、たくさんのパレスチナの幼児・こどもたちに共感の意を表します。)
(巧と父母の確執の狭間で心を痛めた長男にこころから謝罪します。貴方の言う通り、巧は、今でも、正真正銘の「精神障害者」であり続けていることを認めます。なにしろ、中島敦の言う「セトナ皇子*」なのですから。)
*(セトナ皇子:中島敦の短編小説「セトナ皇子」の主人公の「はじめに在ったものは、なぜ在ったのか?無くてもよかったのではないか?」という疑問を持ち続け、木偶状態になって一生を終えたという物語。)
*** フィクションです。実在の組織、人物とは関係ありません。 ***
2025.1.28