手放すということ(2)「たまごがほしい」
東日本大震災が発生したのは2011年3月11日、金曜日のことでした。
翌週14日の月曜日も余震は頻発しており、会社に出勤してはみたものの、夕方には帰宅命令が出ました。
家に帰ってきて……
そうだ、買い物に行かないと。
食料買い出しに行ったメインの理由は、卵が切れてしまっていたから。
卵は1週間に1回、2パック購入するのが我が家の習わしでした。
いつも行くスーパーに行ったところ、卵売り場は空っぽ。
ああ、売り切れか…と、その先の少し大きいスーパーに行ったら、ここにも卵は1つもありません。
もしや……地震の影響で入荷されないのでは? と、ここで気づきました。
いやいや困る困る我が家には中学生の息子がいるのだ良質なタンパク質を与えないと成長に影響が出るなんと言ったって卵は完全食なんだあそこのスーパーに行けばきっとあるなんとしてでも息子に卵を食べさせたい食べさせねば……
このセリフをずっとリピートしたまま、かなり遠くのスーパーまで回ること5軒。
卵売り場はどこも空っぽでした。
6軒目に行こうと自転車を漕ぎ出したところで、ふと気づきました。
……卵なんて、1ヶ月くらい食べなくても死なないのでは??
そう思った瞬間に肩から力か抜け、頭の中を巡っていたセリフのリピートが途切れました。
つきものが落ちた感じ。
1週間、卵なしの生活をして次の土曜日。
スーパーへの買い出しの際に、そういえば卵あるかな??と卵売り場まで行ってみました。
が、当然まだ空っぽの状態。
まあ、そうだよね。
でも卵食べなくても死なないし。
豆腐でも買っていこう……と思ったその瞬間。
奥さん、卵、いる?
横を見ると品の良い女性がいて、自分の買い物カゴの中の卵を取り出して言いました。
私ね、卵は一人1パックっていうのを知らないで2つ持ってきてしまったの。
レジで1つだけですよ、って言われて。
もしあなたがいるなら、これ、持っていって。
神様!
本当にありがたく、ありがたくいただいて、その晩は息子に卵を食べさせました。
卵に囚われていたときの視野の狭さ。
でも、それを手放した瞬間に見えてくる選択肢の多様さ、さらに最終的には欲しいものが手に入ってくる不思議。