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【野球ファン助けて】カフェで77歳のマスターと大谷翔平の話をしていたら、70年前まで飛ばされました

前回の記事で、大谷翔平選手のルーツがマリリンモンローのお尻というトンデモ理論を展開してくれたマスター。

おかげ様でたくさんの方に見て頂いたので、先日報告会を開きました。
すると、大喜びのマスターから出るわ出るわ、野球秘話の嵐!

野球を愛するnoterさん達へ
終戦生まれのマスターが体験してきた野球の世界を、ぜひ一緒にご堪能下さい!


大谷翔平選手とモンローウォーク

―――前に、野球の話をしてくれたでしょ?『大谷翔平選手のルーツが西鉄の中西太選手だった』っていう話

はいはい。

―――あれをインターネットに公開したら、人気の記事になりました。

あ、そう!(笑)そんなことあったん!おもろいなあ、それ。
ほんとにインターネットのつながり方っていうのは凄いね。
しかし、まだ年端もいかない、それも女子が中西の話なんか書いたら、野球ファンのおじさんが見たらびっくりするやろな(笑)

ほな、今日は野球の話しよか!

※私はいい年のアラサーですが、終戦生まれ77歳のマスターからすれば年端もいかない女子なのです

知る人ぞ知る名選手「尾崎行雄」「前岡勤也」

大谷選手ってほんまにすごいやんか、その前だとダルビッシュ選手もね。
そういう名選手の中で「誰が一番すごいねん」とか、野球が好きな人やったら定番の話題やと思うねんけど。

僕の小さい時なんかマセてたから、あんまり聞いたこともない、もうテレビに出て来ないような選手のことも覚えてるねん。
例えば、東映フライヤーズっていうチームにいた尾崎行雄選手とか。甲子園で1年生2年生投げて、あんまりすごいからプロが引っ張って、2年の秋か3年の夏休みかに甲子園で負けて出られなくなってから、中途退学して入ったんや。

―――中途退学して入団!?

そう。その後3年くらいでペケになったけども、1年目2年目なんかものっすごい速くて!

尾崎行雄(おざきゆきお)は、1961年浪商高2年時の夏の甲子園にエースとして出場。豪速球を武器に勝ち進み優勝投手となり”怪童”と呼ばれた。同年11月で高校を中退し、すぐに東映フライヤーズに入団。1年目から20勝を挙げ新人王を獲得し、チームの日本一に貢献。その後も64~66年まで3年連続で20勝以上を挙げるなど活躍していたが、67年が60勝に終わり、またこれまでの酷使によって肩を痛め、その後72年まで勝利を挙げることができなかった。その72年も3勝で翌73年にはほぼ登板できず、29歳とまだ若かったものの同年で現役を引退した。

週刊ベースボールONLINE『尾崎行雄』

後は、阪神にいてた前岡勤也とかね。検索したら出るんかな?

1937年8月13日、三重県亀山市出身。和歌山県立新宮高校時代、夏の甲子園で2年連続の活躍を見せ、プロ球団の激しい争奪戦の末、大阪タイガースに入団。この時の登録名は「井崎勤也」。大きな期待を背負ってプロ入りしたものの、「前岡」姓に登録変更した1959年に挙げた1勝が唯一の勝利となった。1961年からは中日でプレー。野手に転向後の1964年には51試合に出場するも、同年限りで引退した。

(月刊タイガース『本間勝交遊録』)

その頃はテレビがなかったから、ラジオで野球を聴いてました。ラジオと新聞でね。

―――ラジオで野球を聴くってどうですか?映像じゃなくても楽しめる?

楽しめるよ!実況の言葉と自分の想像力でいくわけでしょ。むしろ、映像で見るっていうのは便利になったら退化するんちゃうかな。

そうか、しかし…人気記事になったんか。ウケてしまうな(笑)
第一あんた、野球知らんし新聞も読んだことないって言うてたのに(笑)ほな、『アブサン』の永淵選手の話はどうなった?

