『わたしのつれづれ読書録』 by 秋光つぐみ | #54 『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』 長島有里枝
2024年11月7日の一冊
『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』
長島有里枝(大福書林)
怒りのエネルギーは無駄か?
私はそうは思わない。
怒りのエネルギーを無関係の他者に向けて破壊する行為と、その時間は無駄だと思う。本当言うと "怒り" という感情自体も、無くてもよいものではないか、とも思う。
しかし、怒りのエネルギーが生み出す "もの" 極端に言えば、怒りのエネルギーが生み出した "作品" それを原動力に立ち上がった "ムーブ" のようなものにはつい、心を奪われてしまう。
人が理不尽に打ち砕かれ、心底煮えたぎる想いを抱えたとき、その爆発力に圧倒されることを知る。
"怒りを原動力に生み出したものによって爆発的に人を圧倒する" その背景に起きた事象を自ら言語化し、改めて問い直した写真家がいる。
長島有里枝。90年代に生まれた若い女性アーティストによって誕生した「写真ブーム」。その潮流の中心で、ムーブメントの一端を担った木村伊兵衛賞受賞作家だ。
今日の一冊は、長島有里枝によって2020年に発刊された『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』。
彼女の写真がなぜ評価されたのか、その背景には誰のどんな考えがあったのか、周囲の人々は純粋に "写真" を見ているのか、大変短絡的な言葉で表すと"ムーブメントのしかけ" の材料に過ぎなかったのではないか‥
そんな議論を投げかけている。そのように私は捉えている。
当時の女性に対する社会的背景と、写真業界が有耶無耶にしていた若い女性写真家に対する眼差しがどのようなものであったかを、あらゆる媒体に残された、「僕ら」つまり写真家あるいは写真評論家たちの過去の言説を洗い出し、再検討を試みる。
長島と同時期の受賞で一躍注目を浴びた HIROMIX、蜷川実花らを並べ「女の子写真」を語りたがる「僕ら」の勝手でいい加減な理論をぶった斬る。
「女の子だから」「女の子らしき」「女の子ならでは」と言った、あくまでも「女性性」という括りに収めておきたいといった彼らの薄汚れた見解を、徹底的に追撃している。
そして、これらを踏まえたうえで「ガーリーフォト」たるものについて最後に語られる。
私自身、コロナ禍の真っ只中で写真作品を制作し個展をするなどして、自己の存在意義のようなものを模索して足掻いていた。
その当時、本書を読み激震が走った。評論というものを丸ごと一冊読み切ったのは初めてであり、その早さは驚異的だった。それほどの吸引力があった。
そこに並べ立てられる男性写真家たちの無配慮な物言いに怒り絶望し、それに論理的に徹底して追撃を繰り返す長島氏の主張に漲った。
正直言って、私自身のこの本に対する理解力、許容力、説明力などを鑑みると、この連載で紹介するのは自分には力不足な気がしたし時期尚早でもあり、取り上げたいが尻込みしてしまう、そんな日々が続いた。
しかし、完璧な紹介などはじめから目指してはいないし、それを誰かが求めているともわからない。
そして思い至ったのは、この本をきっかけとして私は "議論" をしたいということだった。
80年代後半から90年代にかけて欧米で巻き起こった "Girly" ムーブメント。これは音楽やファッション、アートなど文化活動を通じて、CD や ZINE 、洋服、展覧会などの形態で日本に輸入された。
これらを紹介したのが、資生堂の企業文化誌『花椿』での仕事を通してアメリカのガール・カルチャーに興味を持った林央子。ソニック・ユースのキム・ゴードンやソフィア・コッポラへのインタビューを行った。
林氏が長島氏を含めた彼女らの活躍を見て
こうした、長島氏自身が体現してきた "「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォト" までの潮流を、この一冊によって痛みを得た事実と真っ向から向き合い、それを激しく現実的に知らしめながら、次世代の "わたしたち" への希望も与えてくれる。
本を読むのに男も女もない、まずはその境界を消し去って。しかし、これを読んで何を考えるか、議論してみたいと私は思っている。