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生きるの”い”はインドカレーの”い”

イヤホンが無い。いつもに増して見つからない。
こう言った時には潔く諦めることが、生きるコツだ。
ワイヤレスのヘッドフォンを手にする。
ようやく涼しくなってきたし、気分を変えてヘッドフォンと言うのも良い。

家を出て、駅につき、いざヘッドフォンの電源を入れると、充電が無かった。

ふーーーー、と息を吐き、心の中で笑う。

こういう時、笑える様になった。
そういえば今朝は小指をぶつけたことを思い出す。
今までの自分だったら、今日という日を諦めていた。
”ダメ日”と名づけてぶっきらぼうに24時間を流していただろう。


最近の生活のテーマは「凛と生きる」だ。

元々から自分はこの世で起こる多くの事象に対して、大きく感情が動きすぎてしまう。
長所として”共感力”と言われれば納得できる様な気はするが、実態は短所として現れる。
とにかく疲れる。
それを知るだけで心が痛み、実際にそれに踏み込むことが困難になる。
そんな自分がとても嫌になる。
自分の幸せを喜べなくなる。
そうして、卑屈になる。

卑屈とは、保身だ。
そして可能性を削っていく。


そんな人間失格的な循環から脱却すべく、「凛と」生きようとしている。

私は、たまたま共感力が高かった。
そこにはもう抗えない。
知るだけで疲弊し、行動できず、自分が嫌になる。
免疫力みたいなものがたまたま無かったのだ。
その代わり、共感力を得た。
そんな自分でも多くの辛く、心が痛むような実情を知る努力は怠らない。
人に直接的な影響を与えられなくても、自分の生き方を模索する。
そこは誇って良い。
たまに、どこかに貢献できてはいる。

そう思っておく。


そんなオリジナルの「凛」は満員電車のハイヒールによって押しつぶされそうになる。

左足の中指。

左足の中指だけが人間失格ルートをたどり、全身がそこに吸い込まれそうになる。

駅に到達し、ハイヒールの持ち主に「お勤めご苦労様でぇぇぇっす、、!!」と心で叫びながら電車を見送り、なんとか人間失格ルートから逸れる。
こんなことではへこたれんよ。


しかしやはり、難しいのは「凛と」することではない。

スマホでニュースを見ながら思う。
難しいのは「生きる」ことだ。

多くの想像の範囲外のことがこの世で起きていて、自分はそれを知る事しかできない。
なぜできないのか、というのはできるできないの話ではなく、そこに一歩踏み込んだ瞬間に、生きることを放棄したくなってしまうからだ。
どうしても生きたいから、贖いとして、知ることを選んでいる様な。

自分は、人を殺そうと思うほど、人を恨んだこと、怒ったことはない。
これも、たまたまだったのかもしれない。

「生きる」ってどういうことなんだろう。

漠然とした、あまりにもでかい問いにさりげなく直面する
喫茶店に入店が如く、直面する。

ふと、星野源のエッセイに書かれていたことを思い出す。

生きるのは辛い。本当に。
だけど、辛くないは、生きるの中にしかない。
だから、私はいつも出口をなくさないために気をつける様になった。

いのちの車窓から 2

帯にも書かれているこの文章だ。

出口。。。
しばらくこの”出口”が引っかかっていた。
この人生に”出口”なんてないとずっと思っているから。

そんなことを考えながら私は、マトンビリヤニを待つ
午前中の授業を終え、近所の行きつけのインドカレー屋さんで少し遅めのお昼ご飯だ。
新メニューが出たと言うので、早速訪れた。

生きるために、出口が必要なのだとすれば、自分にとってそれはなんなのか。
なぜか、答えは近くにある気がしている。

マトンビリヤニが到着する。
うまそうすぎる。

付け合わせにライタという、細かく切った野菜をヨーグルトとスパイスであえたものが出てきた。
マトンビリヤニを一口食べ、期待を大きく超える美味しさを確認した後、ライタを食べる。
うんんんんま。なにこれ。

説明できない。とにかく上手い。
このエッセイを書きながら現によだれが出ている。

このライタをぺろっと平らげてしまったその時、店員さんが”いつもありがとうございます”と言いながら、ラッシーをサービスしてくれた。

いいんですか、こんな至れり尽せりで。。。

「それ、ビリヤニにかけると美味しい」と彼が呟く。
その視線の先には、私の左手にあるライタが平らげられたインド食器。
あっ。。
と思った瞬間には、彼は厨房にヒンドゥー語で何かを喋り、ライタを追加で持ってきてくれた。

至れりれり尽せりせりじゃないか。

その時思った。
出口っぽい何かを感じる。
ここでインド料理を頬張り、常連客としてお店のご厚意に甘えちゃう。
これが出口かも知れない。

いったんこの出口から出たとして、その扉は入口として絶対に私を吸い込む。
でも、こうして一度出ることで、また入ることができる。
それはそれで、生きることなのかも知れない。

生きるの”い”はインドカレーの”い”

この合言葉を出口としよう。
たまたまそう思える思考を手にいれ、たまたまそう思える味覚を持ち合わせていたのだ。

多くの”たまたま”に悩んで「生きる」ことを悩むのなら、数少ない”良質なたまたま”に「生きる」の三分の一くらい担わせてやりたい。

そうちょっとだけ雑に結論を出し、私はマトンビリヤニにライタをかけ、食べ勧めた。
絶品だった。
この美味しさは、たまたまなんかじゃない。

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