―――書きましたよ!永淵選手は、元祖二刀流なんですよね。

永淵さんのプレイスタイルは、色んな場合がありましたよ。
ピンチヒッターで出て、そのままピッチャーして、1回か2回だけ投げて引っ込む『ワンポイント』の時もあるし、ピッチャーで出てきてワンポイントが済んだらライトを守ってそのまま打ったという例もある。
3年目ぐらいの時に、結局ピッチャーよりも打つ方に力を入れるようになって、首位打者になったわけ。

せやから三原監督ていう人は、大谷選手よりずっと前から永淵っていう選手を『二刀流』で使ってたといえるわな。ワンポイントみたいな使い方も、三原さんが最初なんちゃうかなあ…。

―――中西太選手から栗山英樹さんに継承された『三原マジック』ですね。

そう。ここをもっと遡ってみよか?

三原監督 因縁の西鉄VS巨人対決


三原さんがなんでそうなったかというと、彼は西鉄監督時代に優勝して有名になったんやけど、もともと巨人の人なんです。
終戦直後(1947~49年)は巨人で監督やってたんですよ。
でも、その頃に水原茂という人がシベリア抑留から帰ってきてね。

シベリア抑留(シベリアよくりゅう、英:The internment in Siberia[1])は、第二次世界大戦終戦後、武装解除され投降した日本軍捕虜民間人らが、ソビエト連邦(ソ連)によってシベリアなどソ連各地、モンゴル人民共和国モンゴル抑留)などソ連の衛星国労働力として連行され、長期にわたる抑留生活、厳寒・飢え・感染症の蔓延る過酷な強制労働により多数の人的被害を生じたことに対する総称である。

Wikipedia『シベリア抑留』

水原さんは、坊主頭でシベリアから帰ってきたらその足で後楽園球場へ行って
「水原茂、ただいま帰ってきました!」みたいなことを、観衆の前で言うたわけ。そしたら、みんなワァーっとなるでしょ。
「シベリア行って苦労してんなあ!ほんまにかわいそうやったなあ!」ってワァーっとなって、その時三原さんが監督やってたのに水原さんの方にみんなの同情が集まって。
その次の年に三原さんは監督を辞めたんです。自分で辞めたのかどうかは知らんけどね。まあ、居づらくなったのかもしれない。それで巨人の監督は水原さんになったわけ。
それがあったのが、両リーグ分裂の前の時代ですよ。昭和21年から22年くらいの時。

―――セリーグ、パリーグになる前!?

そうそう。ほんで、三原さんはしばらくしてからパリーグが出来た時に西鉄ライオンズの監督になった。
西鉄の監督になって西鉄が優勝して、三原さん率いる西鉄と因縁の巨人が初めてぶつかったんやけど西鉄は負けてしまった。

西鉄っていうのは中西太とか大下弘とか、そういう『野武士』って言われるような選手がいてね。

―――野武士?

次の日試合があるのに、明け方まで酒飲んでるような人ばっかりやった(笑)対して、巨人は紳士ばっかりやったなあ。
巨人と西鉄が試合やいうたら、水原と三原…まあライバル同士っていうか、メディアはものすごい煽るわけですよ。『巌流島の戦い』なんて言ってね。

戦後の野球事情

そういえば、これは僕が関西へ出てきてから知ったんやけど…ずっとうちの店に通ってた常連のおじさんがいたんですよ。コーヒーが好きでね。
彼の家は銭湯をやってたから、阪神大震災の後はみんな無料で風呂に入れたり、代々そこに住んでてよく知ってるわけですよ。

その人から聞いてびっくりしたのが、終戦直後の話。
野球選手も兵隊へ行く人がたくさんいたんです。戦争が終わって帰って来ても、もう家があらへん。それどころか一面、焼野原や。
どうしたかっていうと、お金持ちの人達が、家に住まわせて養ってたらしいんです
阪神間の山手の方は、あまり空襲を受けてなかったからね。

家も教えてもらったけど、川上哲治選手が住んでたよって言われたわ。
「川上って巨人の選手なんやから、東京ちゃうの!?」と思ったけど。

―――関西まで来てたんですか?

だって、住むところがないからね。野球なんか当分始まらへんし。

おわりに

―――今日も貴重なお話、ありがとうございました。知らないことだらけでした。

さっきのおじさんの話もそうやけど、僕の話なんていうのは、色んな方から見聞きした話も入ってますからね。

―――でも、野球初心者の私からしたらすごく刺激的ですよ。もしかしたら、もっと詳しいnoterさんが補足してくれるかもしれない!

ほんま、インターネットっておもろいなあ(笑)

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